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zoom RSS 大震災―そのとき…そしていま 私は

<<   作成日時 : 2011/04/15 18:46   >>

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 日々があわただしくやってきて、人々を置き去りにして飛び去って行く。震災からいまにいたるまで大きな余震が、何度となくおこり、津波の被害の大きさがつぎつぎとあらわにされ、原発事故の影響は悪無限的に深まりと広がりを増している。人々は日々に置き去りにされた空白を、非日常のかけらでうずめて生きている。
 あまりにも大きな変動だからこそ、TVや新聞の中の世界にとじこめてしまいそうになる、現在という時間を、ひとりひとりのくらしのことばで、足元の世界に刻みつけておきたい。……身近な被災体験のつづき。
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■入所施設で出会った大災害

僕は青森の施設に来てこんなすごい災害にあうとは夢にも思わなかった。平成22年3月11日のお昼過ぎの事、ガがガがガたんぐらぐらと揺れた、車椅子はじっとしてられなかったのです。ブレーキをかけて踏ん張っていても前後ろと動く、動く。介護士が一人僕の所に飛んできて抱きついた。Kさん大丈夫だから、大丈夫だからと言ってぼくを、抱きしめていた。
施設の利用者と従業員は何かあった時の為一か所に集まり出口確保した。余震が来るたびに、手と手を取り合い励ましあっていた。いつもはそんなに仲も良くないのに不思議だなあ〜とぼくはおもった。
此処は高台だからまだ良いんです、平地に行くともう津波の影響がすごいです。デパートや飲食店デパートは水浸しです。俺と電気水がない経験を2日間しました。自分がどんだけ電気に頼って生きているのかが良く解りました。それと水のありがたさがよくわかった体験でした。テレビはだめコンポのラジオもだめ、携帯 らじをだけが重宝したのです。
携帯はバッテリーが無くなってだめ、情報源は携帯らじをだけでした。施設の中は外と変わりないくらい寒くジャンバーを何枚も着こんで廊下に集まっていました。水が出ないのでトイレもだめ。なんとか調理場の排水を使用して用は足せましたが。(青森県八戸市・O・肢体不自由者施設入所者)

■まだ残る隣組意識

大きな地震、86才になる義母は「こんなに揺れた経験は生まれて初めて」と言っていました。東京下町で育ちその後はずっと越谷で暮らしている人ですから。
我が家は特になにも被害はありませんでした。お向かいの家の大谷石の塀が見事に崩れました。近くの土建やのトラックがすぐに来て道路に崩れた石を、気がついた近所の人もあたりまえのように手伝って、すぐに片付いてしまったのには驚きでした。もう何軒もありませんが、ここで長く暮らして来ている人達にはまだ「隣組」という意識が普通にあるのでしょうと感じました。
 …電話が繋がらない経験を初めてしました。まだ余震で揺れているし、電車は止まっているしで、かおるの移動支援のキャンセルの電話がなかなか繋がらず・・・ところがかおるは地震のことなど何ともなく、帰宅するなりどこかへいこうとごねて「よいしょ!あさひせんせい!やましたさん!うちのさん!ちゅおうしみんかいかん!まっくしぇーく!さいぜりあ!」と叫んでいました。「でんしゃ、ばす」がなかったのは夕方だからあり得ないと思ってかな、です。世の中何かいつもとは違うぞと感じて来たみたいで、今日は早く眠りました。(越谷市・山崎泰子・障害者の職場参加をすすめる会運営委員)

■支援のありかたを現地で問う

…電気が通っていないとき、足で歩きまわって津波の現場を見てきました。写真を添付します。タンクローリーが津波でごろごろ・・・港はがれきの山・・・。そして道路は大変滑ります。津波が泥を置いていき、それが大変滑るのです。
そして、濃い潮のにおいが充満。そのにおいが夜家に戻ったあとも脳裏によみがえってきて参りました。
聞こえないので、常に目の端で津波情報を確認して動きました。具体的に言うと、津波の後片付けをしている人がたくさんいますので、それらの人の様子を肌で感じながら(危険があると様子が変化するでしょうし、逃げますから)撮影していました。
たぶん、聴覚を過信している聞こえる人よりも敏感だと思います。欠けた機能があれば、残された機能をより活用して、痛いくらいに働かせて感知しますから。
そして、電気が回復した後は、すぐにパソコンを使用して必要な人に支援を開始しました。(支援というと偉そうな言葉に聞こえて本当は遣いたくない)物や力の支援はできませんが、情報の支援は私にもできます。
しかし、行方不明の人を探すための捜査は考えるより消耗します。胸が潰れそうな思いです。さらにだめだった人の情報をどう伝えればいいのか。その一言に私の今までの生き方や考えや価値観、そういったものが出るでしょう。
 それとともに、遠方の方との考えのギャップが感じられました。モノの支援も確かに必要です。でも、食べなくたって、家族や親族や知り合いの安否をまず知りたいはず。支援ってモノだけじゃない。ずっとたって、モノの支援が細々となったころだって、モノでない支援は必要でしょう。お金では買えないものの支援が本当は必要かも。
そしてモノの支援はある意味、支援したいという人の自己満足に終わる可能性もある。「私は○○を支援したんだ」という。
あげて終わりじゃいけない・・・。
一段落したら、支援される側をだめにしない支援が必要でしょう。依頼心を作るより、希望や立ち上がれる力(強い気持)が必要だと感じます。そのためのモノだったらしなければならない。・・・そう私は思います。(八戸市・松井朋子・会社員)

