職場参加のための職場開拓とはー黎明期から関わってきた内野かず子さんが語る 2019.10.16 すいごごカフェ

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 10月16日(水)のLunch Cafe どっこいしょ&すいごごカフェのゲストは、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会事務局の内野かず子さん。「会計の内野さん」としてしか知らない人も少なくないと思うが、実は当会初期からの実習や就労のための職場開拓の名人なのだ。 実際、越谷市障害者地域適応支援事業の実習職場は、いまでも内野さんが開拓したものがけっこう残っている。そのいわば黎明期の活動はどんなものだったのか?

 内野さんの話に入る前に、当時の状況を知らないほとんどのみなさんのために、簡単な解説を加えておこう。

「障害者就労支援」の流れと「職場参加」の流れの成り立ち

 2001年度に県は障害者団体の連携した提言を受け止め、重い障害者も含めて地域で共に働き、共に生きて行くための道を探るべく「障害者職業開拓推進事業」を実施した。県育成会が受託し、社団法人埼玉障害者自立生活協会をはじめとする全県的な団体が事業に参加した。

 この事業は市町村や学校、地域の企業等を、障害者団体から選ばれた職業開拓推進員が訪問し、調査と啓発、情報収集を行うことが目的。県全体を5地区に分け、東部地区ではわらじの会から内野さんら2人の推進員が出て、他団体と共に活動した。

 県全体としては半年間で事業を終えたが、わらじの会では少ない予算を倹約して、その後も継続した。

 その中で、越谷市では現在も続いている障害者地域適応支援事業(福祉施設等を利用する障害者が施設職員等の支援を受けて、市役所等公共機関や地域の企業の職場で実習を行う同市単独事業。障害者が地域に適応し、地域が障害者に適応することをめざす。)のモデル事業が2002年度に実施され、内野さんたちは同事業による職場実習を行える職場開拓に地域を回ることになってゆく。

 一方では県や市レベルだけで事態が進んでいたのではなく、2001年に厚生省と労働省が一緒になって厚生労働省が発足し、福祉と雇用の連携が進んだことや、2004年には「障害のある人の『働きたい』を応援する共働宣言 ~共に働き・共に生きる社会づくりを目指して」が「障害者の就労支援に関する有識者懇話会」から発せられ、それらが同年の「今後の障害保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)」と相まって、ついには2006年施行の障害者自立支援法へという流れがあった。

 その国レベルの流れと並行しながらも、埼玉県及び越谷レベルでのオリジナルな流れがあったことをおさえておきたい。内野さんもそこにいたのだ。以下は内野さんの話。

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県障害者職業開拓推進事業の開拓員として

 私には知的障害があるいま39歳の次女がいる。当時、リサイクルショップぶあくで障害者の方々と店番をしていた。私は当時「職場参加を語る会」の常連で、第3水曜日の「語る会」にはずっと参加してきた。それで開拓員にならないかと勧められた。

 職業開拓員の仕事は、自分の考えていた営業とはちょっと違った。障害者雇用のことも知らなかったが。山下さんがいろいろ情報が集まる回路を作ってくれた。罰金を払っても障害者は雇いたくないという事業主もたくさんいたが、仕事に応じて事業所の方にもお金が支給されるトライアル雇用なら雇ってくれるところもあった。これだったら事業主の方は資金繰りが助かるかなとか、わかってきた。障害者の方はずっと頑張ってきているが、職場の方も歩み寄って、両方が歩み寄ることで障害者就労が変わっていった。

 生協の班長会で、本部にこういうこと働きかけをしていると話したら、生協には渉外担当という人がおり、役所に行ったりしている人で 要望をいろいろ聞きますよと言われ、知り合いになった。生協でアルバイトの募集があって、日曜にチラシが入っていた。障害者担当の人に会った時に、募集してましたねと言ったら、もう決まりましたと言われた。本当に働きたい人はすぐ電話をくれるのだという。

 うちに帰ってから、今度は月曜の朝9時から電話連絡しようと心にきめた。給料が安いところと、遠い所はダメかなとわかった。自転車で行けるか、安い交通費で行けるところ。チラシを見て、楽しそうにやってます、というところを狙って、練習のつもりでやってみた。すると、いいですよと連絡が来た。月曜の9時から15分くらいは私のおしゃべりの練習時間になった。

あの頃は。鈴木商店の社長さんが代表でとか、県立大の先生もいてとか、そこからトークを始めるわけ。ダメですと言われるときも多かった。あまり電話してアポを取ると、自分も動くのが大変になるしで加減しながら続けた。
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越谷市障害者地域適応支援モデル事業の立ち上げ

