共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 排除する学校―入試の残酷さはその反映にすぎない 県教育局との対話から

<<   作成日時 : 2011/03/06 23:19   >>

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 今回も、2月24日の教育局への申し入れの続き…。今井は、わらじの会編「地域と障害―しがらみを編みなおす」(現代書館)の中で、かって武田暁くん(仮名)の県立高校受験に立ち合ったときの経験を書いている(同書「自立と共生―あたりまえに生きる」)。写真は、その年の入試合否発表に際しての緊急教育局交渉のようす。

 「暁くんは言葉をほとんど発しない。字も書けない。けれど、彼は小学校も中学校も、通常学級で過ごしてきている。他の子どもたちとも先生たちとも、コミュニケーションをとりながら過ごしてきた。それは中学の担任も親も高校側に説明をした。彼が受験という限られた場で、唯一自分を表現できる場面はめんせつの時間だったろう。
 
 私は介助者として彼の面接に立ち会った。彼から5メートルくらい後ろに離れて座った。私の目には面接官の顔と暁くんの後姿が映る。面接官は彼に質問をする。「出身中学と名前を言ってください」。彼は言葉を発することが出来ない。当然彼は何も応えない。

 『もう一度聞きます。出身中学と名前を言ってください』。次に『では、中学校生活で一番楽しかったことはなんですか?』と聞かれ、彼は車椅子に乗せた足をブラブラさせた。『サッカー』と言っているのだと私は思った。『もう一度聞きます。中学校生活で一番楽しかったことはなんですか?』。面接官は質問だけを繰り返した。質問の他は沈黙しかなかった。

 私はとても気持ちが悪くなってきた。目の前で行われていることに身震いするほど腹が立った。心の教育だの、人を思いやるだのを指導要領に入れながら、実際に行うことは『公平性』の下に、こんな残酷なことをしているのだ。彼は私たちの言葉を聞いている、わかっている。けれど表現する方法が限られているのだ。唯一足をブラブラとしたことは、不真面目と面接官には映り『彼は何も応えられない、わからない』と評価される。彼が言葉を発することが出来ないと知っている面接官が『彼を知ろうとする努力』が何もなされないままに・・・・。面接は何のために行われるのか?その子を『知ろう』とするためではないのか?目の前で行われている『面接』という行為の意味が私には全く理解が出来なかった。」


 筆者は主席に言った。「相手が何を言おうとしているのか、それはこちらのものさしだけで判断するのではなく、付き合う中で考えていこうよ、と。それが大前提。そういうものの積み重ねがあって、結果として受け止めることにもつながっていくという話。今回、神奈川はそれをやったということ。高校現場の力量というのはそれほど変らないと思いますよ。」

 主席が言う。「他県のことはよくわからないですが、金曜日にいただいた資料で神奈川にも問い合わせています。神奈川も基本的には埼玉と同じようなやり方で選抜をやっています。だから、受かる子供たちだったということじゃないかと思います。埼玉でも、高等養護の受験は早くやるので、そこで落ちた子供が高校を受験して何人も入っています。神奈川の子どもたちがどのくらいの障害かわからないですけど。」
これでは、運動に求められてかもしれないが、それなりにがんばった神奈川県教委が気の毒な感じだ。

 そこで筆者。「出来る限り入れようという姿勢が神奈川県教委の基本姿勢になってるじゃないですか。県教育長名で回答書が出されていて、通常学級でともに学ぶこと、同一の空間で同一の教材でともに学ぶことを目指すと書いています。また、高校も同じだと。それに基づき、何とか高校に入れていこうと、基本的な指導をやっていると思います。神奈川の例を示したのは、主席が何もやってないとか主席だけを責めているわけではないです。英樹くんの障害は重いかもしれない、でも6年間にわたり、私たちとの交渉を受けて、県としてそれなりに共に学ぶ高校づくりに努めようとしてきた中で、何がいちばん大きな壁だったのか、そこのところを言ってくれませんか。」

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 主席が答える。「個人の感想としてですが、一番大きいのは財政。4月からこの立場になって感じたのは、財政の壁はものすごく大きいこと。それが個人的には一番大きいですね。特別支援学校の一人の生徒には、県立高校の一人にかかる費用の10倍のお金がかかっているんです。その一部分でも県立高校に来れば教員も増やせます。ただ、定数法というのがあり、それを無視してやることはできません。県独自で雇わなければならないわけです。

 普通の高校はクラス数の倍くらいの教員がいて、生徒20人に一人ぐらいになります。特別支援学校は3,4人に一人です。特別支援学校の中で大きいところは200人ぐらい先生がいて、チームを組んで子供たちをきめ細かく見ています。高校では、私が教員になったころよりも少人数授業や加配などできるようになっていますが、大変な子供たちを見られるレベルにはなっていません。

 入れたからにはみんな卒業させたいんです。しかし、いまの体制では授業についていけないとか生活上の問題が出てきてしまいます。県の独自の政策になるんでしょうけど、臨時に教員を付ける支援がないんです。東京とか神奈川とかは、埼玉に比べてはるかに財政的に豊かですから、そういう施策ができてるんだと思いますよね。」

