共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

アクセスカウンタ

zoom RSS 「働かざる者食うべからず」から生還、ハロワがデイケア 水島さん

<<   作成日時 : 2018/06/21 14:27   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像

 6月13日の世一緒すいごごカフェのゲストは、職場参加ビューロー・世一緒の常連スタッフ・水島茂治さん。間もなく65歳になる水島さんが中学を卒業してから現在まで、板金工、自衛隊、警備保障、食器洗浄などの職場でどのように働き、家族や周りの人々とどのように暮らして来たのかを語っていただいた。
 はじめに「世一緒の常連スタッフ」と書いたが、「常連」になったのは60歳をこえてしばらくになる、つい昨年あたりからで、ここ10年近くは私たちが受託していた市障害者就労支援センターの支援を受けて、主に病院等の食器洗浄の現場で働いていた。

 なお、就労支援センターと出会う前は一般枠で、主に警備保障関係の仕事が長く、若い頃は自衛隊に8年間いた。その前が板金工。とにかく、ずっと働き続けて生きてきた。労働現場での数えきれないいじめや差別をくぐりぬけ、何度クビになっても働くことをやめなかった。「働かざる者食うべからず」に疑いなどはさむ余裕とてなかった。生保を受給するようになったのも、ここ数年のことだ。
 
 若き日の自衛隊で出会った人といまでもつきあっていて、基地を公開する記念イベントに毎年出かけてゆく。また相撲部屋の後援会に入っていて観戦に行くし、高校野球の応援にも行く。労働は厳しかったが、その中でここまで生きてきた自負がある。

 いまはもう、体のあちこちが故障し、「自分のからだは薬でできている」と笑うほどで、世一緒で請け負っている除草作業も休み休みという状況ながら、時間が空くと「ハローワークに行ってきます」と出て行く。そして、必ず特別支援部門で相談し、求人票を何枚かもらってくる。もう応募することはないが、こうやって労働市場の風に吹かれることが、からだと心に合ったデイケアになっているのかもしれない。

画像

 そんな百戦錬磨の水島さんだが、いや、だからこそ、労働を離れた暮らし、とりわけ近くや遠くにいる親族とのつきあいはどちらかといえば苦手のようだ。この日の話でも、若い頃の父との確執、そして認知症になった母との同居生活の記憶は、いまでも封印したい部分が多くある。

 そして、いま世一緒に来て、ときどきグループアルバイトに参加しながら、いろいろな年代の障害者や他の市民団体や個人と交わり、語り合いながら、労働と暮らしがさまざまに混ざり合った現在を生きることが、とりわけ新鮮に感じられているのかもしれない。
 
 
 
 
 水島さん本人が書いたレジュメ(黒字/原文のママ)と当日の説明(青字)を織り交ぜながら、ここに掲載する。



労働人生から得たもの

                                      水島 茂治(世一緒障害者スタッフ)


自分のおいたち 
 
画像

昭和27年4月2日、所神奈川県鎌倉市台町という場所で生まれました。

画像

むかし鎌倉かいどうぞいで、八百屋さんをやっていました。八百八時代は中学校、二年三年の夏休みのときにおやじに、てつだいを、しこまれました。
画像

その時、中学三年の、夏休み、おわりごろ、自分は、おやじの、あとつぎは、できませんと、いいました。今でも忘れません、三年生、終了時鎌倉を出てゆけといわれました。今で頭のすみに残っています!!

けっきょく、鎌倉には約く1958年〜1969年しかいませんでした。
のちにおやじが死んだとき(75歳)、しにがおみておりません。
北海道にきたのは、おはかの写真1枚です。
画像

そのとき、女が5人で、今でもいっしょうけんめいになってやってくれるのは、3番目、4番目です。又、忘れる時に2番目のアネキです。

とにかく鎌倉はあまりよいおもいでは!!
ありません!!

これについて何かしつもんはありませんか?

なければ先に進みます
以上

鎌倉〜横浜 昭和45年〜

昭和45年4月1日横浜・中村町の会田販金自動車工業所に入社いたしました(寮に住み込み) 。最初は、会社のしきたり約3ケ月みならいで、最所、1か月は、おきゅうりょはでませんでした。(この時はまだ、右も左もわからない子供でした。もらったとはとてもうれしかった。でもこの仕事はながく続きませんでした。自分の不注意でけが(大やけど)をして約三年でやめました。

親方には仕事とはこういうものだということを叩きこまれました。やけどのリハビリ中も親方に面倒見てもらいました。通院がたいへんだから、慣れるまで寮においてくれました。
おやじに泣く泣くあたまをさげゆるしてもらった。

三年リハビリをして、三年七ヶ月ぐらいたってから地連の事務所の前に何となくたってたら、横浜のちれん部長さんらしき人がきて、「仕事ないの?自衛隊にきょうみがあるの」かといわれ、おもわず、はいといった。
そして、手続きが終わるまで、家業の手伝いをしながら待っていた。
これで横浜の話は終了です。