 山下さんの「弁当持って職場に行って、職場の人と障害者が一緒に弁当を食べるといったことからでもいいんですよ」という言葉をまだ覚えている。まずできるところからの「職場参加」だと、腹をくくって出かけた。
 
 越谷の養護学校にも行った。いま世一緒でサポーターとしてかかわってくれている宇都木さんが進路担当の先生としておられて、いろいろ教えてくださった。
 
 大川ホームセンター(現スーパーバリュー)に行ったときは うまく話せなくて、結局実習ということですか?と向こうから言ってくれて、まだ私のおしゃべりはまだまだだなあと思い知った。

 それから、市立図書館に行って、いいですよと言われた。市の農業技術センターにもいいですねと言われた。ゴマのような小さな種をいっぱい蒔く仕事みたいなのはいいかもしれませんねと、すぐオッケーをもらった。よし今度は一般の会社と思った。

 ヨーカドーに行ったときは、私の職業開拓員の名刺のところに県のマークが入っていたので。相手の方も普通のおばさんではないと思った
のかどうか、協力させていただきますと言われた。生協の大型店も「いいですよ」と言ってくれた。

 市の職場はまだ2ケ所だけだったので、老人福祉センターけやき荘に行ったらOK。同じくくすのき荘もOK。

 相棒の開拓員の人もサティ(現イオンせんげん台店)とか開拓してくれた。

 そうやって実習職場が決まり、地域適応支援事業のモデル事業が始まった時、わらじの会の障害者が市役所で実習している様子がテレビに出た。彼のお母さんが「まさかうちの子が実習でネクタイをつけて行くことになるとは。」と涙を浮かべて言っていたそうだ。

 その一方、せっかく受け入れてくれる会社もあるのに、障害者は失敗したらすぐ施設に戻れないということで、親が出さないことも多かった。それに、重度の方で、本人は実習したくて毎日練習していたのに、親からはあまりにも重度なので世間にさらしたくないと言われたこともあった。最終的には仕事に行けたのだが、私ももしかしたら同じかなと考えさせられた。
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職場参加で四季折々の風を職場へ、地域へ、家の中へ

当時、せっかく職場実習のために開拓していただいてきた仕事を、実習する施設がみつからなくて、施設の内職作業に回すこともあった。

アルミホイールの会社でシルバーさんと一緒にやる仕事や、寿司屋さんの出前のとき、お箸や醤油やお皿をセットにする仕事や大川ホームセンターの仕事もそうせざるをえなかった。まあ、施設と交流できたからよかったかなとは思うが。

職場実習に参加したことをきっかけにつきあいができた団体・施設同士で、わらじの会が音頭を取って、「ちゃぶ台会議」と称して交流会を開いた。職員も利用者もとても新鮮だった。

実習先で職場の人が障害者の趣味が映画とカラオケと聞いて自分たちと同じで驚いたという話を聞いた時は、失礼でしょと腹立たしかった。振り分けられて養護学校に行っちゃった人も少なくなかったが、やはり小さいころから一緒の学校に通って知り合うことはとても大事だと感じた。多少トラブルもあるけど社会に出て行かなければだめだなと思う。

 うちの娘・真未も、当時近所のミニコープ店で職場実習させてもらったことがある。初めは緊張していらっしゃいませが言えなかったが、半年くらいで言えるようになった。

 商品の補充はできなかったが、手前の商品が出ていくと、順番に前に出すという作業を、おいでおいでと言いながらやっていた。1回1時間ほどやった。

 実習を辞めて半年以上経った時に、又来てくれないかとレジ打ちの方から声をかけてもらった。しかし、本人に伝えると「お金が出ないから嫌だもん。」と言った。とはいえ、そうした仕事を経験した後、家の中で今までやらなかったことを、やるようになったりもした。社会参加することで刺激をもらってよかった。

 職場開拓の姿勢は、障害が重いから難しいとか軽いからみつけやすいとかいう発想ではなく、私の場合は地域にこういう仕事があったからあの人にどうかなという感じで考えている。

 それまで施設や病院とか家にこもっていた人の職場参加を手伝ってきて、働きに行けばお金がもらえるから生活環境が変わるのを見てきた。新しくできることが増える。今まで単純作業しかしてなかったのに、職場に行くことで服を気にしたり楽しそうだ。

 結果として、うちの娘のように一時的な職場参加で終わる場合もあるが、それでもやってみる値打ちは十分あると思う。

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