どこから来てどこへ行く 2020.7.29 すいごごカフェ 伊藤利子さんトーク

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手作り班の大黒柱

 わらじの会の母ちゃん達が集う「手作り班」の「大黒柱」といわれる伊藤利子さんが、7月29日の「すいごごカフェ」で半生を語った。会発足時の要素のひとつである「親たちのパワー」の源として、わらじ会編の「地域と障害」では、〈帰るべき故郷を失ってニュータウンに集められた人々の腹をくくった行動〉と関連付けている。いま生協関連の企業で障害者雇用枠で働く娘峰子さんと亡き夫と、40年前に団地で暮らしていた当時の伊藤さんも、たしかにデラシネの底力を共有するが、それだけではなかった。

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3回の上京支えてくれた山村

 伊藤さんは1940年生まれで、北陸の福井県勝山市の出身。当時60戸(現在10戸)の山村の北谷町木根橋という小さな部落に住んでいた。1年の内半年は雪に埋まる所なので、よく野良着を縫ったり、わらじを編んだりしていたそうだ。昭和20年に終戦で、その年に小学校に上がった。1年生の1学期はまだ教科書がカタカナだった。バスが1日6本くらいで交通の便が悪いこともあって高校に行くのは3、4人だったが、自宅に1年浪人した後の17歳の春から和裁をする学校に通い始めた。最初の下宿先では和裁を勉強して、夜は日舞を習ったが、「そんな贅沢な人いないよ、工場で働く人がほとんどだよ」と言われるような時代だった。

 そんな伊藤さんは18歳から23歳までの間に計3回上京し、女中奉公、三越の下請けに住み込み、呉服問屋で働いている。挫折しては故郷に戻り、またチャレンジすることを、実家の兄はその都度山の木を売って支えてくれた。「その時その時で我慢してれば一人前の仕立て師になったのに。何度もお金や荷物の世話を全部してくれていた3歳上の兄には頭が上がらない。」とは本人の談。

 そもそも伊藤一家の両親は、彼女が5歳の時に相次いで亡くなり、親戚の家にいた祖母が引っ越してきてきょうだいの世話をしてくれた。小さな村全体が家族のような付き合いだった。伊藤さんは片方の耳が悪く、中学の時に第一回目の手術をしたが、治らなかった。遠くの病院に週2回通っていて、中学の修学旅行も行けなかったが、同じ村にいた先生のおかげで卒業してから1年遅れで修学旅行に参加し、京都、奈良へ行った。「今思うと、学校を休みがちだったから友達から疎外されてたのかな。でも全然いじけもしなかった。」、と伊藤さん。そんな身近な他者たちの中で大人になった経験が、伊藤さんの生き方をかたちづくってきた。

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役所でも幼稚園でも「パパ」

 昭和39年4月に結婚式を挙げて、翌年の9月に長女の峰子さんが生まれた。寝返りや言葉が遅くて、もしかしたらと思いながら国立小児病院に行ったら、「おたくの子は精薄(精神薄弱、当時の知的障害の呼び方)ですね」と言われたときは、ショックだった。「精米所」の看板を見るたびに嫌だった。毎日夫とどうしようかと言っていたけど、つみきの会(わらじの会の母体の一つ)に入って友達ができてから、気分が変わったそうだ。峰子さんは市の担当者に「パパ、パパ」、幼稚園の先生に「ママ、ママ」とついて回った。あの村がここに再生されたかのように。
 「峰子は今55才で、パルシステムで働いている。10月で主人が亡くなって5年になる。時々「お父さん」と声をかけたくなりながらも、峰子と2人で暮らしている。」

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