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zoom RSS 身近な被災体験―仙台そして越谷(月刊わらじ5月号より) 

<<   作成日時 : 2011/05/22 12:59   >>

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 前回のブログに載せた [「身近な被災体験 第18信」 
→ http://yellow-room.at.webry.info/201105/article_6.html の文章のうち、月刊わらじ5月号(写真)から転載したふたつの原稿を以下に紹介する。
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 まず仙台から。ケアマネージャーとして一人暮らしの高齢者宅を訪問中震災に遭い、近所に住む高齢者も含めて3人で、津波が迫る中、高台の小学校へ避難した体験。

 「なんとか、でもしっかり、生きてます。                                                                           
                                    沼倉亜紀子(仙台市)

 Kさんは1〜2ヶ月毎の受診以外、どこへも出かけない。閉じこもり。なんとかデイサービスの体験利用の同意にこぎつけた。あーなんとかなった。逆にここでくどくど話すと、またどこへも行きたくないと話は振り出しに戻ってしまう…そろそろ早く帰ろう。ん?ガタガタ鳴ってる?地震?風?あ、地震っぽい。げー、ここのアパート古いから余計揺れるべー、おっかないし。Kさんも普通にしてるし、いつもこんなもんだべ。げー、まだ揺れてるし。長い。とりあえずストーブ消しておくか。揺れが長い、しかも強くなってきている。なんか、嫌な感じ。

 こんなときどうしたらいいんだ?でもきっといつもより少し強めの地震でしょ?そんなに慌てることないよね…揺れが長い、強い。どうしたらいいんだ?たぶん目の前のKさんは私が責任持って守らなければならないんだよね。揺れが強い、家が左右に、体も左右に、その場に踏みとどまるのが精一杯になってきた。アパートのガラス戸が揺れで開いて音を立てている。危ない。Kさんを右腕でかばい、左手で食器棚を押さえる。家の中を見渡すと、家中の戸が開き、玄関の戸も開いている。どうしたらいいんだ、いつまで続くんだ。こんな状態なのはこのアパートだけか?とにかく怖い、揺れる、体がずれる、怖い、どうしたらいいかわからない、叫びたい…そのときガタンと神棚が落ちてきた。遺影も倒れた。やばい、この地震はハンパない。たぶん天井落ちてくる。天井落ちたら二階が落ちてくる…私死ぬんだ、私の人生こんな短かったのか、私こんな死に方をする運命だったんだ。朝はローソンのパンケーキ、昼はレンジでチャルメララーメン…もっとまともなおいしいもの食べておけばよかった。食べるのが好きなのに、もう食べることができないなんて。二階が落ちてくるにしてもうまくつぶれれば命は助かるだろうか。

 Kさんをテーブルの下にもぐらせれば…私がもぐる場所ない。でもまずKさんをもぐらせて…リウマチの足じゃ座卓の下にはきついか。この状況じゃテーブルも持ち上がらない。まだ落ちてこないか、天井ばかり見ていた。

 逃げなきゃ、そうだ大地震の時は外へ行かなきゃ。揺れがおさまったら外へ行こう。早くおさまれ、早くおさまれ。
あ、弱くなってきた。でもまたガタンって大きく揺れるんじゃないか?怖い。この先どうなるんだ?怖い。でも動かなきゃどうにもならない。もう揺れるな、もう揺れるな。揺れてもいいからこれ以上大きく揺れるな。ブラウン管のテレビすらテレビ台から落ちている。冷蔵庫も倒れ、玄関から出れない。縁側へまわると、向かいの家やアパートから人が出ていた。やっぱり大地震なんだ。縁側の戸が開かない、動かない。閉じ込められたのか?ふと見ると、揺れたおかげで人一人通れる隙間が開いていた。靴を取りに行くが、私の靴は倒れたポリタンクからの灯油でずぶぬれ。あー気持ち悪いから履きたくないけど、きっと道路も荒れていて裸足は危ない、履くしかない。

 やっと外へ出た。とりあえず助かったか。アパートの壁が崩落している。戸がはずれている。電線がぶら下がっている。

 同じアパートの隣の棟にNさんがいる!部屋がわからない。担当者が違うから、存在は知っているけど、顔もわからない。

 全部に声をかけるか?そのとき1号室の男性が通りかかる。ここのアパートにNさんっていましたよね!?聞くと、男性は11号室に向かってNさん!と呼びかけ始めた。Nさんは脳梗塞の後遺症か、左麻痺で足には装具をつけていた。揺れでベッドから転落したのだろうか、床に横たわっていた。自力では起き上がれない。大事に飼っていたであろう、大きな金魚も横たわっていた。まず金魚を助けるか、いや、金魚鉢は割れてるし、この初めて入った荒れた家の中から代わりの物を見つけて、物が散乱している中水道まで行って水を汲むことは困難だ。ごめん、金魚、諦める。Nさんを抱き起こすときNさんの足がその金魚にふれた。金魚はピチピチっと体をはじかせた。生きている、でも諦めなければならない。これはこの一軒のアパートで起きたことだが、これはきっと日本中で、そして金魚ではなく人に置き換えた状態で何千、何万と起きていたことであろう。

