加害を共にひらき弔う旅の途上でー安保法制違憲訴訟原告団共同代表・倉橋綾子さん/5.22すいごごカフェ

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 5月22日のすいごごカフェは、ゲスト・倉橋綾子さん(安保法制違憲訴訟・埼玉原告団共同代表)による「憲兵だった父の遺したもの」と題するトーク。倉橋さんは同名の著書を書かれている(㈱高文研 2002)。ほかにもさまざまな著書がある。

 「一昨年、軽い脳出血をやり、早く手当てをうけ軽く済んだものの後遺症が残り、声が出たり出なかったり、疲れやすくなったりしていますが、きょうは張り切ってます。」と、話を始められた。以下はメモから。


 1947年(敗戦2年後)生まれ。まず私の父の話から。父は1915年(大正4年)生まれ、父の家は自作農、そのまた父親が馬狂いというか、いい馬を買って来て育てて・・・というのをやって全然儲からず、今で言うとパンツも買えないような状況だった

 高等小学校までは出たが、中学校はお金がなく家でごろごろしていて悔しくて、憲兵になろう、出世できるからと勉強して試験を受けて合格した。

尊敬する父が謝罪の遺言?

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1947年、北京の盧溝橋の両端で撃ち合った、その盧溝橋事件の2週間後には憲兵に出動命令、父も天津に派遣された。

母親はおじいさんが人が良すぎて騙されて家や畑を売ってお金がなく、従軍看護婦になった。給料のほとんどは、生まれ故郷の兄弟に衣服や靴を買って送った。

両親とも貧しさから抜け出したくて戦争に乗って行ったと思う。
1945年に敗戦後、父はソ連軍に武装解除されてその後シベリアの手前までいったが脱走し、北朝鮮の境目で中国軍につかまって、中国の陣地を作る作業に従事させられ、また脱走して1年後に帰った。亡くなった後に伯父(父の兄)から聞いた話。

農家の三男でもらえる田畑はなく、綿を2~3本売ってはもうけた金で洋品店をひらいた。

私は3人きょうだい。兄たちは二人とも亡くなっているが、その3人と父母との生活。

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1986年父は肝硬変で亡くなった。自分で自分の体を分析して、自分としては死ぬ用意をしていた。私はその頃足立区で教員をしており、生徒の非行と格闘中。父を見舞いに病院に行くと、最期の方は点滴の跡だらけでどこに刺していいのかというほど。ふと眼を覚まして「綾子か」とごそごそと小さな紙切れに鉛筆で書いたものをよこして「これを墓に刻んでくれ」と言われた。「うんいいよ」といったら安心したのか眠ってしまった。

「旧軍隊勤務十二年八ケ月、其間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)として、天津、山西省、臨汾、運城、旧満州、東寧、等の憲兵隊に勤務。侵略戦争に参加、中国人民に対し為したる行為は申し訳なく、只管お詫び申し上げます」

あとになってそれを見て、これは平謝りに謝っているんだな、放っておいては悪いと思い、兄に相談した。上の兄は子どもの頃から対立していて、下の兄が店を継いでいたので二番目の兄に相談。すると「俺もその紙切れをもらっていた」と言う。「おじさんももらっていた。もう相談して「もうボツにしていいんだ」と言われたという。理由は「自分や子どもは悪くないのに墓に刻まれたら気分が悪い」「ほかの年寄り連中もやったのに、なぜオヤジだけがバカ正直に謝らなきゃならないんだ」と。それも一理あるし、ひとりでは決められない、とその時は引き下がった。

東京にいたそのおじさんのほうにのちに相談した。
「狭い村の中墓に刻んだら人聞きが悪い」「弟(父)はやさしいから部下のやった悪いことを詫びてるんだろう」と言う。そのおじさんも憲兵だったが、3年で辞めた。体が悪いので足手まといにされ、チャンスをみつけてやめて、敗戦前に日本に帰ったという。賢かったんだなと思った。


遺言を受け取って4年後に身体を壊したのと、子育てが大変なのと。他の人生もあるかな?と教員を退職した。友達からは「燃え尽き症候群じゃないの?」なんて言われた。
昼間から家にいるようになって時間ができて、そこで初めて遺言をまともに考える事になった。辞めてなかったらずっと後回しになっていたんじゃないかと思っている。時間が与えられてよかった。

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私は父親を尊敬していた。子どもの頃よく父は中国人をほめていた。「中国人はものすごく正直だ。病院の賄い婦のひとは日本兵の枕元へ食事を運ぶ時に、どんなに自分がひもじくても決してごまかさなかった」と。父は疑わなかった。だから憲兵であっても悪いことはしなかったんじゃないかと思っていたが、でも遺言に書いたというのは、父にも裏があるのではと思った。