主席が言っている普通教育と特殊教育(特別支援教育)では、金のかけ方が10倍ちがうというのは、ほんとうだ。これは国の定めなので、その定めに合わない人的配置をしようとすれば、自治体から持ち出すしかなくなる。東京や神奈川は財政が大きいからそれができるが埼玉では難しいというのが、主席の言いわけだ。

 国レベルの問題については、今回内閣府の下に設置された障がい者制度改革推進会議の第2次意見では、障害児は特別な場に分けて教育するという現行制度をあらため、すべての子どもが地元の学校の通常学級で他の子どもと共に学ぶことを原則に、と提言された。
 しかし、その意見を受けて、2月14日に出されてきた障害者基本法改正についての政府案では、採り入れられていない。教育については、現行法の「障害のある児童及び障害のない児童及び生徒との交流及び共同学習を積極的に進める」という文言をそのまま残している。
   
 文科省の壁はたしかに厚い。その壁とは何か。2月13日に行った障害者制度改革埼玉セミナーPart2のとき、シンポジストの北村小夜さんから、「排除する学校―特別支援学校の児童生徒の急増が意味するもの」(鈴木文治著・明石書店)という本を紹介された。著者は、長年特殊教育に携わり、神奈川県教育委員会でも働いた、いわば特殊教育の本流の人。その人が、この本の中で「文部省における排除の思想」という章を設けて書いている。

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 「私の手元に『わが国の特殊教育』と題された1961年3月に発行された冊子がある。発行者は当時の『文部省』…問われるのは障害児に対する基本的な考え方である。
…『50人の普通の学級に、強度の弱視や難聴やさらに精神薄弱や肢体不自由の児童・生徒が交じり合って編入されているとしたら、はたしてひとりの教師によるじゅうぶんな指導が行われ得るものでしょうか。特殊な児童・生徒に対してはもちろん、学級内で大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにいられません。』

…文部省が、養護学校や特殊学級の設置を推進する根拠が、『障害児排除』の考え方に基づいているとするならば、それは障害児自身のためばかりではなく、障害児への差別や偏見を障害のない子どもたちに植え付けることになる。それは一般の保護者を巻き込んで、社会全体の差別や偏見を助長する結果になる。
…障害児差別論が国の教育政策の根幹に位置づけられたことは、その後の障害児教育や障害者福祉に大きな影響を与えたことは否めないだろう。」


 主席は財政の問題だと言いきるがほんとうにそうだろうか?人的配置さえされれば、高校はさまざまな障害のある生徒を受け入れようとするのだろうか?

 また、前に主席は「文科省にはまだまだ適格者主義が残っている」と言って、それが現場の手足を縛っていると説明したいようだったが、上さえ変われば下はとうぜん変わると言いきれるのだろうか?神奈川だって、深い矛盾を抱えながら動いているのだ。

前掲の鈴木文治著「排除する学校…」にこう書かれている。

 「神奈川県の知的障害特別支援学校高等部の新入生のうち、ある年度で障害手帳を持たない生徒が5人に1人の割合であった。これは過去最大の数値であるが、事実を知った特別支援学校校長会は、過大規模を招いているのは、さまざまな教育的ニーズのある生徒たちを排除している高校のあり方ではないか、という疑問を抱き、高校の改革こそが過大規模化の解消につながると考え、さまざまな会議の中でこの点を主張した。

 …当然校長たちの反応は、意見として聞くけれどとうてい承服しかねるというものであった。さらに、高等学校校長会だけでなく、教育委員会の内部にも否定的な意見があった。
 …高校の校長経験者である部長はこう言った。高校は適正な入学選抜を経て合格した生徒が入学する学校であり、選抜試験のない学校とは異なるものである、と。

 …学校教育部長の発言の背景にあるのは、高校教育は特別なもので、義務教育や特別支援教育よりも高いレベルの教育であるという自負であり、高校教育に携わる教員の誇り、悪く言えばエリート意識が感じられる。高校から特別支援学校に転勤してきた教師の中には、専門教科を教える教師から生活指導に関わる教師(実際にはこれこそが教育なのであるが)になったことにより落ち込む者もいる。
  
だが、さまざまな教育的ニーズのある子どもたちが増えてきている中で、なぜ高校が時代錯誤的なエリート教育を掲げているのだろうか。そのことがまさに高校の中途退学者、不登校が減少しない理由なのではないだろうか。
 …行き場を失った生徒たちはやむなく特別支援学校へ押しかける。特別支援学校を居場所と感じられる生徒はまだよいが、場違いなところに来たと感じている生徒の中には、問題行動を起こす子どもも少なくない。」


 市町村の小・中学校には、補助教員や支援員などの配置が徐々に進んでいる。しかし、学校全体としてさまざまな子どもたちを受け止めてゆこうという姿勢がない場合、障害のある生徒を補助教員等に丸投げしてしまうことがある。
 
 授業中に補助教員がまったく別の学習をさせていたり、その子の介助を子どもたちに禁じ支援員だけにさせていることもある。支援員が付かない時間帯は、親が付き添うことを強いたり、付添ができないなら早帰りさせたり、校外学習に参加させないという例も生じている。
 もちろん、こうした例ばかりでなく、補助教員や支援員が付くことにより、共に学び・育つ関係が支えられている例も少なくない。しかし、義務教育ですらこうなのだから、エリート意識の強い高校現場では、せっかくの人的支援が排除の回路に直結するおそれも十分にあるだろう。

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