「障害者と高齢者ー橋本宅泊り介助」を考えるー私的な参考文献をご紹介

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 2月16日にケアシステムわら細工連続セミナーの一環で、筆者は橋本画伯、母ミツエさん、妹真由美さんとともに、「障害者と高齢者―橋本宅泊り介助 約1年間から」と題して報告を行った。

 facebookで速報はアップしたが、後日もう少し具体的に書こうと思って、日が過ぎてしまった。

 先日、セミナーと同じかがし座を会場として、猪瀬浩平さん・森田友希さんの「分解者たちー見沼田んぼのほとりを生きる」の小さな出版記念のつどいが開かれ、翌朝、猪瀬さんたちが、「うしろめたさの人類学」という本を書いた松村圭一郎さんを案内して黄色い部屋に立ち寄った。

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 その時、筆者の机の上にいろんな本が山積みになっており、それらの本をめぐって会話を交わしたおぼえがある。
 その時は、沖山稚子さんに誘われて、「共生社会」という授業に、世一緒障害者スタッフの佐藤秀一さんと出かけて行った際のパワポ作成の参考にしたと説明した。
 しかし、机の上を片付け始めたら、それらの本は、連続セミナーのレジュメの参考にしたのだと、記憶がよみがえった。

 せっかくだから、これら11冊の本の紹介、といっても筆者のアンテナにひっかかった個所のごく一部分の引用だけだが、まずこのブログにアップし、次回に連続セミナー当日に用いたレジュメをアップしようと思う。以下、順不同で紹介する。

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小竹雅子「総介護社会―介護保険から問い直す」岩波新書、253ページ、2018年。

「給付の普遍化」をめざすために、まず介護保険と障害福祉サービスの統合を検討するのであれば、最低限、ふたつの条件をつけたいと思います。ひとつは、世代を問わず、所得に応じた「応能負担」の設計にすることです。もうひとつは、「移動支援」による社会参加の機会や、「重度訪問介護」による生活全般の支援などが用意されている障害福祉サービスを基本にして、サービスのメニューを構成することです。

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小澤勲「痴呆老人から見た世界―老年期痴呆の精神病理」岩崎学術出版社、245ページ、1998.年。

 アルツハイマー型痴呆の初期にみられるもの盗られ妄想者は「わたしが……」の精神病理を示しているといえなくもない。しかし、それは「わたし」が解体する過程への抗いであり、反応であると考えられる。そして、そのような病態のケアにあたっていて「わたし」の解体の先に「わたしたち」という生き方が用意されていると確信できていなければ、つまり衰退と解体しかない、と考えて絶望の上にケアを重ねていては、彼らが「わたしたち」に至る道を閉ざすことにつながるだろう。
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小澤勲「認知症とは何か」岩波新書、 106ページ、2005年。

 彼女は、認知的自己は仮面のようなもので、その底には感情的自己がある。それは保たれている、と感じる。感情的自己とは「人と人のつながりの中で生きている私」という意味であろう。いや、人とは限らないのかもしれない。猫好きの彼女は、愛猫をなでながら「あなたは私が認知症だなんて知らないわよね。言葉が通じなくたって、チュッチュって呼べば来てくれるのよね。いい子だこと」と話しかけているからだ。

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東田直樹「跳びはねる思考」イースト・プレス、111ページ、2014年。

 絆というものを、目標を達成するための手段のように使うことがありますが、僕はちがうとらえ方をしています。
 絆は、人が人であることを自覚し、今生きていることを感謝するための祈りの言葉だと思うのです。だから、絆によって人は結びつくのではなく、絆は確かめあうものではないでしょうか。

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村瀬学「自閉症―これまでの見解に異議あり!」ちくま新書、228-229ページ、2006年。

 速度をゆるめた「くらし」の中では「おくれ」が「おくれ」として意識されなくなることがあることについて、社会や文明はもっとちゃんと受けとめて考えるべきである。そういう「くらし」の支援をもっと文明の代価として構築してゆくべきではないかと私は訴えたい。ただし、こうした支援の必要性を、私は福祉の発想で考えているわけではない。つまり健常者が健常でない人をケアしてあげる発想で、訴えているわけではない。そういうことではなくて、私たちは例外なく誰もが「おくれ」を生きている存在であることを認めることと、そういうことがあるために、そこから社会的に「おくれ」を見せる人たちには、なおさらの支援の必要性があることを発想してもらいたいということを考えているのである。そしてそこから、「文明(すすみ)」にとっての「おくれ」は「くらし」の「あゆみ」の中では「おくれ」にならないことがあるんだということを、もっと大事なこととして文明史的に考えてもらいたいということについてである。

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内海健「自閉症スペクトラムの精神病理―星をつぐ人たちのために」医学書院、262ページ、2015年。

ASDは、発達の一つの様式である。序論でのべたように、根本的な不調和を抱えた人間は、物理的、生理的な次元だけでは完結せず、「こころ」や「社会」といったものを作り上げなければ、生き延びることができない。だが、そのあり方は一様ではない。その時代や地域に応じて、異なる文化がある。そして発達の経路も一様ではない。巨視的に見れば、今と昔では、「定型」とされる標準的な発達のあり方も大きく異なる。そして今後も変わっていくだろう。
 現在、定型とされている発達経路も、バリアントの一つにすぎない。そうした観点に立てば、定型とASDの間には、マジョリティとマイノリティの差があるだけである。
 彼らがうまくいかないところについて、とりあえずは「障害」とみなして、一定の支援をすることは必要でもあり、有益でもある。ただし、これまでの発達の経路を尊重するとともに、固有の発達の方向があることを念頭に置いておくことが必要である。

