共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 遠いから わらじ大バザーは行く ―35年目の地域

<<   作成日時 : 2012/10/10 00:29   >>

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facebookにこのポスターとあわせて以下のメッセージを載せた。
 第35回わらじ大バザー 10月14日(日) @せんげん台第4公園 (東武スカイツリー線せんげん台駅西口下車 駅からまっすぐ10分 右折すぐ右 イオンせんげん台店向かい側) 11:00〜15:00
  わらじの会及び関連・友好団体のみんなの顔ぶれがそろう。親兄弟、友人、知人、30年ぶりの再会がそこここで。国境・民族をこえた異文化交流も。そして何より掘り出し物がいっぱい! 千客万来 一陽来福

 いろんな人にシェアしていただいた。このブログでは、紙メディアである月刊わらじバザー号外に書いた巻頭文を紹介しておこう。

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これは去年のバザーの開始時間直前の風景。こんな風に広い公園を存分に使って、あちこちに売り場やフリマや手相や就学相談所やプロレスや太鼓や即興演奏がくりひろげられる。
 
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さあ いらっしゃい! ……そうそう、号外の巻頭文だった。では…まずは口上から。

  近年まれに見る猛暑の夏から、時には肌寒いほどの季節に急変していますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。バザーへのご協力とご声援、ほんとうにありがとうございます。

 バザーの収益金は会報や会独自の車、出版など、福祉制度の枠外で行なわれる活動費にあてます。ただバザーのもっと大きな意味はプロセスにあります。会員の住む近所で提供品をお持ちいただいたり、回収にお訪ねしたことが縁で長くおつきあいいただいている方が各地域におおぜいおられます。

 会場は越谷・春日部両市のあちこちを巡りながら、新たな縁を結び、忘れていた縁を復活させます。バザーによってわらじの会の新陳代謝が促進されているといっても過言ではありません。

 今年のバザーは、昨年久しぶりに戻ってきたせんげん台第四公園で再度行ないます。お会いできることを楽しみにしています。


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 <strong>■ 田圃の通学路だった第四公園

 このせんげん台第四公園は、わらじの会が発足した1978年には、まだ存在していませんでした。当時のせんげん台駅西口からいまパークタウンになっている一帯は、区画整理によって水田が埋められたあと湿地帯となり秋にはガマの穂が風になびいていました。

 もっとさかのぼればここは大袋村三野宮の地内。見渡す限りの田圃の中の道を、ふらふらと時々転びながら行く女の子
 ――三〇年後、自立に向かってはばたく家準備会の中心メンバーとして生活ホームや介助システムを実現し、早逝した光子さん。

 その小さな後ろ姿が、秋風のあわいに浮かんで消えたのを、いまあなたは視たでしょうか。
 
 大竹にある大袋小学校まではなんと四キロ近くありました。


 上の写真は、せんげん台西口が開発される前、いまの第4公園が位置する三野宮から大袋小学校がある大竹を眺めた様子です。大竹自治会発行「大竹の歩み」1997 より転載させていただきました。 

 ■ 「きないっていい」って

 後に彼女は書きました。

「ちいさいときは きんじょのこどもたちと あそんでいました。わたしが となりのいえにあそびにいくと おじいさんに『みづれえ みづれえ』っておこらいました。そして しばらくたって がっこうにあがりました。がっこうに あるいて 三ねんいきました。がっこうのせんせいが 『あぶねえから きないっていい』っていった。それでいかなかった。」

 そして妹の故幸子さんも同じように障害をもちながら、いまは第4公園になっている田圃道を歩いて二年間だけ通学しました。

 いじめっ子に石をぶつけられて泣いていたのをかばってくれた近所の子に淡い恋心を抱いたのもこの田圃道でした。

 地域は人を差別し排除します。でも差別をこえて出会い、つながる場もやはり地域です。
 

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 上の写真は光子さん、幸子さんが、就学を免除された後、ずっと家で過ごし、30代にわらじの会と出会い町に出始めた70年代末のバザー前日の会場風景。前列の車イス使用者、左から二人目が光子さん、四人目が幸子さん。この頃はまだ野外でのバザーではなく、かって越谷駅から5分ぐらいのところにあった木造の越ケ谷公民館を使ってこじんまりと行っていました。
 さて、巻頭文のつづき…

 生活ホームを作ってやっと家を出た姉妹は、介助者を必死で募集するため、せんげん台駅前でビラをまいていました。ためらいながら声をかけてきた婦人がAさんでした。

 かって教室で幸子さんの後ろの席にいて、いつも幸子さんの髪の毛をひっぱって泣かせていた子でした。二年生までしか行かなかった幸子さんでしたが、Aさんには強烈な印象を与え、だからこそちょっかいも出したのでした。
 Aさんはバザーにもよく来て下さっているそうです。


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■ お前が気になったからだよ

 武里団地で地域の学校に通った秀さんが大人になって、小学生の頃自分をいじめた子に出会ったのも、せんげん台駅前の夕暮れでした。

 お互い不思議に懐かしく、秀さんは相手の家に行き語らいました。あの時なんで俺のこといじめたの?と訊くと、お前が気になったからだよと返ってきました。

 後に彼はバザー前夜若者たちが警備を兼ねて泊まっている会場まで来てくれたりしました。


 上の写真の左の青年がわらじの会に来始めた頃(1981年)の秀さん。「貧乏神」、「元祖登校拒否児」と当時から名のっていました。現在の写真は下。
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 巻頭文のつづき。


■ ラセンの時間の大切さ

 時間の大切さを感じます。それは測ることができ、過去から現在へそして未来へと直線的に進む時間とはまた異なる時間です。

 地域にいることで、いつか、どこかで、また出会い直せる、排除をしたからこそ、排除せず受け止め合えるかもしれないという、ラセンの軌跡を描く時間です。

 秀さんは光子さん・幸子さんとちがって、岡山から仕事の為に上京し、越谷、春日部、横浜で計五十年生きて先日亡くなった父の長男です。

 越谷・春日部の地域は、どちらも五万人程だったのが半世紀でそれぞれ三十数万人、二〇数万人になりました。全国から職を求めて上京した人が定住し、子を、さらに孫を生んだ結果です。


■ 異なる歴史や文化がせめぎあう地域で

 それぞれの故郷の長い歴史や文化を背負った人々が、それらを断ち切って、この越谷・春日部を永住の地としたのです。この地域がたくさんのぶつかりあいやすれちがいをはらむのは当然でした。

 昔からの差別・排除の関係は、さらにこま切れになり、入り組んできたのでした。わらじの会はそのただ中で活動してきました。

 光子さん・幸子さんの日常活動の場は武里団地でした。そこで秀さんとも出会ったのです。


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写真は1990年バザー物集めのチラシを武里団地の各棟の前で通りがかりの主婦にポストに入れてほしいと頼んでいる光子さん。褥瘡が悪化しストレッチャーで外出していた。亡くなる数ヶ月前まで街へ出て活動していた。

■ 遠いから わらじ大バザーは行く

 越谷市立図書館二階に「野口冨士男文庫」があります。そこに陳列されている色紙――

 「遠いから 私は行く  野口冨士男」

 私たちのラセンも遠く遠く続いています。遠いからこそ行くのです。

 遠いからこそ、差別・排除につながった「気がかり」が、本音でぶつかりあいながら生きる関係に熟する時間を包みこめるのです。

 わらじの会は今年で三十五年目を迎えました。バザーも遠い遠い田圃道をたどって、今年もやってきます。

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