■肌で感じた地域

その時は千尋のお迎えも済ませ在宅でした。泣き叫ぶ四女と千尋を抱えて、ダイニングテーブルにもぐりました。まだ下校前で小学校にいる上の娘たちのことが心配ですが、下の2人を連れて出ることができません。
ようやく揺れも落ち着き、しばらくして長女と次女が帰宅し、ほっとしました。それから間もなくして、幼稚園のお母さん友達が「大丈夫だった!?」と尋ねてきてくれて、ほんとうにうれしかったです。地域で生きていること、つながっていることを肌で感じました。
大地震と原発の二重の被災にあわれている福島県。
県内の富岡町は、杉戸町と友好都市になっているとのことで、町内の公共施設を避難場所として富岡町の方々を受け入れることになり、明日から二日間、小学校などで、救援物資を集めることになりました。
この辺りの被害は小さいと感じますが、ガソリンスタンドは完売、スーパーなどでは大変な品薄状態で、なんだか考えさせられている所でした。私の仕事はホームヘルパーですが、ご利用者の買い物に出ても、何軒回っても希望の品を買うことができません。(しかもガソリンがないので自転車です)ヘルパーが訪問した時しか、買い物を済ませられないのに・・・
必要な救援物資として挙げられている物を、家の中からかき集めて明日娘たちに持たせるつもりです。わずかでもお役に立ちたいです。そして、おなじ空の下、ともに生きていることをかみしめながら、私は私でできる精一杯の中を生きようと思っています。
追伸
ご報告が遅くなりましたが、1月に入学通知が来ました。
これからもありのままでみんなの中へ・・・でもあり、学校という社会へのはじめの一歩でもあると感じています。(杉戸町・渡邊弘美・すぎと共に育ち学ぶ会)

■十六階のオフィスで

私は当日新宿にあるオフィスにいて,8年前に建てられたという比較的新しい二十三階建てのビルの十六階にいました。14:50頃に揺れが始まり,いつものように一時的なものだろうと思っていたら,どんどん揺れが大きくなり立っているのが難しくなりました。
…揺れるビルから下を覗くと,多くの人々が周囲のビルから出て来て,避難をしているのが見えました。車は問題なく走っています。ただ,周囲には隙間なくビルが立ち並んでいますから,ビルの倒壊や上からのガラスの散乱を考えると,果たして下に避難するのがベストなのか,誰にも判断が付かない状況でした。
ビルの管理者からの館内放送が始まりましたが,地震が発生しているという,「分かっとるわ!」と思わず突っ込みたくなることを言うだけで,ビル内に待機すべきなのか,屋外に避難すべきなのかは言いません。本当の緊急時には全く役に立たないことが良く分かりました。
本部長が回って来て,貴重品を持って逃げるように言われたために,8割程度の人が階段で避難をしましたが,まだ2割ほどの人は残って仕事をしていました。判断が付かないことと,仕事に追われているという二つの理由だったと思います。
私は避難した組で,下にいた同僚達と会い,ようやくほんの少しの安堵を感じました。ただ,今からどうすべきかはやはり誰も判断が付きません。ただ,携帯電話のテレビで津波によって数百台の車が流されているのを見て,ようやく事の重大さが分かって来たのは確かです。(東京都・田島玄太郎・わらじの会)