 地域の防災委員がラジオと無線を手に各配置についていた。津波警報が出ているから避難してください、と言っている。KさんとNさんを車に乗せて近くの小学校まで避難した。津波って…いつも警報や注意報が出ても50cmとか1mとか…そんなもんじゃないの?小学校は高台にあり、校門前は一方通行で大渋滞であったが、Nさんが長距離歩行困難ということで優先してもらった。

 とりあえず避難はできたわけだ。我が家はどうなっているのだろうか…買ったばかりのテレビが倒れて壊れてるだろうか…食器も割れているだろう、気に入ってる皿がいっぱいあるのに割れてしまったか…ガスの元栓閉めずに来てしまった…家に入れるだろうか。

 小学校には既に人が溢れていた。体育館は行き来するのが難しいほど大勢の人。校庭や校舎前にも人がいた。周りの人の声が聞こえてくる。『高校生の息子が家の二階に取り残されているんです!』と泣き叫んで走り回っている…どうする術もなく、ただ混乱するしかないようだ。

 でもこのときまさかあそこまでの被害をもたらしているとは思わず、少し冷ややかな目で見ていた。「校庭から津波が見える」…津波が見えるってどういうこと?、『笠神新橋まで水がきている』…そこって海からずっと離れているところ…なぜ?そこより海側じゃ広域すぎる、『警察学校まで水が来ている』…警察学校ってこの小学校に上ってくる坂のすぐ下じゃないか。雪が降ってきた…地震直後に雪、ことごとくどん底に突き落とされていくのか…放心状態になり、校庭でただただ雪を浴びていた。今朝たまたま厚手のセーターを着ていた…よかった、セーターじゃなかったら寒くて寒くてどうしようもない。きっとこの地震は想像を超える強さだったんだ。きっと津波が来ていて、その被害も前代未聞なんだ、きっと…私助かったんだ、なんとかなったんだ、テレビなんてどうでもいい、皿だってどうでもいい、家がないかもしれない、でも命がある、それだけでいい…ドラマで流れそうな言葉だが、心底思えた、命助かっただけで幸せ、命があればなんとかなる。

 命あることに幸せを感じると同時に、並行して恐怖がつきまとう。津波の状況がわからず、小学校から動くことができなかった。そのまま小学校にいたが、徐々に暗くなっていった。今まで停電になっても間もなく復旧していたが、その気配はなく、復旧しないという情報すら得られない。夕暮れとともに皆の不安は増していく。あとからわかったが、この小学校は市内で最大の避難所で、約1000人以上が避難していた。しかしこの小学校の避難所本部が設置されない。人々は迷い、不安になり、怒る、悲しむ。私はしばらく体育館内で拡声器を使い、人探しの呼び出し係をした。一人で何もせずにはいられなかったのだ。暗くなると少し人の動揺は落ち着いたかにも感じた。皆諦めたのだ、覚悟したのだ。

 私はそのあと別の小学校へ移動し、会社の人と合流した。電話回線はパンクし、誰とも連絡をとれない状況であったので、知っている顔を見ただけで安心し、目が潤んだ。20時くらいになっていた。あっという間だった。この時同僚の車に乗ってワンセグで初めて大津波警報が出ていたことを知り、各地の津波の映像を見た。やっと情報を得られたが、あまりにも非現実的すぎて理解できなかった。帰っていいと言われたが、暗い中自宅までたどり着く自信がなく、帰らないと決めた。道が見えないかもしれない、道がつながっていないかもしれない、家がないかもしれない…。会社の人と身を寄せ、一夜を過ごすことになった。23時頃だろうか、何度も何度も何度もメールの問い合わせをし、やっと受信できた。32件もメールが来ていた。私のことを心配し、連絡してくれた方の存在で初めて少し安心できた気がした。うれしかった。座って休もうと思っても寒くて眠れない。徐々
に家のことが気になってきた。しかし夜中に帰ったところで家も停電していてどうしようもないから、夜明けを待つことにした。暗くなるのが怖かったが、このときには明るくなるのが怖かった。明るくなったら現実が目の当たりに見えてくる。現実と向き合わなくてはならない。現実に耐えられるだろうか。

 校庭で雪まみれになっているとき、奇跡的に実家と電話が通じた。両親は、家はどうなっているのかとか、食糧の確保をしろとか言っていた。私としてみれば、お互いの無事が確認できただけで十分であったし、仕事中であったからそれどころではなかった。何をそんなのんきなことを言っているんだとすら思った。今思えば、私が知識的にも物理的にも精神的にも備えがなかった人間だからそれどころではなかったのだ。翌日、予定では公休であったが、この状況下で出勤となった。寒いので上は7枚、下は4枚着こんだ。水も電気もガスもないから、化粧はしたまま、風呂にも入らず、でも皆一緒だったから気にしなかった。しかし何をしても手を洗えないのが苦痛だった。

