においを出し漂い1ミリずつ動く 山谷 理さん-当事者としての苦しみを他者の喜びに 

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5月29日、毎月第4週の「すいごごカフェ」は、せんげん台の就労移行支援事業所「世一緒」の企画で開催された。この日のゲスト山谷理さんは、予めタイトルと短い説明を送ってくれていた。タイトルは「当事者としての苦しみを、自分と他者の喜びへ変える道」「私は閉鎖病棟への入院を経て、40歳から医療・福祉職へ転向しました。自らの過酷な体験を、やがて他者との痛みの共感・分かち合いに変えていくお話です。」と書かれていた。

以下、当日の語りと、後日のやり取りから。
「1976年富山県滑川市で、素材研究所に勤めていた父と、幼稚園教諭だった母の間に生まれました。」「子供の頃は、一人で土器を拾って歩いたり・化石を採りに行ったり、部屋で本を読んだりと、マイペースで内向的なところのある子供だったと思います。」と山谷さん。
「物心ついたころから、絵やマンガを描くことは得意な方だったのですが・・・、幼い頃から『絵やマンガというのは、生業にするようなモノではない。』『マトモな仕事ではないので、他の仕事についたほうが賢明』という意識が強かったので、郷土資料室職員など、他の仕事に就く人生を模索していました。」と少年時代を振り返る。
埼玉県内の進学校(当時)に進学した頃から、人生の苦悩が深まって行ったという。
「転機が訪れたのは高校入学後の16歳の時、LGBTの問題で悩んだ事でした。」
「自分で思うように食事が摂れず拒食症にかかり、頭皮が一部剥がれたりして、10代後半から人生のドン底を味わいました。」
人生の早い時期から、過酷な人生と向き合った姿が伺える。
「大学入試にも失敗し、どうしようかなと頭を抱えました。」「マンガなら、紙とペンがあれば描ける」と思い、翌々大阪芸術大学に入学。授業料・生活費を自分で稼がねばならない厳しい生活状況の中、自主退学して東京に戻る。
マンガを描き始めた当初は、「積極的にマンガを描くことを選んだわけではなく、他に自分に出来そうな事が思い浮かばなかった」と語る。

その後間もなく上京し、マンガ雑誌「ガロ」でマンガを描きたいと思い、持ち込み活動を始めたが、間もなくマンガ雑誌発行元の青林堂が、「ガロ」の休刊を発表した。
そんなある日、コンビニで見かけたマンガ雑誌の出版社に原稿を持ち込んだところ、マンガ賞を受賞し初掲載にこぎつける。しかし翌年、マンガの方向性・制作姿勢の問題などで編集者・出版社を離れる。時折看板の絵を描いたり・細々とチラシのカット絵などを描きながら、「周囲の人に助けてもらいながら、何とか生活していた」と当時を振り返る。
30歳以降、インターネットのマンガ投稿サイトに投稿したり、ゲームマンガを投稿したりした。「やりきれない、中途半端な状況」を抱えながら、悶々と生活していたという。
ゲーム会社にイラストやマンガの投稿をしたことがきっかけで、35歳から商業マンガを一時描くも、翌年ゲーム会社の仕事から離れた。

30代後半は女性として生活していたが、女性ホルモン剤の急断薬・事故により、言葉もしゃべれない状態になり。悩んだ末、夜中に越谷のはずれの水門で縊死自殺を図る。「首から上が1ケ月ほど真っ黒な状態」になり、死地を彷徨った。その後自殺を図ったとの理由で、精神科病院の閉鎖病棟への入院を経験する。
退院してから単語の想起等、不自由になった言葉を取り戻すためリハビリに通った。そんなある日近所の路線バスに乗っていたところ、「次は南埼玉病院」とアナウンスが聞こえてきた、調べてみたらデイケアというリハビリの施設があるとの事なので通い始める。
「南埼玉病院に通ったこと・関わりが、人生の転機となった。」と当時を振り返る。
そこで高瀬さんや瀬戸理事長、利用者さんたちと出会った。当初、高瀬さんに対して反抗的だったという。高瀬さんが編集長の南埼玉病院機関紙「深呼吸」に寄稿しようとしたら、「性描写がきついから」と載せてもらえず、「あんな風に頭の固い人間にはなりたくない」などとブツブツ言っていた日もあったという。
そんなある日、「高瀬さんの背中を見ていたら、一瞬自分の背中に見えた。」
「自分の将来を、高瀬さんの背中に(何となく、漠然と)感じたから。」
「その日を境に、医療・福祉職員になろうと思い始めた。」と山谷さん。

リハビリをしながら、精神医療・福祉の現場に触れる中で、「もう一度、人生に挑んでみよう」と、徐々に内面的な変化が起きてきたという。
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当時、南埼玉病院が関わってNPO団体を立ち上げる動きがあり、設立に参加。その頃、デイケアから「“癒し”としての自己表現展 in 草加」に絵を出品しないかと言われて絵画作品を出品した。その絵が縁で、東京足立病院などに出入りし、精神科・作業療法助手の仕事を学んだ。

その後、知的分野の入所系施設に求職。ハードな職場で間もなく退社。その後再び、幾つかの福祉施設に月契約社員として勤務し介護技術を少しずつ学ぶ。
そんなある日、障害児童施設の求人を見つけ、「そこで美術活動をやってみたい」と思い就職。福祉系大学に通いながら働き、現在に至る。

「精神医療、障害者福祉、障害児教育の三つの分野に、またがって働けたら良いなと思います。」「出入りしている幾つかの現場では言葉を話せない人が多く、思いを伝える形が泣くことであったり・噛むことであったりする。」「今も噛まれた右手の指が自由に動かせないでいるが、それはその人達の大切な言葉なのだと思う。」と語るその姿から、『やりたい仕事』『医療・福祉への思い』が垣間見える。
今日のトークのタイトルは、自殺企図があったというだけの理由で、十分な問診もなく多剤投与で寝たきりにさせられた20代、薬剤事故、長期間にわたり保護室に入れられたり拘束されたりした体験が、自分自身に相手の痛みを理解する上での原点だという意味で考えた。

「色々大変な思いをしましたが、『人の痛み』を考える上では、良い勉強になったと思います。」
「その上で、患者さんや利用者さんにどう接するか、自分の経験・体験を生かせるかどうかが財産であり、また今後の課題・模索する道」と山谷さん。

また、「結局、自尊心をもって生きることは、相手を尊重する精神と、表裏一体の部分があると最近感じています。」と最近、自身の心境の変化を感じているという。

以上の語りを終えた山谷さんに「近年さまざまな支援制度が整ってきた半面で、障害や病気があると幼い時から細かく分け隔てられ、世界の流れに反して精神科病床も減らず、拘束もなくならない現状に対し、上記三つの分野でどう、向かい合ってゆくのか」と質問を投げかけてみた。

「組織の中に身を置いて、自分のにおいを出しながら漂う。ウロウロ彷徨う。ただそれだけの事」
「みんなと一緒に足踏みしながら、気持ち1日1ミリずつ動いてやるという感じで!」と。
そういった、「無理に組織を変えようとしない姿勢」が、医療・福祉現場の仕事・活動には、必要な要素の一つだと、最近感じていると語る。
なるほど!大上段に構えた作戦ではなく、ナノレベルにいたる分身術こそがやがては変革につながるのかも。

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山谷さんのホームページ「放蕩娘の帰宅」https://nne17.blogspot.com

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