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zoom RSS 老障介護を生き抜くしぶとさのルーツ―ミツエさん「織子の青春」

<<   作成日時 : 2018/02/14 15:33   >>

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 1月24日のすいごごカフェのゲストトークは、橋本ミツエさんにお願いした。ご存じ橋本克己画伯のお母さん。

 すでにこの日の速報をfacebookにアップした。以下の通り。

  《facebookから−1.24すいごごカフェ ミツエさんのトーク》 


 NPO法人障害者の職場参加をすすめる会の活動拠点「世一緒」で昨年4月からずっと開いてきた「すいごごカフェ」は、身近な生活者や連携する団体等の担い手の人々に声をかけ、ふだんのつきあいだけでは伝え合えない、個々人の生い立ちや生き方、思いなどをまとめて語っていただいてきた。その都度、速報を心掛けてきたが、数回分がたまってしまったのでご報告。
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 まずは、1月24日(水)、橋本ミツエさん。盲ろう下肢マヒの橋本克己画伯のお母さん。40年前、19歳になるまで就学免除で家の奥にこもって生きてきた克己さんが時々パニックになり、荒れ狂っていた。共倒れ寸前の家族は親身になって相談に乗ってくれた市のケースワーカーに相談し、できたばかりの県立コロニーへ入所希望を出していた。そのケースワーカーが、前回のすいごごカフェのゲスト・正木さん。
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だが、正木さんも関わってその頃発足したばかりのわらじの会に家族ぐるみで参加し、街に出るようになってから克己さんは心を解き放って行った。入所決定が届いた時、家族は泣きながら、もう少し地域で頑張ってみようと決めた。

 あれからもう40年。妹の真由美さんは隣市で一家を構え、父巳代司さんがこの世を去ってから間もなく20年。「老障介護」と呼ばれる状況が続きながら、画伯を街に送り出し、ご近所やわらじの会の人々を自宅に迎え入れ、しぶとく、おおらかに生き続けられているミツエさんのパワーの源泉はどこにあるのか?

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 時折り、ミツエさんの昔語りを書き留めてきたが、彼女の生のルーツが子ども時代の足利での暮らしや小学校卒業後奉公した年月にあると感じた。物心ついたかつかない頃、目の前で糸繰りをしていた祖母がそこで亡くなったこと、田畑もわずかな家で全員が働いていたこと、食べるための山菜やキノコ採り、奉公先では10人足らずの少女たちが早朝から夜まで1人2台の織機で働き、停電になると山の畑や薪採りにかりだされたこと。でもそんな経験で身につけたことが、いまの暮らしのもとになっているのかもねとミツエさんは語る。いまは両下肢とも人工関節だらけで、しゃがむことや倒れた時起き上がることもできないのに、畑をやったり、手料理を作ったりするパワー。その中に画伯とすったもんだしながら、その都度必要な仕事をやり、それなりの暮らしを立ててゆく作法も編みこまれているのかもしれない。
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 今回のすいごごカフェでは青春時代を中心に話してもらうべく、「できないよ」と恥じらうミツエさんを「いままで聞いたことをもとにして紙芝居みたいなのを作るから。何か聞かれたら答えてくれるだけでいいから。」と説得してお願いした。こうして作成した紙芝居(パワーポイント)のタイトルは「織子の青春」。

 当日、なんとミツエさんは、お手製の揚げ餅とキムチをたくさん持ってきて皆にふるまってくれた。
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なおこの日のすいごごカフェは、都内在住の聴覚障害者・松山美幸さんがミツエさんの話を聴きに見えたので、手話通訳同席で開催。後日、松山さんから以下のメールが届いた。

 「先日は克己さんのお母さんのお話を大変興味深く聴きました。やっぱり織子さんは厳しかったのですね。機械といえども、量を織らないと怒られたって
人間なのにね。と思いました。だけど暖かいお母さんで克己さんは幸せだなと思いました。私に母はいましたが、愛情をくれる人はどこにもいませんでした。だけど、旦那と子供に恵まれたからそれでよしと思わなければと思ったものです。
 越谷はいいな。と思いました。いろんな人がごちゃごちゃとふれあいながら楽しく賑やかに生きていて、退屈しないだろうなと思いました。」

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 facebookでは語り足りなかったところを、以下に記す。



 《資料から−画伯と家族の軌跡をたどる》 

 橋本ミツエさんの話は、このブログで過去2回とりあげてきた。

 
 「家族はいかに生きてきたか―橋本画伯の母・ミツエさんに聞く T」
 
  http://yellow-room.at.webry.info/201110/article_3.html

 「障害ということ―家族はいかに生きてきたか 橋本画伯の母・ミツエさん U 」

 http://yellow-room.at.webry.info/201601/article_8.html

 このうち、U のほうは 子供問題研究会のユニークな会報「ゆきわたり」の2016年新年号に寄稿を頼まれたので、、ミツエさんの聞き書きに、以下のようなメモを付けて送ったと書いてある。

