共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 障害ということ―家族はいかに生きてきたか 橋本画伯の母・ミツエさん U

<<   作成日時 : 2016/01/17 17:14   >>

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 先日、子供問題研究会から「ゆきわたり」新年号になんでもいいから書いてくださいという葉書が来た。年賀状代わりにということらしいのだが、考えて書いている時間がなかったので、橋本克己画伯の母・ミツエさんから折にふれて聞き書きしているものの一部に、以下のようなメモを付けて送った。冒頭の写真は、つい最近のミツエさん。

 (聞き書きの本文は、「ゆきわたり」新年号がまだ発送されていないようなので、ここでは控える。)

 「地域で生きるってどんなイメージ?たとえばこんな話を聞くことです。以下は、盲聾で車いす使用の橋本克己さん(千書房刊・「克己絵日記」著者)と二人暮らしの母・ミツエさん(86歳)の語り。克己さんに関して、「何考えてんだろうねえ。頭の中かち割って見てみたいよ。」と言う時と、1942年〜45年の戦争のさなかに織子として生きた青春をふりかえる時は、すごく元気になります。」 


 2010年に「地域と障害―しがらみを編み直す」を出した時、「障害の地域モデル」と述べたが、その「地域」とは、家族(近隣を含む)、学校、職場などをイメージしている。6歳で就学免除にされ近所の子ども達から引き裂かれながら生き抜いてきた画伯の生きざまにとって、親たちや妹が、それぞれに家族、学校、職場をどのように生きてきたかは深い関りがあるはずだ。

 一家が画伯を入所施設に送ることを泣きながら辞退した時、大した応援はできないけれど、週一回だけは来れるということで、もう35年もの間、毎週金曜夜には、「手話会」と称して数人でお邪魔している。といっても、ここのところずっと、筆者自身は手話会の間ずっと居眠りしているか、母ミツエさんとおしゃべりしている。そんなひとときに、聞き書きをしたメモがたまっている。このブログでも一部紹介した。今回「ゆきわたり」に送ったのも、その一部だ。
 
 残りも順次ブログに載せるつもりだが、今回は、それと別に、ミツエさんが昔月刊わらじに書いた原稿を紹介しておくことにする。いずれも20〜30年前のものだ。

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苦難の長男誕生
                                    橋本 ミツエ
 長男が生まれたのは、昭和33年4月28日だった。名前は克己としたが、だが長男誕生の喜びは長くは続かなかった。言葉もなく、1年9ケ月には脳性小児まひと診断され、克己を抱えて毎日の苦難が続いた。
 毎日病院通い。3年機能回復のために通った北療育園で訓練方法を学び、自宅でも訓練を施した。子どもが不憫で、「死」という気持ちになったこともある。でも、深い愛情は続いた。正常な子と同じ喜びや楽しみを味あわせたいという親心から、自転車を改造し車椅子にして、外で遊ばせるようにもした。遊園地や行楽地にも連れて行った。
 だんだん体も成長し、家で閉じこもるようになり、暴力をふるうようになってしまい、骨折数回、眠れぬ夜がたびたび続いた。
 このままでは家族ともダメになってしまうと思い、福祉の正木さんにもお願いもした。昨年10月、工藤さんからの明るい話、「わらじの会」。進んで参加させてもらった。私も見に行った。楽しそうな姿を見て、本当に生きがいを感じた。
 わらじの会に参加して8ケ月。嵐山コロニー入所の許可も無視して。今では、例会や手話、またセントラルで泳ぎを練習。克己も世界の広がり、大勢の人たちとのふれあい、社会性に尽くして下さる皆さんに感謝しております。
 私もこれから例会に参加し、また若い人のようにバイタリティもありませんが、何かお手伝いしたいと思いますから、よろしくお願いします。
月刊わらじ14号(1979.6)
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普通学級へ体験入学を計画