父と一緒にいた憲兵達を探そうとした。大変だった。普通は兵隊というと地域によって連隊があり、日誌や記録が残っていたが、憲兵は全国で募集して、まとまった記録がなく、調べるのが難しかった。じゃあどうしようかな、といろいろ考えて、父が何処で何をやったのか、群馬の軍人恩給を申し込んだときの軍歴証明書を取り寄せた。それで父が何処にいたのかがわかった。本当は逃亡したけれど、移動と書いてあった。

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全国憲友会という団体の名簿が借りられた。敗戦時に全部で37,000人いたという。そのうちの17,000人分の一覧表が借りられた。初めは東京都から調べていった。父が最後の任地として書いていた東寧の隊にいたと思える人の家に電話してみた。ほとんどの人が病気でしゃべれない、亡くなっていると言われた。ある人が葉書でこの人はもしかしたら東寧にいたかも、と情報をくれた。そこに住所も記されていたので、その二人に手紙を書いた。

青森の方は奥さんが、夫はアルコール中毒で話せないが夫から前に聞いた話として、現地の沼で泳いだ時、「お前は泳げるかなあ」と言われ、「自分は津軽海峡で泳いでいました」と答えたら「すまん、すまん」と笑っていた、やさしかった、それしかわからないと言われた。

もう一人は父のいた東寧の石門子分遣隊の隊長さんで、奥さんともどもまだ元気で、名古屋のお宅に行って一泊させてもらい、話を聴いた。昔の事は忘れた、と言っていたが、父と母の写真を見せたら、涙を流して喜んだ。証拠は燃やせと命令がでて全部逃げる前に焼いたから、父達の住所も写真も分からなくて、顔も分からなかったが写真を見て思い出して泣いてくれた。
奥さんが言うには石門子は山ばっかりで雪も深くて7月になると真っ白なスズランが一斉に咲いてそれはきれいでみんな喜んだ。みんなで畑を耕した、日本の神社の所を通る時は中国人もお参りさせた。昭和20年敗戦の年の正月だって憲兵は良い暮らしができた。国民が大変なめにあっているとき、鯛の尾頭付きや売店のようなところで贅沢なものもあった。そんな細かい話をどんどんしてくれた。

予め私が手紙で書いた、お詫びの文章について、何か父がしたのか?ということに関しては全く話が出てこず、こちらから訊いたら、「東寧はロシアとの国境だから何もなかった所だ。せいぜい言えばスパイ合戦があったが、なにも詫びるようなことはなかった」とだけ言ってすぐ他の話になった。次の日の朝に訊いても「何もなかった」と話をそらされ、結局何もわからずがっかりした。

二番目の兄に手紙を書いて、「兄さんの気持ちは変わらないですか?」と訊いたが、返事をくれなかった。

中国への旅で出会った人々

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 そんなころ、新聞で「日本の戦争責任資料センター」ができるという記事を見つけて、その責任者に手紙を出したことがきっかけで、精神病理学者の野田正彰さんがインタビューを申し込んできた。元日本兵たちの罪の意識をずっと研究している人。
いきさつを全部話し、最後に野田さんは「倉橋さんなぜあなたはお父さんが生きている間になにをしたか訊こうとしなかったんですか?」と言われた。

そういう質問をされるという想定もなく、自分には親に訊こうとする意識がまったくなかった。ずっとあとあとまで頭にのこった。

その一言でようやく目が覚めた。父を何で尊敬したかというと、一生懸命働くことと、昭和天皇をみそくそにけなしていた。昭和天皇が生物学者になったことについても、葉山の池に足を入れて遊んでいたら、珍しい蟹のようなものがついてきたので、「生物学者」になったんだとか言っていた。天皇への反発心をもっていて、世の中のことを教えてくれる。自分の父親はいつも正しいと思って尊敬してきた。
そんな自分の頭もようやく変わり始めた。


日本という国は加害については語らず、被害については語る。記念日は長崎と広島の原爆、敗戦、大空襲、などで、毎年式典がくりかえされる。しかし、たとえば7.7は七夕ではなく、盧溝橋事件で日中戦争が開始された日だし、9.18は柳条溝で南満州鉄道が爆破された日。8.15も日本では敗戦記念日だけどアジアの他の国では解放記念日。まったく光と影が逆。もっと加害についてしっかり考えるべきだが、日本では出来るだけ触れないようにふせてきた。