 「「地域で生きるってどんなイメージ?たとえばこんな話を聞くことです。以下は、盲聾で車いす使用の橋本克己さん(千書房刊・「克己絵日記」著者)と二人暮らしの母・ミツエさん(86歳)の語り。克己さんに関して、「何考えてんだろうねえ。頭の中かち割って見てみたいよ。」と言う時と、1942年〜45年の戦争のさなかに織子として生きた青春をふりかえる時は、すごく元気になります。」

 このメモに続けて、以下のように書いた。

 2010年に「地域と障害―しがらみを編み直す」を出した時、「障害の地域モデル」と述べたが、その「地域」とは、家族(近隣を含む)、学校、職場などをイメージしている。6歳で就学免除にされ近所の子ども達から引き裂かれながら生き抜いてきた画伯の生きざまにとって、親たちや妹が、それぞれに家族、学校、職場をどのように生きてきたかは深い関りがあるはずだ。

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 一家が画伯を入所施設に送ることを泣きながら辞退した時、大した応援はできないけれど、週一回だけは来れるということで、もう35年もの間、毎週金曜夜には、「手話会」と称して数人でお邪魔している。といっても、ここのところずっと、筆者自身は手話会の間ずっと居眠りしているか、母ミツエさんとおしゃべりしている。そんなひとときに、聞き書きをしたメモがたまっている。このブログでも一部紹介した。今回「ゆきわたり」に送ったのも、その一部だ。
 
 残りも順次ブログに載せるつもりだが、今回は、それと別に、ミツエさんが昔月刊わらじに書いた原稿を紹介しておくことにする。いずれも20〜30年前のものだ。

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 Tでは、「幼いころの体験 - 糸繰りしてて亡くなったおばあちゃん」と題して、聞き書きの一部を紹介した。そして、この日のブログの末尾には、次のように書いた。2011年秋のことである。
 
 「他人を受け入れ、時には引きずり込み、いやもおうもなく一緒に生きてきた橋本家の人々のルーツはどこにあったのだろう。このごろになって、そんな疑問が大きくなり、すでに画伯の父・己代司さんが逝って13年もたった今年になって、やっとミツエさんの話を聞かせてもらい始めた。」

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 まだ画伯としてデビューする以前の克己さんと家族の歴史については、たとえばこのブログの以下のページでふれている。

 「地域と障害―40年近くの歴史が現在を問う 支援のノーマライゼーション 鴻巣講演 」
 http://yellow-room.at.webry.info/201412/article_1.html

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 わらじの会が発足し半年たった秋の出会いー就学免除の聾唖・弱視・下肢マヒの19歳。手話も口話も知らなかった。人形のように坐っていた。

 就学免除にされ近所の子ども達と遊ぶこともなかった。ちなみに、やや後に肢体不自由養護学校に行った車イスの少年も、近所の子どもとのつきあいがなくなった。家に黙って坐っている孫をうとんじた祖父がタバコの火を掌に。少年が初めて暴力を解き放った日。

 一室にこもって過ごしていた。儀式の通りにゆかないことがあるとパニック。テレビやガラスを割り、母の首を絞めた。
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 テレビも窓ガラスも壊して荒れる時、家族は外へ避難した。
 そんな時でも会のメンバーが迎えに行き、街を散歩したり、他人の家に泊まったりすると、嘘のように安らいだ。

 年が明けて三月に嵐山コロニーの入所決定が届いた(赤と緑の手帳有)が、少しずつ変わってきた本人の様子を見て、もう少し地域でやってみようと泣きながらきめた。
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その半年後、家族みんなでわらじの会の夏の交流合宿に参加した。茨城の海辺の旅館で夜討論会が開かれた。そこで父が語った言葉

 「息子は現在20歳になりました。学校は免除でずっと家にいました。大きくなってからどこにも出られず、暴力をふるうようになったので、施設を考えた。嵐山コロニーから入所許可が来たのですけど、わらじの会に行き出してから少し変わってきたので。嵐山コロニーの方も二、三度見学したが、成人の部屋で12〜3人いて、ちょっと雰囲気が悪かったので。」

 合宿には、市の担当ケースワーカーも参加していた。彼が語ったこと。
 「福祉事務所に来る人というのは本人でなく親が来るものですから。親のいない時に本人としゃべってもあまり本人はしゃべりませんけど、ホンネの所ではどんな生活でもいいから親と一緒にいたいということは本人は素朴に言っています。親からひどくやられている人たちもいるわけだけど、そういう子どもたちは施設へ行きたいと言わないけど黙っている状況。ケースワーカー5年目だけど、親の希望で施設へ入れた人も20人ぐらいいるのが現状です。」
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 1981年から「自立に向ってはばたく家(準)」に参加し、手動チェーン式車椅子を使って街を自力移動し始めた。街で出会う事件等を他者に伝えるため絵を描くようになった。
 パニックは続いたが、迎えが来なくとも街のあちこちに自分で「訴え」る。
 その顛末を描いた作品を待つ読者を得て、毎月の会報執筆が楽しみに。

