共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 総合県交渉を前に―埼玉流の源といま 障害の関係(しがらみ)モデル

<<   作成日時 : 2012/07/24 23:58   >>

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いま社団法人埼玉障害者自立生活協会(坂本さとし理事長)と埼玉障害者市民ネットワーク(野島久美子代表)というかたちで集まっている団体・個人は、決して一枚岩ではない。ではなにが共通の基盤なのだろうか? 「埼玉流」と呼ばれる活動のありようについて考えてみる。

 25年前、「国際障害者年サイタマ5年目のつどい」を共同開催しようと、県内各地から小さな団体が集まった。その時集まった団体の活動は大別して三つの流れがあった。普通学級就学運動、差別告発運動、共に街に出ようという運動だ。この三つの運動は、それまで席を同じくすることがほとんどなかった。上記「つどい」の実行委員会はいつも怒鳴り合いになったりした。曰く「本人抜きで親が決めている」、「親が最大の敵」、「意識的な身体障害者だけで結果的に知的や精神の障害者を排除」、「健全者主導・障害者差別」などの批判・反論が飛び交い、学校とは、地域とは、自立とは、働くとは…といったテーマが濃く語り合われた。
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 その結果、障害者の問題は、一部の人間を「障害者」として別枠にくくり出すことによって維持されてきた障害のない人々の社会の問題なのだという共通認識が形成され、そこで取り組まれることになったのが、現在まで重ねられてきた「総合県交渉」なのだ。

 この共通認識は「障害の社会モデル」ということであり、障害者制度改革推進会議が提出した総合福祉法の骨格提言や改正障害者基本法に盛り込まれた考え方と一致する。

 25年前はごく少数派の考えにすぎなかったことが、内閣府の下に設置された障害者団体代表と関係諸機関、自治体等の代表からなる委員会の公式見解になった。それだけ運動は成熟したのか?そうとも思えるし、いやいやちがうとも思う。

 いろいろ条件付きではあるが、成熟したと肯定的に見た評価については、このブログの「だまされないぞ!厚労省は骨格提言を尊重せよ―埼玉でちんどんパレード 」→http://yellow-room.at.webry.info/201202/article_1.html を参照されたい。

 その上で、ここでは「障害の社会モデル」というけれども、どうもそれでは足りなすぎるのではないかということに関して述べておきたい。わらじの会編「地域と障害―しがらみを編み直す」(2010 現代書館)では、「障害の地域モデル」と名付けたが、より一般的な呼称としては「障害の関係モデル」としたほうがわかりやすいかもしれない。ただ「関係」という語を用いる時注意すべきなのは、「関係をつくる」とか「関係性」という時、どうしても都合のよい、自分が良いと考える面だけを取り出しやすいことだ。関係は「つくる」のでなく、そこに初めから「しがらみ」として存在する。筆者が「地域」に「しがらみ」とルビを振ったのも同じ意味だ。
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 この「関係」とは、阿部謹也氏の「世間」にきわめて近い。マルクスは「人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。」と言ったが、その関係についての日常意識は洋の東西において大きく変わると阿部氏は述べている。ヨーロッパでは人は自らを関係から自由な個人として意識し思考するのに対して、日本ではご近所、クラス、学校、職場、会社、サークル、教団といった関係の一部として意識し思考する。それらを阿部氏は「世間」と呼んでいる。「しがらみ」である。それは差別構造を内包するし、その構造に組み込めないものを異物として排除もする。