                                  橋本 ミツエ
 12月14日、体験入学問題で、山下さんと克己を連れて、川柳小学校に行きました。校門をくぐりなんとなく不安を感じた。車椅子を押してゆくのを見た子どもたちは、珍しいように見ていた。校長室に案内され、初めに自己紹介。沢田校長先生、本間先生、そして克己も手話で名前を言いました。
 まず就学免除のまま家で閉じこもりで、年齢も21歳、体験入学させてほしい。できれば一学期と心に願っていたが、校長先生は地域学校へ行くのが筋道だといいました。年齢を過ぎた今はこだわることもないと思うのに、21歳にもなれば学校よりもまず仕事を見に付けさせた方がいいのではないかとも言われました。
 本間先生も強く校長先生に要望してくれました。校長先生は本間先生に責任が取れるのかとも言いました。最後の返事に、長くて1週間、付添も来てほしいと言われました。
 克己にしてみれば、短い1週間でもまわりの子どもたちとのふれあい、共に学ぶことができれば最高と思います。
 帰りには、本間先生の受け持ちの子どもたちが車の周りを取り囲み、いつ来るのかと訊く子どももいました。学校を後に、子どもたちのさよなる、バイバイの声に、克己も右に左にと笑顔でいっぱいでした。来年度以後もこの機会を奪われないよう、校長先生、山下さん、よろしくお願いいたします。


 上の写真は、体験入学したときに友だちになったクラスの子ども達。翌年のわらじ大バザーに手伝いに来て、画伯の絵を販売しているところ。


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1979年夏合宿・討論会「なぜ施設なんですか」記録より

司会 施設に克己君を入れるのをやめた橋本さん、どうしてか、そこのところを教えてください。
橋本 息子は現在24歳になりました。学校は免除で、ずっと家にいました。大きくなってからどこにも出られず、暴力をふるうようになったので、施設を考えた。嵐山コロニーから入所許可が来たのですけど、わらじの会に行き出してから少し変わってきたので、嵐山コロニーのほうも二、三度見学したが、成人の部屋で12,3人くらいで、ちょっと雰囲気が悪かったので。
司会 子どもにとって、施設が不幸の場所に思ったのか、つまらない場所に見えたのですか。
橋本 見学したとき、家では自由にテレビを見ているけど、9時になったら消されるし、テレビが高いところにあって自由に見られないし、中で遊んでるくらいで、つまらないんじゃないかと思った。


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交通事故入院
                                    橋本ミツエ
 平成5年12月21日午後10時30分頃、事故の電話で秀和病院に駆けつける。たいしたことなく、話もすみ、家に帰る。平野さん、今井さん、お世話になりました。翌日、秀和病院に行きレントゲンを撮り、複雑骨折。近いところにと、誠和病院に入院。29日に手術しました。
 ほっとする間もなく、ばい菌が入り、高熱が続く毎日でした。どこの病院でもと言われたが、先生のミスしか考えられなかった。山下さん、水谷さんのアドバイスがなかったら、途方に暮れたかもしれません。感謝しております。また、夜泊まりの皆さんには困らせ、本当に申し訳なく思っている今日です。
 入院生活142日間、本当に長かった。たびたびの大パニック。病室で何度泣いたかわかりませんでした。克己は相変わらず、夜中の見回りのことばかり、ナースコール押す。シーツにはマジックで看護婦さんの名前を書く。午前3時に呼び出しもあった。眠り薬も飲ませた。私も眠れない夜がたびたびでした。
 夜泊まりがいなくなってからは、40日間、午前6時に家を出る。本当に長い長い142日。退院し、ほっと一息。疲れが出てしまいました。また午前様の帰りになるのだろう。心配は一生続くことでしょう。
 病院に来て下さったわらじの皆さんありがとうございました。またこれからも宜しくお願いします。
月刊わらじ 1994年6月号


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 上の図は、月刊わらじに載せたかっての橋本宅(まだ旧陸軍兵舎を転用した長屋だったころの)の間取り図。ここで画伯がパニックになり、窓ガラスやテレビや家具を破壊し、夜に庭に這って出ている姿に出会ったし、手話会もここで始まった。「間取りに刻まれた家族の歴史」と題を付けてある。
 「克己さんの幼児〜少年時代のすべての時間がこの家で流れて行った。」と、書いてあるなあ。

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