 かって家の奥に一人でいた時、外は自分を拒絶する疎遠な世界だった。
  外へ出て行ってわかったのは、たしかに自分とは独立した他者たちの社会があること。だが他者との関係はさまざまであり、自分が出てゆくことで関係が変化すること。
 いつのまにか、敗北や拒絶ですら他者と共有する価値があると感じていた。


 家庭を開き地域への窓を開けた橋本家の人々。
 施設入所を止めた後、毎金曜夜の自宅での手話会。わらじ大バザーへの地域ぐるみの参加。1年間ボランティアの寄宿先。他たくさんの関り。妹の悩み、不安、父の失業、転職、病気、母の娘時代の織子奉公や長屋の隣人達の暮しなどが折にふれ伝えられる。障害者への関りをきっかけに出会った人々は、地域生活のさまざまな課題を垣間見、時にまきこまれた。そうやって耕された関係の中に画伯の冒険があった。



 《ミツエさんと画伯の近況−しぶとくせめぎ合い 暮らし合う》 


上の文章に出てくる「市の担当ケースワーカー」とは、つい先週の水午後カフェのゲストとして語ってくれた正木さんのこと。下は当時の正木さん。正木さんの語りは以下から。
http://yellow-room.at.webry.info/201801/article_2.html
 
 
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ミツエさんは昨年2017年4月で米寿を迎え、市から祝金をもらったと喜んでいた。長年田んぼや畑をやってきたので、足腰に負担がかかり、 両下肢とも、股関節おも膝関も手術して人工関節。いわば、操り人形のような状態で、バランスを保つことではじめて立ち歩くことができる。
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 それでも畑をやったり、漬物をつけたり、そういうことが生きがいなので、無理をしてバランスを崩し転んだり、尻もちをついたりする。そうなると、どこかつかまるところがないと立ち上がることができない。畑の中で1時間以上かかって背中でずって垣根の所までたどりついてやっと立ち上がったこともあった。
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 夜トイレから出て転び廊下で立ち上がれずやはり1時間以上廊下でもがいていたら、トイレに行こうと部屋を這って出てきた画伯がぶつかり、びっくり仰天し、なんとか起こそうとするが難しく、二人してさらにもがき続けた末にやっと立ち上がれたということもあった。(「障老介護の夜」 克己絵日記NO.382 月刊わらじ2014年10月号)

とはいえ、日常はそんなほのぼのした関係ばかりではない。
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 橋本画伯が「山田このみさん」という想像上の女性と結婚して東大宮のマンションに住むという計画を発表したのは、かなり視えなくなって介助者がいなければ外出できなくなってからだから、10数年前からのこと。それから現在にいたるまで、この妄想計画は期間延長をくりかえしながら生き続けている。(「妄想力が世界を止揚?」 克己絵日記NO.414 月刊わらじ2017年6月号)


 その結納の品として、台所用品やアクセサリーや子ども(娘)のためのおもちゃなどを常に買って備蓄し、防災グッズのように廃棄・更新している。ミツエさんは毎晩のように画伯に「いつ結婚できるか」を訊かれたり、「山田このみ・山田克己 2019年4月28日結婚」といった祈願のお札のようなものを清書させられたりする。わからないと言ったり、後でと渋ったりすると、画伯はただでさえ痛む母の膝のあたりをつっついてくるからたまらない。

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 、このブログを書いているのは、2月14日だが、 昨夜も例によって、画伯に責められたミツエさんは、部屋を出る時に転び、腰をひどく打った。気持ちも悪くなり、画伯の妹さんにSOSし、仕事を休んでもらい病院に連れて行ってもらった。その結果、腰椎のすぐ上の胸椎の圧迫骨折と診断され、コルセットを装着。家には戻れるが、これまでの2階のベッドでは起き上がりもできないので、電動ベッドを借りて1階のリビングで寝起きすることになった。


 こんな日々が続く中だが、会うたびに「もう限界だよ」と口にし、季節の折々に相変わらずおはぎやお汁粉、赤飯やおでん、揚げもち、キムチ、もつ煮など手料理をふるまってくれながら「もう来年は無理だよ」と言うミツエさん。

 画伯の暴力のひどさを訴えながらも、「昔と比べればずいぶんおとなしくはなったけどね」とも付け加える。

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 そういうミツエさんのしぶとい生き方のルーツとして、あの織子時代、停電で機械が動かないと行かされる山仕事で主人のサツマイモを掘ってみんなで食べてしまったり、深夜に母屋からご飯を「盗んで」きてこっそりかきこむといった過酷な労働の中の楽しい解放感、連帯感があるのではないか。

 時代を超え、年齢をこえ、状況をこえて、貫かれてゆく何かをあらためて感じさせてくれた、ミツエさんのすいごごトークだった。

 

 

 

 

 

 
 

 



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