 どうして父たちの世代は戦争に巻き込まれたのか?天皇をどうして神格化したのか?父たちの世代だけでなく、自分自身もおなじようなもので、孫悟空がお釈迦様の手のひらで遊んで息巻いてるみたいな感じで、日本は悪かったって息巻いていたけど、実際の加害を受け止めることがなかった。
それからは加害について運動をしている人を訪ねる等してきた。


 三年後1998年1月ににETV特集で野田正彰さんと「戦場の父の罪をめぐる対話」をすることになった。
その終盤に「倉橋さん、あなたのお父さんは戦争中におかした犯罪を個人として謝ったわけですね。つまり、個人としての責任を貫いたわけですよね。 あなた自身はお兄さんの反対があって遺言を果たせないのは妥協であるけれど、この日本では個人の責任は貫けないんでしょうかね。」と言われて、その時はうなずいて話をあわせたが、あとで録画を見て胸に突き刺さった。

自分はどうしたらいいか。そのときすでに次男は自死していた。それでも自分は、墓に刻むのは、兄が反対していたからだめだと思っていた。兄が亡くなったなら、自分の意思を貫いても良かったがその時はその考えがなかった。

野田さんに「あなた自身が個としてどうするのか」と言われたことが、だんだん心にのしかかってきた。そして、兄の跡を継いだ甥に手紙を書いた。コピーがないから分からないけれど、必死になって書いたのは覚えている。こんなに一生懸命書いたのは若いころラブレターを書いて振られた時以来だとおもった。

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ポストに投函して後悔した。4日くらいして、甥から電話で「墓に刻んでもいいよ」といわれ驚いた。「ほんとうにいいのかな?」といったら「おじいちゃんは自分がやった悪いことを素直にお詫びしているんだから、いいことをやったんだ、」と「もしおばさんが一生抱えさせられたらかわいそうだ」と。「じつは自分の父からもその遺言は受け取っている。」と。

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9ヶ月後には一族の墓地に刻んだ。墓にそのまま刻むのは兄が嫌がったから、と130センチくらいの碑に刻んだ。ということで、ほっとした。

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 その後、どこから漏れたかわからないが、この碑のことが伝わって、2000年に3回。立て続けに中国を訪問した。一回目は南京の虐殺記念館にお詫びの樹を植える会。二度目は北京の抗日戦争記念館。感激して涙ぐんだ時に中国の人が「倉橋さん、あなたのお父さんたちにああいう戦争を命じた上にいる者たちが悪いんですよ。あなたが罪の意識を感じることはない」と言ってくれた。やさしかった。あとから聞いたのだが、周恩来や毛沢東が「日本の人民のことを恨みに思うな」と言ってきたそうだ。

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三度目は、東寧の石門子村という父のいた村へ出かけた。この時は班忠義さん夫妻に連れられて行った。2000年当時は交通がまだ非常に不便。とても大変な旅だった。ものすごく貧しい村で、舗装もされていない。東寧の憲兵隊の官舎が小学校になっていた。その5年後にこの学校に行ったときは、37才の校長先生に会った。「ここは私たちの土地で、ここの使い方は私たちが決めるのです。日本の侵略はもう許さない。」という話をしていた。小学校もいまは新しく建て直されている。
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 石門子村の村長の郭さんの家で、近所の人も呼んでもらい、お詫びと一緒に写真を見せて「おぼえていませんか?」と訊いたら、他の4人の憲兵の名前は覚えているのに、なぜうちの父の事は覚えていないのか。「分遣隊長に殴られ、4人が殺された」とか、「神社にお参りしなかったら殴られた」、「良民証を一人ひとり持たされて、それを忘れて村境にいくと普通はものすごくどやされたが、見逃してくれたよい憲兵もいた」とか。「おれたちの方で夜一緒に寝てくれることもあった」と。でもそれは自分の父親ではなかったということで、悲しかった。結局父がここで何をやったかわからなかった。

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班さんは元慰安婦の治療等の世話をする活動をしている。朝鮮人元慰安婦の李鳳雲さんと、敬老院という施設で会った。班さんが李さんに食事をよそってあげたりしていたが、途中から急に子どものように号泣し出した。

「自分は若い時に、朝鮮の北から仕事探しにやって来て、日本軍につかまって慰安婦にされて見張りがいて逃げられなかった。ある日突然取り残されて、日本軍はいなかった。生きていけないと思ったが中国人の人が奥さんにしてくれた。でももう子どもが産めないからだになっていて、夫は悔しがって毎日暴力をふるった。その夫が亡くなって、食べていけなくなって、夫の遠縁のひとが来ていいよ、と住まわせてくれた。それがここ。」と話した。李さんは「この家にいてもいいということになってありがたい。でも何か役に立ちたいのに、年をとってもう働けなくて申し訳ない。」と泣いた。久々に班さんが来て御馳走してくれてうれしいのと、じぶんが何の役にも立てないのが悲しいと泣いた。
それを聞いて、日本のやったことはこういうところに現れるんだと思った。一人一人の罪のない人たちにおおいかぶさってくるんだと。本当に、日本人の一人としてものすごく恥ずかしかった。現在李さんは元気だけど認知症になってしまったが健在だという。