■原発事故と医療放射線

原発事故で放射線の被ばくが大問題になっている。スリーマイル島や、チェリノブイリを知らないわけではないが、それでも違和感がある。
日本は、世界でも人口当たりのCTの所有台数が多いと自慢している。何かと言えば、とても気軽にCT検査をする。
早期発見ということで定期的な肺のCT検査が推奨されていたり、めまいがあるとまずはCT検査をしてアタマは大丈夫と安心したりと、無原則的に放射線をあびている。ちなみに胸部CT検査だと6900㍃・シーベルトの放射線をあびる。もちろん、原発事故では、あびる時間や年齢もあるし、意思に関係なく否応なくあびてしまうという問題がある。
影響は人間だけにはとどまらないし、一世代にとどまらないこともある。大本営発表を聞きながら、福島から離れた埼玉でも放射線だ、放射線だという騒がれ方に、どうして人は医療であびる放射線に寛容なのだろうと考える。
誤解しないでほしいが、私は医療で放射線が果たす役割を否定しているのではない。四年前、お腹の手術をした際にもCT検査を二回うけたし、術後も腸が働くまで毎日のようにレントゲン写真を撮った。医者になった頃よりははるかに検査や治療にその果たす役割は大きいものがある。
それでも、早期発見や安心のために気軽に放射線をあびることと原発事故の騒がれ方が結びつかない。
電気がないと仕事もできないし、暗いというだけでなく暖房や風呂もかなりの機能がマヒしてしまう生活というのはなんとヤワなんだろうと思う。(春日部市・水谷淳子・医師)

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■呼吸が止まったきみ子さんと地震に

きみこさんの呼吸が不安定になったのは8日火曜日のことでした。午前の介助の坂井さんが「なんだか呼吸が止まっちゃうときがあって脇を離れられない」と。同時間には訪問看護さんが来る日で、ここのところ、きみこさんの日常に必要となってきていた痰吸引器の講習会も予定していました。
講習会はおこない10人程度の人が集まりましたが、吸引器の扱い方よりも、「きみこさーん、起きてー、呼吸してー」という声掛けをしながら、こんなときどうしたら、という話のほうが中心になった時間でした。
翌9日には血圧が高く、脈も早い状態が続き、介助体制を急きょ2人体制に組んで対応することにしました。そのまた翌日の10日には呼吸も荒く、胸のゼロゼロとした音も強くなり、きみこさんのご実家に具合が悪いことを伝えたりと緊張した時間がありました。
そんな状況の中迎えた11日、きみこさんは段々に口からの飲み食いが難しい感じでそれに伴い排泄量も減り、これでは体力がもたなくなっていく、鼻からチューブを通して水分栄養を摂取していくようにしようと考えていたところでした。
そんなことで、大西医院に状況報告を電話していたその最中に地震がきました。電話の向こうの看護師さんと「地震ですね」「あら、そうですね」とそれでも話し続けていましたが、段々に揺れが強くなってきたのであわてて電話を切り、きみこさんのベッドの脇にいきました。
もんてんにいたのはきみこさんと会沢まちこさんとわたし。
まちこさんがきみこさんの部屋のタンスや物が倒れてこないかを注意し支えてくれ、わたしは何をしていいものかわからずにきみこさんに覆いかぶさりました。ギシギシと音を立てながら揺れるきみこさんの部屋で、「これは夢じゃない?ねえ、きみこさん、夢かな。もうどうせだったら、火曜(きみこさんが体調不良になった)から全部夢ってことにしない?!」なんて言ってみたりしながら、その現実を把握できないままとても長い時間揺れていたように思います。それでも、その揺れのなか、きみこさんはとろとろと眠ったままで、その変わらなさにほっとしたり。
その日は介助者の手配ができていず、午後はきみこさんとわたしだけがもんてんにいる状況だったので、「ひらちゅうだけじゃ」と気にしてもんてんにいてくれたまちこさん。まちこさんがいてくれなかったら、わたしはもっとパニックになっていたと思います。揺れがおさまり、べしみから中山さんや内藤くんが上がってきてくれて、さらにほっとしました。
地震前には鼻チューブをしなくてはと言われていたきみこさん、でももう電話も通じないし、先生も訪看さんも来られないだろう。もう仕方ないよね、緊急事態だから!きみこさん、それでも飲まなきゃ干からびるから口から飲もう!い
つどうなるかわからないから、薬ものんじゃお、ととりあえずひと落着きした16時に中山さんと水分補給をしたのを覚えています。
その後、地震の影響で介助者が来られなくなることも心配されましたが、そんなこともなく、むしろ地震当日金曜、翌土曜は一人暮らしの障害者メンバーや職員がべしみ、もんてんに泊まり、わたしは安心して自宅に帰れました。
状態が心配されたきみこさんは、皆の手厚い介助・看病が功を奏したのか、きみこさんの免疫力の強さもあってか、徐々に状態が安定してきた今日です。
地震前に介助者二人体制を組めていて良かったとつくづく思います。これが一人介助体制、ましてやきみこさんを一人にしておくようなときにあんなことがあったら、と思うと、どんなことになっていたかと…(越谷市・辻彩子・生活ホーム職員)


さらにつづく

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