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zoom RSS 28年目の黄色い部屋―「バリアの意味」 11月20日の日記

<<   作成日時 : 2010/11/24 09:47   >>

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今回は、珍しく日記風のブログらしいブログ。11月20日(土)に、TOKO(どの子も地域の学校へ!公立高校へ!東部地区懇談会)のニュースと12月7日の研修会の案内チラシを添付したメールに付けた文章が下敷きだ。
 写真は、谷中耳鼻科の黄色い部屋に上がるスロープ。今回は、このスロープと黄色い部屋の歴史がテーマ。写真の人は、埼玉障害者市民ネットワーク代表・野島久美子さん。

 さて、ブログらしいブログの始まり…。


11月20日(土)
 
 さきほど、私がいるこの黄色部屋に、近くの武里団地に住む埼玉障害者市民ネットワーク代表の野島久美子さんが、事務局の大坂さんに車椅子を押されながら、やってきました。
 せきが出るのと耳から汽車ぽっぽの音が聴こえるというので、谷中耳鼻科に受信するためです。
 そう、黄色い部屋は谷中耳鼻科の一角で、耳鼻科を車椅子のまま受診するには、黄色い部屋のスロープを経由しないと、ノンステップで行けないようになっているのです。
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(写真は谷中耳鼻科正面。道路から2段あり、さらに待合室まで1段が2ヶ所ある。)

 障害を持つアメリカ人法すなわちADAでは、このように一般のお客と別の通路からしか入れない構造は、差別と規定しています。ちなみに、日本の新バリアフリー法には、そうした規定はありません。

 しかし、谷中耳鼻科では、正面の段差を解消しないまま、黄色い部屋経由でやってきました。段差解消には、大きな改築が必要になるという事情もありますが、それだけではありません。

 ともあれ、こうした迂回的なアプローチを残している経過の中には、黄色い部屋を通ってもらうのが楽しいからという、私たち黄色い部屋住人の思いも含まれているのです。これまでたくさんの受診者がこの部屋を通ってゆきました。時には待機のため、しばらくここで過ごしていく人もいます。高齢者や障害者、その家族やヘルパー、看護師さんなど。

 耳鼻科が建った1983年以来、この構造は変わっていません。当時は、黄色い部屋しか活動拠点がなく、黄色い部屋には障害者がぎっしりいて受診者が通る時はみんなが移動しなくてはなりませんでした。
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(写真は1983年、黄色い部屋の向かいに当時あった空き地に、自立に向かってはばたく家準備会の店「パタパタ」がオープンした時の式典。「パタパタ」には水もトイレもなく、黄色い部屋が事務所兼休憩所であり、時には入浴や宿泊体験の場でもあった。)

 受診のために来た人は、いやおうなく自立に向かってはばたく家準備会の活動のただなかを通過しなくてはならなかったのです。1年中風呂に入れないはばたく家メンバーもいて、なまぐさい空気の中を、通ってゆきました。その後、90年に生活ホームオエヴィスができ、生臭さは減ってゆきましたが。
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(写真は90年代前半。やはり黄色い部屋の前。武里団地で品物集めをし、耳鼻科駐車場で、バザーのしわけ中。)