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2005年には、抗日戦争勝利記念式典に参加するため中国を訪れた。父の謝罪を伝えたとき、どの記者からも「あなたのお父さんのような率直なおわびの言葉がうれしい」と言われた。ちょうど小泉首相が靖国神社に参拝した年だったから、だからよけいにそう言ってくれたのかもしらない。

父は「勉強しろ」「正しい事をやれ」とばかり言い続けた。母も本当は好きな人がいたが、無理やり親戚同士結婚させられたような感じだった。父は余計にひどく当たった。兄は反発していた。母も自死している。直接の理由は脳出血で倒れて半身不随になり、リハビリでもうまくくいかなかったこともあったが。その2年後に兄が自死した。兄は心筋梗塞で、命はたすかったがその後自死した。

家族をひらき 国をひらく

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兄が亡くなった後、カウンセリングを受けた。小柳茂子さんのカウンセリングを受け、家のことを話した。いままで自分の家の事を話した事はなく、泣きながら話した。

「あなたはこれからこのカウンセリングを通じて、家族の弔いをするんですね」と言われた。「親の代からの人間関係を改めて見直していく。そのことは家族の弔いをすること」だと。1年間カウンセリングをうけた。

「親の代の、表にあらわれない感情やエネルギーは、表に出して光を当てられないと、子の代、孫の代まで重く裏に抱え込むことになる」と言われた。できれば隠している事を公けにさらして、本当はそういうつもりではなかったんだなどと、みんなで合点がいく、それをするとやった方もやられた方も救われると。うちの家族でいうと、母や兄たちはそれで追い込まれてしまった。

うんと頑張っていろんな困難を乗り越えてきた人は、どこかでそれをさらけ出して泣いたり、ぶちまける事ができれば非常にいい。それができないと、胸の中のドロドロしたものが他の人にあてられて行ってしまう。

この言葉は人間ひとりにとってもそうだけれど、国家にとってもそうだと思う。日本は加害は伏せようとする。それをずっとやって行くと、いつまでたっても日本はアジアの中で友好国を作れない。
とても勉強になった。
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●質疑応答
大坂(埼玉障害者市民ネットワーク事務局)
「父は海軍の二等兵か上等兵だった。自分が天皇のことを批判すると、父からぼろくそに言われた。たばこ菊の紋が入ったやつが家にあったのと、南京を陥落させた時のアルバムがあった。戦争体験を一回聞こうと思って田舎に帰ったがもう話せなくて。きっとうちのオヤジは逆だったが。倉橋さんはメモを残して受け継いで、資料5番目に出ているのは、戦争に敗けた時に日本がほんとうはやらなきゃいけなかったんだろうなと。すばらしいメモを残されたなと思いました」

松田(越谷市議)
「2006年に倉橋さんにあって草加で話を聴いて、本を買ってサインをもらった。たまたまこの前でポスターを見て今日参加した。親も戦争にいっていない世代。私たちにはなにができるのか。」

倉橋
「いまの時代に難しいですよね。 韓国の強制連行の問題だって、もっと日本でまともに考えないと。そのことをとりあげること自体が叩かれる時代になりつつある。でも、そこまではできなくても、日本のやった事を知る、朝鮮学校の人と交流を持つなど、出来ることはある。先日独協大学で130人くらいの学生たちに話を聞いた。体験者からも話をきいた事が無い世代。韓国とうまくいかないことが気にかかっているということをいってくれた。ネット署名なり何なりなにか行動をやることはできる。新聞に投稿したり、NHKにいろいろ電話したり。個人にできるのはそういうことかな?と。」

樋上(たそがれ世一緒管理人)
「金八先生の年代なんだな、中学が荒れていて苦しんだときいて、倉橋さんはなんの先生をしていたのですか?辞めるきっかけになったのはなんだったのですか?」

倉橋
「ちょうど金八先生と同じ年代で、生徒達が悪い事するのも元気だった。生徒たちは学校に来たいんですね、それで悪い事したり。それを追いかけまわしたりしていた。社会科で地理や歴史を教えていた。」

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倉橋さんから著書をご恵贈いただきました。




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そこに記されていたことば。

「世一緒のみなさんへ

 ―ともに平和な世をつくりましょうー」



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