はばたく家、わら細工の始まりから自立支援協議会まで 2020.11.4 すいごごカフェ 吉原満さんトーク

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人生を変えた事故

 東京生まれ。父親の仕事の関係で幼稚園に入る前から春日部に引っ越してきた。わらじの会ができたのが78年。自分は79年の3月まで春日部工業高校の建築科で勉強していて、4月から大宮にある建設関係の設備会社に就職した。一般でいう水道屋さん。

 働き出して約11カ月後、ようやく少しずつ動けるようになってきた3月3日の土曜日のことだった。浦和学院高校の建設現場にいたんだけど、鉄筋屋さんのミスで、4階から30kgくらいあるガスボンベが地上を歩いていた私の頭の上に降って来た。事故の記憶は全然なくて、痛みも何も覚えてない。後から聞いた話では、緊急搬送されて1週間~10日間意識不明だったそう。目が覚めると、頚椎損傷で首から下が動かなくなっていた。それで、半年間はベッドの上。3カ月くらい経つと症状が固まって、その後1年半リハビリを受けた。

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突然、障害者になって

 最初は首から下が全然動かなくて、初めてベッドから車椅子に降りた時の、上から落っこちるような感覚はすごく覚えている。これから車椅子生活になるということで、排泄の仕方などの生活動作や、プッシュアップ(車椅子に乗った状態からお尻を上げる動作)などのリハビリをした。歩行器につかまって歩くところまでいったかな。徐々に鉛筆や箸も持って、若干動くようになった。そんな感じで1年半後、退院。裁判を起こして賠償金をもらって、そのお金で新しくバリアフリーの家を作って…と、いろいろ親がやってくれていて、無事帰ることができた。でも、退院してから1年半くらいは外に出られず、家にこもっていた。手動の車椅子で外に出るというのは、周りの目が気になって勇気がいることだった。

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わらじとの出会い

 外に出るようになったきっかけは、新聞でわらじの会を知った義姉が野沢さんに電話してくれたこと。それで初めてコミュニティセンターでの例会に参加することになった。たまたま雨の日だったんだけど、雨の時の移動方法なんて考えたことなかったから親父が急遽黒いビニール袋を私の頭が出るようにしてかぶせてくれて、それでみんなのところに行った。野島さんもよく覚えてるでしょ。そこで山下さんから話を聞いて、ちょうど始まったばかりのわらじの会内の「自立に向かってはばたく家準備会」の活動に参加しだした。その頃は車椅子の出し入れをしてもらえれば自分で車を運転できたので、車で谷中耳鼻科駐車場に当時あったプレハブに通っていた。そこで春日部市に介護人を派遣してくださいって交渉をしに行ったり、要望書を出しに行ったり…谷中耳鼻科から春日部市役所まで歩いたもんね。俺がすごい衝撃を受けたのは故新坂光子・幸子さん姉妹が電動に乗って道路の真ん中をゆうゆう走ってる姿。そんなの見たことなくて、こんなんでもいいんだって思った(笑) 1984年には、はばたく家専従職員だったふくちゃん(吉原広子さん)と縁があって入籍した。

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自分の体験を活かして「地域で共に」を推進

 仕事としては、わらじ独自のケアシステムを作ろうと、ケアシステム・わら細工ができたのが1990年。そこの初代事務局が私だった。1994年には、べしみの核であるつぐみ共生会の法人を立ち上げようということで、星名さんと私の2人で法人認可のために奔走して、くらしセンターべしみを作った。その他に生活ホーム、越谷では障害者生活支援センターぱお(苞)、春日部では障害者支援センターえんを受託して、法人として運営している。2014年からは亡くなった吉田昌弘に代わり、えんの管理者、自立支援協議会委員、くらし防災部会部会長を務めていて、自立支援協議会では福祉のことや施策に対して提言をしている。

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