 動きやすいようにスニーカーを履こうとしたが、ピンクゴールドのキラキラのものか、ヒョウ柄のものしかなかった。見た目にはどちらも不謹慎であったが、実用性から前者を選んだ。家にはすぐに食べられるものも水もなかった。一日くらい飲まず食わずでもなんとかなるだろうとそのまま出かけた。同僚が250mlのペットボトルとミニサイズのクロワッサンをくれた。その日口にしたのはそれだけだった。

 でも口にできただけ恵まれていただろう。友人の会社のそばにキリン工場があり、津波被害でペットボトルが流出していたらしい。それを拾ってきた。おかげで水分確保。今となれば窃盗かもしれない。でもそれがなければ生きのびられなかった。翌日は休みだった。というよりもいつもの習慣で、日曜だったから休んでしまった。朝7時半に自宅周辺を偵察兼ねて散歩した。私の避難所となる小学校へ行ってみると、朝食の配給が行われていた。並んでみると、バナナ1本かりんご1個かどちらか。配給と言ってもこんなものか…規律正しく配られ、受け取れるだけ幸せか。そのあと近所を歩いていると、人が並んでいる。ドラックストアに人の列…しかもそんなに多くない!並ばなきゃ!8時頃友人と一緒に並び始めた。これで食べ物が手に入る!お菓子でも乾物でもなんでもいい!まずは食糧を手に入れなければ!しかし並び始めてわずかで具合が悪くなった。立っていられない、めまいのような、吐き気のような。友人を残して一度家に戻った。こんなときに病院の世話になっていられない。原因を考えてみたが、おそらく昨日の飲まず食わずのために脱水か低血糖になったと思う。成人でもたったこんな状況に陥ってしまうのか…涙がこぼれた。この生活がいつまで続くのか…不安と絶望であった。これが被災なのか、初めて自分が被災したことを実感した。

もっと書きたいことはあったのですが、ダラダラとまとまらず…続きは今度お会いした時に話します(続)。」

 

そして、越谷。知的障害の息子さんを通常学級に通わせているお母さんの体験。



震災で思う 地域の学校でよかった

                                松本 みゆき(越谷市)

 越谷市平方に住んでいます。夫と私と子ども3人の5人家族です。長男の渉はダウン症をもって生まれ、現在、越谷市立平方小学校6年生、通常学級にいます。 

 3月11日東北関東大地震がありました。発生当時、通常学級にいる渉はどうしていたのかというと・・・

 その日は担任の先生がお休みで不在でした。支援員は2時までなので帰ってしまったあとでした。 

 母は3歳8ヶ月の長女と11ヶ月の次女と自宅にいました。その少し前から、テレビでは新都知事選に石原都知事が出馬表明と、ニュース速報が出ていて「また速報かな」と思っていたら、地震警報でした。

 立っていられないほどの強い横揺れ、棚の上に積み上げていたアニメのDVDが落下しました。(渉が自由に視聴できないように、手が届かない高い所に置いていたので落ちてきて危なかった)めだかの入った水槽の水がこぼれ、出しっぱなしにしてあった書類を水でダメにしてしまいました。何もできずに、ただただ揺れが収まるのを親子で身を寄せ合い待っていました。

 揺れが収まると、パルシステムの宅配のお兄さんが「だいじょうぶですか〜?」と、ちょうど配達にきて、外の人と話ができてやっとホッとしました。

 「わたるくん、だいじょうぶかな〜・・・」主人や知人から「だいじょうぶ?」メールが届きだした頃、学校から引渡しのメールが届きました。

 「15:00に地震が発生しました。只今、校庭に避難中です。また、これから児童の引渡しを開始を行います。迎えに来られる方は、お迎えに来るようにお願いします。」 

 ベビーカーに下の子をのせて、歩いて学校に向かいました。子どもたちは体育館に移動していて、ちょうどクラブ中に地震があったため、肌寒いのに体操服の子がたくさん。

 「わたちゃんのお母さん、わたちゃんはこっちです!」とお友達に声をかけられ見てみると、お友達と一緒に避難していた渉がいました。「わたちゃん、お母さんきたよ!よかったね!」とみんなが渉に声をかけていました。

 後で聞いた話ですが、お友達とクラブ中だった渉は(コンピュータークラブ)地震発生のときパソコンデスクの下にちゃんと隠れていたそうです。

 そういえば、2月に担任の先生からの連絡帳で

 「時と場を考えて行動することも上手になり、集団の中で皆と同じ行動をとることは、とてもよくできています。避難訓練も上手に行動できました。」 と褒められたばかりのことでした。

 やさしい友達と過ごす中で、社会性を伸ばし、楽しく学校生活を送ってきたおかげです。そして、つくづく思ったのことは、歩いて迎えに行ける学校でよかった。ということです。

 来年は中学進学です。少し遠くなるが、支援のある中学校に行って、もう少し自分磨きをした方がいいのではないか・・・と思っていたところですが、今回のこともあり、また考えさせられます。相変わらずの決断力の無さに、自分でも嫌気がさしますが、思いっきり迷って悩んで迷って悩んで、決めようと思います。」

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