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栗原彬「『存在の現れ』の政治」以文社、192ページ、2005年。

 マイノリティはどう語るのか。母語ないしヴァナキュラーな(土地の、母の)言葉で語る、身体で語りパフォーマンスで語る。パフォーマティビティーはマイノリティが公共圏を立ち上げる時の元手になっています。親密圏が成り立つためには、声や身振りに共鳴するもうひとつの身体が必要です。新しい公的な親密圏を立ち上げ、同じ受難者同士のネットワークをつくり、さらに異なる受難者の連携をつくる。アメリカの先住民が基地問題で闘う沖縄の住民に手を差し延べるといったように。

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熊沢誠「若者が働くときー『使い捨てられ』も『燃えつき』もせず」ミネルヴァ書房、212-213ページ、2006年。

 1998年春、アメリカはオハイオ州マセドニアのマクドナルド店舗では、15人の若者たちが、66歳の女性同僚がマネージャーから些細なことで罵倒されたことを契機に、ピケを張りストライキに入った。争議は大組合チームスターの支援を受けて5日間続き、若者たちはその要求―賃上げ、昇給制、有給休暇、突発的な勤務割当ての是正、査定方式の書面化などーのほとんどを獲得している。日本でもなじみの「マック仕事」特有の使い捨て労務管理は、こうして若者たちの連帯行動によって後退を迫られたのだ。そのリーダー、19歳のブライアン・ドラップは語っている。

 人びとは言います、「本当の仕事を見つけろ」とか「そんな仕事はさっさと辞めて、どこか他で働けばいいのに」とか。しかし、それは的外れです。他の職場でも同じことが起こるでしょう。(タノック、2006年)

 私たちのパネラーの仕事内容は「マック仕事」ほどやりがいのないものではなく、また、日本では若者たちのこのような「行動にその名に値するような支援を惜しまない既存の労働組合も、さしあたり見出せないだろう。だがここにみるドラップの発想は、若者労働の今の状況が続くかぎり、私たちの明日の世代にもやがてしかるべく顧みられるはずである。

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六車由実「介護民俗学へようこそ!―『すまいるほーむ』の物語」新潮社、279-280ページ、2015年。

 介護保険法のもう一つの基本理念である「尊厳の保持」に沿うのであれば、自立支援ではなくて、利用者とともに「老い」に向き合い、たとえそれが後ろ向きに見えようとも、穏やかに希望をもって人生を下りきることができるまで寄り添い続けることが、必要とされる支援なのではないか、と私は思う。
 そして、もう一つ付け加えるならば、「自立支援」という考え方自体が自己矛盾を抱えているということである。
 要介護状態になった人が自立した生活を営むことができるよう支援するということは、要介護状態となった高齢者も一人の自立した人間として見なされるということであるはずだ。ところが、介護保険制度は何度も改正されているが、要介護状態となった人たちをいかに地域で包括的にケアしていくか、という仕組みはいろいろと考えられていても、要介護状態となった人たちもひとりの人間として地域で存在価値を持ち、要介護状態の人もそうでない人も互いに支え合って地域社会を形作っていく、という発想は皆無なのである。
 要介護状態の人は自立が求められているにも関わらず、地域社会の担い手としては排除され、結局は支援や保護の対象としてしか見なされていない。

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山田太一「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」PHP、151ページ、1995年。

 親によって言葉によって、解決されない世界で、ゆっくり育ってくる魂のようなものが、子供にはあるのだと思います。短期的に見れば「悪」としかいようがないものを通過する時間を子供は必要としていたりするのです。立ち入らない部分をつくらなければいけない。立ち入らなければ、その部分には目が届かないことになりますから、子供が事故にあったりということはあるかもしれません。不安であることは、よくわかりますが、人生万全の態勢で生きることはできないのですから、どこかで親が意識的に見ない部分をつくってやるべきではないかと思います。

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伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているのか」光文社新書、51ページ、2015年

 まさに情報の少なさが特有の意味を生み出している実例です。都市で生活していると、目がとらえる情報の多くは、人工的なものです。大型スクリーンに映し出されるアイドルの顔、新商品を宣伝する看板、電車の中吊り広告……。見られるために設えられたもの、本当は自分にはあまり関係のない=意味を持たないかもしれない、純粋な「情報もたくさんあふれています。視覚的な注意をさらっていくめまぐるしい情報の洪水。確かに見える人の頭の中には、木下さんの言う「脳の中のスペース」がほとんどありません。
 それに比べて見えない人は、こうした洪水とは無縁です。もちろん音や匂いも都市には氾濫していますが、それでも木下さんに言わせれば「脳の中に余裕がある」。さきほど、見えない人は道から自由なのではないか、と述べました。この「道」は、物理的な道、つまりコンクリートや土を固めて作られた文字通りの道であると同時に、比喩的な道でもあります。つまり、「こっちにおいで」と人の進むべき方向を示すもの、という意味です。

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