 たとえば前記骨格提言においては、「障害のない市民との平等と公平」が目標のトップに掲げられていることに示されるように、障害のない市民が自立した個としてあり、障害者は差別と不利益を強いられ個としての自立を阻害されている存在としてイメージされている。
 いっぽう改正障害者基本法には、目的規定の中に「障害の有無によって分け隔てられることなく」が入った。この「分け隔てられることなく」は、「可能な限り」という限定つきではあるが、「地域社会において他の人々と共生すること」、「 医療若しくは介護の給付又はリハビリテーションの提供を行うに当たつては、障害者が、可能な限りその身近な場所においてこれらを受けられるよう」、「障害者である児童及び生徒が障害者でない児童及び生徒と共に教育を受けられるよう」、「障害者である子どもが可能な限りその身近な場所において療育その他これに関連する支援を受けられるよう」など、「障害の関係モデル」、「障害の地域モデル」に関わる規定が盛り込まれている。ただし、先に述べた「しがらみ」としての要素は薄められてしまっているし、「共生」という言葉の使い方もあいまいだ。
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 いずれにせよ、障害者の権利条約にまつわる取り組みの中に、二つのあい異なる要素が混在していることについて認識している人びとは、まだ圧倒的少数にとどまっている。
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 冒頭で述べた三つの運動が合流した25年前、真っ向から衝突して互いに相いれないかに思われたそれぞれの論理が整理されてゆくベースは、顔と顔を突き合わせ、互いの生活を知るようになったことが大きかった。普通学級就学運動は、「お子さんに合った教育は別の場で」という教委・学校の指導を拒否して、近所の子どもたちと一緒の学校へ行く…それだけのこと。一緒のクラスになった子どもたちがまず本人と遊んだりけんかしたりすることから、やがて教員や他の親たちとのぶつかりあいや出会いがひらかれてゆく。そうした構造を知らないと、「本人の意思を無視して親が…」と思えてしまうが、障害のない子の親も就学に関して本人の意思を確認することはない。特別な場を選ばないということにすぎない。高校にしたって、「高校くらい出ておけ」と本人に強いることはあっても、行かないでいいよという親は少ないだろう。
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 共に街に出ようという運動にも支援者が不可欠で、「健常者ペース」との批判を受けやすい。が、長年家にこもっていた人はとりわけ家族・親族のしがらみの中にあり、それが壁にもなり時には強力な発信基地にもなる。街へ出てゆく中で出会うさまざまな人々が個々の障害者の周りにつながり、彼らは必ずしも互いを知らない。よく「健常者はいつでもやめられるが障害者は(障害者であることを)やめられない」とか言われるが、卒業して個強に帰る学生ならともかく、近くに住み家族とも顔見知りになると、深夜のSOSが続いても出動しないわけにはゆかない。要するに健常者もしがらみの中に編みこまれ、互いにせめぎあいながら地域を変えてゆくしかない。とほほなのだ。
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 差別告発運動は、アメリカ流権利擁護運動とはちがっていた。後者は能力があるにもかかわらず障害を理由として別扱いされることに対して自立した個人としての権利を闘いとるというもの。前者は青い芝に発する運動であり、「あってはならない存在」とされている自分達の「生きざまをさらす」ことにより、健全者社会に対しての「闘争=ふれあい」を行い続けるというものだから、自立した個の権利を求めるのでなく、健全者が自らの生き方を見直して障害者の介護等にかかわりつつ、互いにせめぎ合って生きる関係になることを求める。そして、どんなにかっこよいことを言ったって、最初は運動としての関係であっても持続してゆけば、それはしがらみをはらむ。むしろそのことを切り捨てたのでは、地域に根付いた運動にならない。 
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 けっきょく三つの運動は互いに異なる関係の構造をなしており、それぞれの形で周りの関係を変えることをめざしている。あるべき社会を一足飛びに求めるのでなく、足元の地面を変えることを重ねつつ、自らのしがらみ(差別・排除の構造でもある日常)を足場にするとともにそれを編み直しつつ、結果として社会を変えてゆくことをめざしている。これが障害の関係モデル、地域モデルなのだ。

 ちなみに、「共生」について述べれば、「出発点または土俵であって、目標ではない」ということ。欧米の障害者運動のリーダーが日本に来ると、会場から「共生についてどう考えるか」と質問が出て、それに対し「障害当事者の自己決定をあいまいにする」と批判的に答える。これは質問する側も「共生」を目標または理念と考えているのと、まずは個の自立を闘いとらなければ社会から抹殺されたままになるという欧米の障害者たちの切迫感が背景にあると感じる。そんな甘っちょろいこと言ってる場合かと。

 日本では「共生」を目標であるかのように考える傾向があるから、こうしたやりとりになる。「共生」とは、個としての障害者の権利獲得だけでなく、同時に障害者を分離・隔離してきた社会関係を問い続けることだと考えれば、これは「障害の社会モデル」ということになり、両者のずれはなくなる。なお、上記のように少なくとも日本では社会を構成する種々の「関係」を内部から問うてゆくことが必要だが、この「関係」もあくまでも出発点ないし土俵であり、目標ではありえない。

 あれから時は流れて25年―いまどうなっているのか?
 以下、くらしセンターべしみ職員・Nくんの文章(わら細工ニュース7月号)を紹介する。

 暮らしのイロイロ こぼれ話

 ☆それぞれの暮らし方

 毎年埼玉障害者市民ネットワークは、埼玉県との交渉に取り組んでいます。交渉は県内の各団体の要望をまとめた要望書をもとに行われます。現在はその要望書づくりの佳境。

 ある団体からは、入院時に介助者を入れられるようにという要望が出ました。暮らしの場が病院に移っても、看護師ではなく慣れた介助者をという要望。これならわら細工が春日部市に要望してきた内容と同じです。

 ただその団体の要望には、介助者が介助に入れないと介助者が生活できなくなって介助を辞めてしまい、退院してから大変になるという理由も含まれています。これはわら細工の要望内容と違います。

 話を聞くとその団体では24時間一人の介助者が付きっきりでの暮らしをしており、それによって介助者の生活も成り立つということでした。そのほうが時間で切り分けられた介助体制よりかは生活しやすいとも。これはわら細工の中には見当たらない生活スタイルです。

 暮らし方が違うから要望に理由も変わる。どちらが良い悪いではなく、要望書づくりがそれぞれ自分なりに地域での暮らしをつくっていることを、お互いに知るきっかけになっています。
 

 たしかに良いも悪くもなく、それがしがらみなのだ。地域での暮らし方を互いに知り合うこと、それは言いかえれば関係を、地域を互いにつき合わせること。かっこいいばかりではない。愚痴や迷いがないのがおかしい。それらを出し合えることこそ大切。それぞれが関係をひきずってぶつかりあうこと。しだいに互いの関係まるごとせめぎあい、つながってゆくこと。

 それが「障害の関係モデル」、「障害の地域モデル」であり、それを介さない限り「障害の社会モデル」は実体をもちえないのではないか。

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