 その後、1990年代後半から、活動拠点が増え始め、黄色い部屋のなまぐさい空気は薄まってゆきました。ただ、全県的な事務局活動のセンターとしての役割が21世紀に入っても続き、障害者が介助者と共に、交替でつめていました(下の写真)。
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 時代の推移とともに、黄色い部屋を通ってゆく受診者も変わります。
21世紀に入り介護保険ができた当時は、ヘルパーや職員と受診する高齢者が通ってゆきましたが、だんだんその数は減っています。奥さんの介助で黄色い部屋を数年間にわたり通って受診し、私がよくおしゃべりしていた片まひの男性は、この近辺の施設を飛び石を渡るように転々としている不安や、施設から地域の診療所を受診することの難しさをよく話していました。
 ここ5〜6年は、埼玉障害者自立生活協会の事務所を県西部で担ってくれたことや、私自身が越谷の職場参加をすすめる会の事務所に通うようになったことで、黄色い部屋に誰もいない時が増えています。その時間帯を埋めてくれているのが、専従猫のマエですが(下の写真)。
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 でも、耳鼻科の職員にもわらじの会等にかかわる人が多いし、私も朝や夜、そして土日出かけなければ黄色い部屋にいるし、月刊わらじの編集部が月3回夜に集まります。その他、木曜に車椅子の友野さんが、介助者の巴山さんとネットワークの電話連絡をここでやったり、前に私の「秘書見習い」をやっていたことのある知的障害の伊藤さんが職場であったことを黄色い部屋にある日誌に書きに来たり…など、ここはまだまだごちゃごちゃした空間になっています。
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(写真は、黄色い部屋で、県内諸団体に電話連絡をしている友野さん。)

 ともあれ、そんなわけで、もしも「正面にスロープがないのは差別じゃないか」と抗議してくるような人が来たら面白いなと待っているのですが、まだそういう人がいないのは残念です。
 …と、これをぐだぐだと書いている間にも、耳鼻科で受診待ちのHくんが黄色い部屋の戸を開けて、例のごとく、一方的な質問(たとえば「山下さんはタイムカードあるんですか」、「水谷さんはありますか」「なんでないんですか」、「ねこはタイムカードありますか」…)を投げかけようとして、ぼくがパソコンに集中しているのを見て、「失礼しました」と、去って行きました。

 と、書けばきりがない、暮らしの歴史を、みんながそれぞれひきずっているのに、このごろ、一人ひとりの「世間」が狭くなり、互いが見えなくなっているなあという思いを強くしています。
 そんな思いと暮らしをたっぷり含ませた筆で、書いたニュースやチラシなんですけどというつもりで、添付した資料をお送りします。

 最近の黄色い部屋の情景。数ヶ月前、自立生活協会の新(といっても2年目)事務局長の植田くんが、黄色い部屋に初めて来たときの写真(下)。
 女性2人は、伊藤さんとあんここと今井さん。
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 以上、初めての本格(?)ブログでした。

 書き終わってから、あえてバリアを作った別のケースを思い出した。おなじみ、「克己絵日記」の著者、聾唖、弱視、下肢まひの橋本画伯。かって「車いすの暴走族」として、あるいは駅がまだ階段ばかりのころから東武伊勢崎線に毎日乗り、駅とスーパーを生活の場としていた「無名の有名人」として、名をはせた。

 父・故橋本己代治さんが亡くなる少し前に、それまでの長屋生活から、近所に2階建ての家を建て引っ越した。実は、2階建ての家に住みたいと考えて、毎日のように住宅のチラシやパンフをあちこちでもらってきたのは画伯だ。そして、2階に住むんだと言い張った。その希望通りに、いま画伯は2階で寝起きしている。階段昇降機を使って。

 この家を建てる時に、己代治さんは、門から玄関へ続くスロープのどんづまりに、わざわざ1段の段差を付けた。建設会社も、見に来た人も、みな「ここをフラットにすれば雨に濡れずに家に入れるのに」と、不思議がった。しかし、己代治さんは、がんとして譲らなかった。写真は、この段差があるため、家から這って出てきて、スロープの車イスに乗ろうとする画伯。
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 実は、この1段は、「一緒に暮らすための段差」だった。前住んでいた長屋には、玄関の段差がない。それで、画伯はむしゃくしゃすると、手動のチェーン式車いすで玄関のガラス戸に突進し、破壊することがよくあった。新築の家の玄関ドアを破壊されたら、被害は甚大だ。それで、あえて段差を設けた。画伯は、ここで車いすを降りて、マットの上を這って、家に入る。何も不平、不満は言わない。共に生きるための折り合いなのだから。たかがバリア。しかし、そこにも歴史が刻まれている。写真は段差で車イスを降りる画伯。

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