手話の旅人 荻野好友さん 旅は道連れ 人から人へ (7月31日すいごごカフェ)


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ろう学校を転々とした子ども時代

1949年11月14日、新宿区若松町で5人兄弟の末っ子として生まれる。

3才で病気になり、国立第二病院に入院した。マヒが残った。

5才で立川ろう学校の幼稚部の寄宿舎に入った。3年後、新宿ろう学校の小学部に通った。

その時事故に遭い、ケガをした。1年位経ち、ビルが建つので廃校になり、杉並ろう学校に転校した。

兄とケンカしたので、千葉ろう学校館山分校の寄宿舎に入った。

そこで中学に上がり、中退した。手のことで、先生や友達からいじめを受けて、中学部を途中で辞めて、新宿の家に戻った。

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施設で暮らし働いた青春時代

その後、戸山サンライズで手話の勉強をしていた。母の知り合いと一緒に、葬式で飾る、竹の花輪を飾る仕事を流れ作業でやったりした。

1968年に芝浦更生館のダンボール科に入った。平日は寄宿舎で、土日は家に帰った。空港から見える所で、モノレールがうるさかった。

1972年、世田谷更生館に移った。ダンボール科だけでなく、鉛筆を作るなど、いろいろな科があった。友達も多くいて、沢山交流した。

芝浦も世田谷もどちらも手話会があり、ろうあ者と聞こえる人で一緒にサークルをやっていた。世田谷更生館には、近所にあった梅ヶ丘学園の人達が沢山入ってきた。入ってきた人から悪口を言われたこともあった。

 毎年、品川で三笠宮夫妻を招いて、ボウリングの全国大会が開かれ、障害者が全国各地から集まった。有名なプロボウラーの矢島さんら沢山の選手も来てサインをもらった。
 
当時から映画を観るのが好きで、ゴジラやフ―テンの寅さんシリーズやトラック野郎、舟木一夫の映画などをよく観た。東映、東宝、松竹、日活、大映の映画を沢山観た。大映はガメラが好きだった。
 
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手話で世界をつなげてきた埼玉時代

1982年に父が亡くなり、平成に入って越谷に引っ越してきた。それからべしみに来て、わらじの活動にも参加した。

 越谷に来た当初から手話のサークルで勉強していた。サークルに昔から関わっている会員も沢山いる。この近くの店にも、手話サークルの会員がいた。今は結婚してほかの所に住んでいると思うが。

 縁があって、当初、共栄短大に手話の指導に行っていた。大体15年位続けた。それから、立教大学や川越の国際商科大学、文教大学にも手話の指導に行った。

それから県立大学に行くようになった。今は水曜日にべしみを途中で抜けて昼間に教えに行き、終わったら戻る。

橋本克己さん宅の手話会もずっと続けている。

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旅が好き もっと旅したい
 
前に、亡くなった臼井さんと群馬県にいる友達に会いに行ったことがある。赤城山の近くで、お祭りをやっていて、TVの鑑定団に出てくるようなこけしが沢山並んでいた。


本田さんも旅行が好きで、山形県に一緒に旅したことがある。広島にも旅行した。

今度、島根県とか猪苗代の野口英世記念館にも行ってみたい。克己くんと行きたいがムリかな?

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いろいろな手話 いじめもあったけれど

 兄弟5人のうち、上の2人とは、筆談でコミュニケーションをする。2番目の姉は前に越谷市の手話サークルで勉強していた。3番目は戦争で亡くなった。4番目の兄は元校長で、甲子園に出場した監督で、手話もできる。

 自分の場合、マヒで片手が中心の手話になるが、TVの手話ニュースでも左手でやっている人もいるので、それを真似している。時々通じないこともあるが、ほとんど通じる。左手だけだが読み取れているし、私も相手の口を読み取ったり、筆談も交えている。

 子供時代、場所によって手話が違ったが、それなりにコミュニケーションはとれていた。千葉ろう学校のときは、後に川で亡くなったとしひろさんという人とよく遊んでいた。千葉ろう学校の遊び仲間が8人いて、そのうちの6人とは今も交流が続いている。

 館山分校中学校の時、手のことで、友達や先生からいじめを受けて、中学部を途中で辞めて家に戻った。そして戸山サンライズで手話の勉強をしていた。
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