横浜と陸上自衛隊と私

画像



一回目しゅうしょくです

87633433659720178.jpg" width="215" height="320" class="up-image" alt="画像" title="画像を等倍で表示します" />
前期〜武山陸衛隊駐とん地、三ヶ月、入隊。最初はあまり自衛隊に興味はなかったです。
ここで、3ケ月自衛隊のイ、ロ、ハをおぼえます。

朝6時に起床、10分で着替えをしてベッドをたたみきれいにしなくてはなりません。だんだんできるようになりました。

両親にあえたのは入隊式と終了式だけでした。

3ケ月後に修了式でした。武山終了時おやじとおふくろさんでした。自分のはれすがたをみてくれて良かたなと思った。

このとき、おやじに「入れたよかったな」とはじめて言われました。

白いせいふくに、小銃でなく、こしつけてサーベルをつけて頭中と自分のあいずで部46名しきをとり自分の人生最高!!特に両親みせられてよかった。

終了前に希望をきかれ、「知っているおじさんがいるので、北海道へ行きたい」と言いました。


修了式の2日後、北海道いきました。
武山駐とんちは終了。

画像


上野から夜行列車に乗って、青森へ着きました。北海道へ行くんだなと、つくづく感じました。


陸上自衛隊北部方面第7師団、第23普通科連隊第2中隊G833739陸士長(8号ほ)。終了間際の階級ですが。

64式81Ⅿはくげきほう2番手、4番手、3番手から弾をもらって、中に弾を装填する役。年2回実弾訓練があり、体がふるえました。

昔、パトリオットミサイルのあった関係で、駐屯地の中に米軍が入っていました。初めて、戦争やってるんだと感じました。



おもいでは、いっぱいあり文書が長くなり、そのとうじ写真かあり資量もあります。
よければみて下さい。

千歳から千葉県西千葉

北海道〜千葉県西千葉

自衛隊は、上にあがる試験に合格できないと8年で除隊になります。その後、自衛隊に関連がある仕事に就くのがいいと言われ、警備保障会社に就職しました。

北海道から千葉本社〜東京支店へ
会社名、協和警備保障K・K 西千葉本社はい属される。
その日会社、どう仕事をすかをきき 見習いは1日でした。
りょうは元幡で良い場所でした。

最初は成田空港周辺〜海からの石ゆ、すなわちタンカーがパイプライの警備を約5年勤務をしました。そうび品は、ヘルメット、細長いかい中でん灯、先がひらながいハンマー、夜交ちょきで〜夜20時から次の日A・Ⅿ17:00 

夜勤で入って、次の日24時間体制で何人かでやっていました。


あけの日〜次は全休です。すなわち1日と半日です。 仕事はたいへんでしたが、26万うらいもらえました。


その後、ビル現場に回されました。熊谷組、大成建設、西松建設など。その後5,6年、からだがへばって来たので、ランクを下げ、交通誘導にまわらせてもらいました。

ずっと後になって、世一緒の仕事発見ミッションで春日部のスーパーへ行った時、まさかこの自分のいた会社が施設警備で入っているとは思わなかったので、びっくりしました。

画像



家のつごうで寒川にうつりました。そこで4LDKのマンションを、頭金を自分が出してあとは姉たちが払う形で買って、年取った母と二人ぐらしを始めました。3年間ぐらいは、交通誘導の仕事をしました。そのうち、同居の母の徘徊が始まるなどして疲れ、母のことは見れないと言って、越谷の3番目の姉のところに来てしまいました。

生活と仕事のストレスがたまり、寒川をでました。

じぶんの人生、寒川ではいぼくをしました。その間ありすぎてかくことができません。
寒川からこれが最後

越谷へ移動しました。

越谷市の前の生活保護の担当者は、態度が横柄で、ここも問題がありすぎて書ききれません。

名前〜かきょう〜約三年勤務 最後はアイ、ビーエムのチーフので、どろぼうとうそつきとは仕事はできないと会社3月31日づけでやめました。

やめてから今度はじっくりハローワーク越谷の人とじっくりさがし、今どはいいなと思いきめました。
日清食品医りょう株式会社です。

勤務先は草加市立病院です。
内容はすばらしい会社です。社員旅行で、お台場のホテルのバイキングに行ったり、劇団四季の観劇などできました。

でも、そこにもいたんです。いじめがいて、「お前が来てから毎日残業だ」などと言われました。

これも3年でやめました。

でも自分はこうやって、会社と交渉できるようになったんだなと思いました。最初は何も話せず、いじめる人に圧倒されるだけだったのが。

なにかあれば、のちにききます。

病完と世一緒

画像


御茶ノ水駅で倒れて、それからいろんな病気の治療をしています。
もう、おきた時から、全々わからなくなり、飯田橋へ行くのに、お茶の水駅、たぶん、おされてそのままいたらふみたをされて、目がさめたら東京医科しか大学病院のベットにいました。

又その先きは長くなります。ききたい人は個にて受けつけます。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「働かざる者食うべからず」から生還、ハロワがデイケア 水島さん 共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる