共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 北海道の旅レポート2 ―離れては交差する楕円軌道 行木さんとの縁から

<<   作成日時 : 2015/09/13 18:11   >>

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北海道へ3泊4日の珍道中をしてきた。連れ合い、聾唖・弱視・下肢マヒの橋本克己画伯、見沼田んぼ福祉農園協議会代表の猪瀬良一さん、それにかって1年間ボランティアとしてわらじの会に滞在し今は京都で看護師として働く廣田京子さんの5人で。さらに初日の晩だけは、うちの隣の谷中歯科医院の平野夫妻。平野洋二さんは、大学の教養部で同級生。妻で保健師の栄子さんは、わらじの会発足時からのメンバー。

 そもそもは写真右端の旧友・行木紘一さんからの再三再四の「お互いにいつ死ぬかわからないからその前に来い」との熱い?メッセージにひかれての旅。

そしてまた、生きて還れるか、不安におののきながら出かけた旅でもあった。

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 その直接の理由は、最近めっきり上肢や体幹の機能が衰えた橋本克己画伯のトイレや風呂や泊りの介助を、北海道のバリアフルな環境で、基本的には72歳になった自分一人でやらなくてはならないということ。既に出発数日前に、腰痛が起きていた。脊椎の圧迫骨折でも起こして入院し、そのまま衰弱してゆくのではないか。悲観的な想念ばかりがふくらんでゆくのだった。結果的には、杞憂にすぎなかったのだが。

 だが、いわば「介助死」の危機をくぐりぬけてでなければ北海道には行けないという、ひとりよがりの気負いのようなものが筆者自身にはあった。なぜなら行木さんが半生をかけて家族や現地の人々と共に重ねてきた生活の場に行くには、自分自身も半生を引きずって出かけるのでなければという思いがあったからだ。

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 行木さんとは1961年大学に入学したての山岳部の新人歓迎山行で一緒になって(上の写真右端が行木さんで左端が筆者)以来、時代の節目節目で運命的な出会いをしてきた。というのも、私たちの青春時代は60年代。大管法、日韓・原潜闘争から二つの羽田闘争、三里塚闘争という70年安保へ向かう政治の季節。それらとからみあって全国に広がった学園闘争の時代だった。

 筆者は体育会系なのだが、たまたま部活の先輩たちに自治会役員が多くいて活動にひきこまれたクチ。それに対して、行木さんは音楽、美術、詩などの才があり、新聞会にも属していた。分野がちがうから、むしろ気になる友人としてつきあってきたように思う。

 正確に言えば、筆者らの入学の前年に60年安保の昂揚と敗北後の沈滞ムード(池田内閣の所得倍増路線の下での)があり、入学してからしばらくして誘われていった国会デモは、全都動員のかけ声にも関わらずわずか20名ほどでしかなかったことを覚えている。60年安保で名を馳せた「ゼンガクレン」も事実上解体していたが、唯一医学部だけは全国の自治会が参加する全日本医学生連合(医学連)が、医学生ゼミナールと医学生体育大会をベースとして存続していた。
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 その医学連が60年代前半から「インターン制度完全廃止」の運動を全国的に取り組み、筆者も後に医学連中央執行委員長になるなど、医学部以外の学園闘争の契機ともなった運動に関わることになった。

 この運動は、全国の医学部卒業生が、厚生省の定めたインターン指定病院を拒否し、さらにはインターンの1年後に行われる医師国家試験も拒否するという実力行使をもって国と対峙した。だから、全国のすべての医学部4年生の参加が不可欠で、医学連では手分けしてすべての大学の医学部4年生のクラス討論に入って説明した。筆者は、岩手、東北、大阪、神戸、和歌山、熊本、鹿児島の4年生のクラスに入った。大阪は、後に徳洲会理事長となる徳田虎雄さんのクラスだった。また、彼より下の学年だが、この運動の推進に熱心だった学生と出会ったが、それが後述する木村健一さんだった。

 
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 上は「27日間のストに何を学ぶか」と題した大学新聞の特集。行木さんはNAというペンネームで、「斜すかいにストを見た ― 医の中の蛙」という一文を書いている。

 「医の中の蛙」とは医学生。6年間を通し少人数で学び、卒業後も医局を通した濃密な人間関係の「有情」の世界。しかし、その「有情」の世界を組み込んで巨大な「非情」の機構が成立している。「インターン制度完全廃止」とは、非情の機構に対してあえて非情の闘いを対置することだった。

 行木さんはこう結んでいる。
 「有情が『良識』であるに越したことはない。問題は『良識』を『非情』の世界に持ち込んで、有情をキシませ、権力の『非情』を『良識』で抱擁してしまうかどうかであろう。『幻想』とは場違いの有情のキシミと覚えた。キミも蛙、ワレも蛙、同じ『医』に棲む蛙ならそれらしく、激しく生きてみたいもの。」
 いい文章だ。

 とはいえ、この大学病院立てこもり、そして1年後の医師国家試験ボイコットは全国すべての医学部の参加により敢行され、しかも毎年積み重ねられていった。

 そして、立てこもった人々は「青年医師連合(青医連)」を結成し、「無免許医師」ながら自主研修で力をつけ、民間病院を開拓して労働力を供給するアルバイト委員会を組織したり、全国的にも連帯しながら、先輩の無休医局員といわれる人々と組んで、医療・医学のあり方、大学のあり方を問いつつ、大学によっては医局を解体したりもしてゆく。

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 安田講堂攻防戦で知られる東大闘争も、医学部のインターン闘争が発端。

 しかし、筆者自身は、心情的にはいわば卒業試験ボイコットを一人で続けた形で、医学部以外の大学の運動や70年安保へ向かう政治闘争に関り続け、4年後の1971年に除籍となった。

 その辺のことは長くなりすぎるので端折るが、70年安保闘争に対する国家ぐるみの弾圧が激しさを増し、運動や組織の展望をめぐり、一緒にやって来た人々と次々別れを繰り返し、孤立の極に至って、既に本屋を営んでいた仲間の誘いに応じ、連れ合いと東京を離れ、地域から一転出直そうと埼玉へ来た。

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 ともあれ、埼玉に来て、団地自治会が設立した生協で働き出し、その活動の縁で「総合養護学校」を作るんだという障害児の母ちゃんたちと出会い、彼女たちの語りの迫力に引きずり込まれ、いつのまにか事務局として重宝がられた。上の写真は、学生運動で鍛えた原紙カッティング技術を駆使して筆者が作成した総会議案。

 そこでは、かって「帝国主義大学解体」の論理になじんでいた身として、「生活の場としての学校」という感覚にびっくりさせられた。でも、越境して入れた都立の養護学校から追い出されるので、自宅から通える地域に養護学校を作らせたいという論理には、疑問を強く感じていた。また、いつも話し合いは午前中子供達がいない所で、私や市議を除けば母ちゃんたちばかりで行われていたため、障害児って誰なんだと謎が膨らんでいった。

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 その疑問と謎を受け止め、きっかけを作ってくれたのは、あの青医連の生き残りで、東大病院を拠点に「日本の医療を告発するすべての人々のつどい」をアリナミン告発で有名な高橋晄正氏を代表として立ち上げて間もなかった事務局長・故木村健一さん(上の写真)だった。

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 大阪から上京し、当時、東大闘争終息後の東大病院を拠点にがんばっていた。その後1980年になって、がんばっていた仲間たちで、新座市に地域医療実践の場として、病院を設立することになる。彼の紹介で、どの子も地域の学校へと活動していた「がっこの会」と出会い、その例会で「川口とうなす会」のメンバーと出会い、そして川口で八木下浩一と出会うことになる。


 「川口とうなす会」の分家のような形で、東武伊勢崎線沿線をエリアとするわらじの会が発足するのはその数年後の1978年。「総合養護学校」の会を担った母ちゃんたちや子どもたちも多く参加した。

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 そうした流れの中で、「総合養護学校をつくる会」は「福祉と教育を考える会」に名前を変え、上の新聞記事にあるように、就学先の決定は保護者の希望尊重を、現在地域の学校に在学中の子はそのまま在学させて という県交渉を行うまでになった。しかし、すでに地元に二つの養護学校が開設され、多くの子どもはそこに通学しはじめ、「福祉と教育を考える会」会員の多くは養護学校PTAとしての活動が忙しくなったこともあり、親たちの会は自然消滅するに至った。

 ちなみに、わらじの会発足時にも、行木さんとの縁がからむ。彼は日中国交正常化により1973年、北京に日本大使館が開設された時、初代の医官として派遣された。

 そこにいる間に、戦前、埼玉県から満蒙開拓団として派遣され、敗戦時の混乱の中で八路軍の医師と結婚し、ずっと中国で暮してきた石川さんという看護師と出会い、彼女の一時帰国の引受先を私に依頼して来た。
 連れ合いと相談し、当時住んでいた団地の住戸で彼女と半年の間一緒に暮した。
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 石川さんは、中国でずっと医療に従事し、家族にも恵まれて暮してきたが、文革によって他の多くの残留日本人と同様、侵略者の手先として激しい批判にさらされた。そのため、一時帰国した日本が平和で繁栄した豊かな社会であることを強く感じた。あまりにも日本はすばらしいと言うので、別の一面も見てもらいたいと思った。ちょうど春日部の鋳物工場が倒産し、経営者が責任を取らずに逃げてしまい、労働組合が泊まり込んで闘っていた。そんな現場にも一緒に出かけた。
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ちょうどわらじの会立ち上げの時期と重なり、彼女も会の活動に何度も参加した。上の写真は土手すべりとバーベキューの例会で。

 そういえば、1980年に「親と子の福祉体験旅行」でスウェーデンに出かけた時もカンパを沢山いただいた。その翌年1981年にスウェーデンの障害者団体RBUを日本に招く相談をするため、札幌いちご会の小山内さんのアパートを訪ねた時も、ちょうど北海道の別のクラスメートの結婚式があり出席したので、行木さんと会った。
 
 その後も折にふれ、会っている。そんな仲だ。そうだ!「克己絵日記」にも文章を寄せてもらったっけ。

 以下の文は、最近メディカルトリビューンという業界紙に載ったもの。行木さんらしい。

「本棚から」(投稿)’15 6・22 北海道 弟子屈クリニック 行木紘一

 「そんな場合じゃない!」が最近の日常の口癖になった。日常を仕訳すれば「公・私」ということになろう。起きてから寝るまで、むろん大半は仕事(公)に費やす時間であるが、
その流れのなかで頭の中を絶えずめぐっている思念(私)は、実は多くが現在の社会的状況に関わっていることに気付く。落ち着かない。さながら上の空″の状態といっていい。だから、「そんな場合じゃない」は「仕事どころじゃない」に行き着きそうになるので慌ててしまう。
・・「どうなっているんだ」「なぜだ」「どうすればいいんだ」ばかりである。この国は(その中の私という存在も含むが)オカシクなってしまったらしい。
 マスメディアの現状はとっくに「なんとかならないの?」の域に入り込んでしまっている。しらけた三猿(見せざる・言わせざる・聞かせざる)ばかり。だから情報探しの日々となる。「ほんとの話」に飢えている。で、本を漁ることが格段に多くなった。寝室も書斎も職場のデスクも、積み上がった本が今にも崩れそうになっている。しかもまだ進行中。(ネット関連については省略)本の山を見ながら思う。これは個人的嗜好のなせるものだけではない、「社会的状況」の結果でもあろう。海岸に堆積する漂着物の山になぞらえ得る。仕訳が必要と思う。「仕訳」・・、
時間も方法論も乏しいので、並べながら考えることにする。ご一瞥をお願い申し上げたい。

 非知性的な扇動(ヘイトスピーチも)のキナ臭さを体中から振り払いながら、戦後70年を思うと・・『きけわだつみの声』(日本戦没学生記念館)、『無言館の青春』(窪島誠一郎)は原点を想起させる。
『敗北を抱きしめて』(ジョン・ダワー)は七つ星だろう。『日米開戦の正体』(孫崎享)この人の著作は今を考える際の最上質の参考書と思われる。『日本の国境問題』『戦後史の正体』など、啓蒙とはこのことと思う。山本七平『日本はなぜ敗れるか』も追加したい。

 今を根源から考えるうえからは、『人は愛するに足り真心は信ずるに足る』(澤地久恵・中村哲)、『日本という国をあなたのものにするために』(カレル・ヴァン・ボルフレン)を挙げたい。ボルフレンの最初の本『日本権力構造の謎』は目から鱗だった。『人間を幸せにしない日本というシステム』はその表題からして心に刺さった。現状を掘り下げたものは数多いが、ここでは『絶望の裁判所』(瀬木比呂志)の衝撃を分かちたい。医療関係では『沈みゆく大国アメリカ』(堤美果、続編も)が筆頭か。かつて李啓充が『アメリカ医療の光と影』で指摘していたことが、新自由主義跋扈の今になって全開になったことを実感する。 
 9・11もそうだったが3.11は日本人にとって未だ覚めぬ悪夢そのもの。かねて『原子力神話からの解放』
を著した高木仁三郎の先見の明は脱帽ものだ。原発に関しては『原発のウソ』他(小出裕章)。氏には多数の精力的な出版、講演活動がある。医療関係では『放射線健康被害の真実』(西尾正道)も挙げたい。
ついでながら、福島共同診療所の活動は「闇の中の一条の光」であろう。
正面から3・11以降を見据えた本に『大震災の中で私たちは何をすべきか』(内橋克人)がある。内橋は震災前に、宇沢弘文との共著『始まっている未来・新しい経済学は可能か』を上梓しているが、現況との落差には空しさを禁じ得ない。   
この国は「ボタンを掛け違えた」のだ。さだまさしの歌(小説ではない)「風に立つライオン」の中のフレーズを思い出させる。

 そしてそんな場合じゃない″今の視点では、童話風だが『茶色の朝』(フランク・パブロフ)が心に刺さる。
本ではないが、マルチン・ニーメラン牧師(ドイツ)のあの有名な言葉(慨嘆であろう、血を吐くような)・・「ナチスが社会主義者を攻撃した時、私は行動に出なかった。なぜなら私は社会主義者でなかったから。
ナチスが次に労働組合を攻撃した時、私は行動に出なかった。なぜなら私は労働組合員でなかったから。
ナチスがユダヤ人を攻撃し始めた時、私は行動に出なかった。なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
そして、ナチスが私を攻撃し始めた時、私のために声をあげる人は一人も残っていなかった。」
が今更のように心に刻みこまれる思いだ。
 さらに、「どれほど繰り返し宣伝されようが、誤りが真実になることはない。誰も知らないからといって真実が誤りになることはない。真実はたとえ人々が認めなくても存立しているのだ。それは自ら成り立つものである。」(マハトマ・ガンジー)も、もって銘すべきだろう。マーチン・ルーサー・キング牧師は「嘘は生き延びることが出来ない」といい、さらにこうも語った。
「重大な事柄に我々が沈黙するようになる日に、我々の生命は終わりに向かう」。

 晩年、「鐘の鳴る丘」を唄いながら涙していた小沢昭一は、やはり晩年になって始めた俳句を死の床でまとめていた。『変哲半生記』。どこか救いを感じさせてくれる句集だが、彼はそれを手にすることなく他界していった。よく言っていた、
 「何かヘンだな、と感じた時はもう大分怪しくなっている。これはいかんと思った時はもう手遅れ・・」。戦中派の正確な回顧だ。野坂昭如に通う。先の戦争は、国内外の歴史文化の数々の蓄積を無惨に破壊してしまったが、中東の現在はそれらを何十倍も上回る破局を演じているのだと思う。
スカイツリーを見上げながら、精神科医である先輩が呟いた言葉が忘れられない。「ああ、これでやっと東京大空襲で亡くなった無数の人たちへの『鎮魂の碑』が出来上がった」。
 ・・古き佳き東京の風景については、お勧めしたい画集(版画)がある。『夕暮れ巴水』(川瀬巴水、林望)。
終りに、劇画『総員玉砕せよ!』(水木しげる)を追加する。・・『希望は絶望のど真ん中に』(むのたけじ)を再読しながら。

 

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