重度障害者として 波乱万丈な人生 2021.7.28 すいごごカフェ 荒井義明さん(介助付き自立生活者)

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母におんぶされて通った養護学校

 1955年(昭和30年)に埼玉県で生まれた。半年くらい経ってもなかなか首が座らなかったので専門の病院に行ったところ、脳性麻痺と診断された。中学校は、当時埼玉県には養護学校がなかったために、東京の北区にある北養護学校に入学した。母におんぶされてラッシュの電車の中を大宮から王子まで行き、そこからはスクールバスで通ったけど大変だった。なので、父親が国鉄に勤めていたんだけど、国鉄職員の官舎が板橋区にあって、兄貴も板橋の高校に合格したこともあって、2年後に家族で板橋区に引っ越した。国鉄の鉄道弘済会(社会福祉事業を中心に多彩な事業を展開する公益財団法人)の人には、いろいろ相談に乗ってもらったり、電動タイプライターを買ってもらったり、よくしてもらった。養護学校で訓練を頑張ったおかげでバランスを取ってだいぶ歩けるようになったけど、電動車いすがあれば歩かなくてすんだと思うし、今振り返ってみれば無理して歩かなかった方がよかったのではないかと思う。

 養護学校卒業後の1977年、群馬の授産施設“恵の園”に入所した。そこでは障害の程度で仕事が分けられていて、障害の重い人は主に電線の皮むき。軽い人は機械を動かしたりしていた。僕はそこで一番障害が重かったと思う。ということで、電線の皮を剥いで、銅線とビニールを分ける作業をしていた。2年で副班長になったけど、給料は1か月で1万5千円くらいだった。高崎高校(通信制)にも通っていたから仕事と勉強で体力的にきつくなってきたこともあって、施設に入って9年目、30歳で恵の園を出た。

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自立生活は大変だったけど、自由な時代だった

 どうにか自分で働いて暮らしていきたいと考えていた時、たまたま恵の園にいた職員さんと学校で一緒だった人が、春日部で「風の子」というグループを起ち上げていて、見学に行ったら代表が野島さんだった。野島さんとは養護学校の同級生。そこで、共に働く「共働舎 風の子」を作って、障害者も一緒にごみの収集や産業廃棄物を運ぶ仕事をやったらどうかということになった。私はそこで帳簿や事務の仕事をしてたけど、あの頃は1行ずつしか打てないワープロを使ってたなあ。

 プライベートでは、共働舎で一緒に働いていた木元君という知的障害者の人と春日部のアパートで同居生活を始めた。家賃も光熱費も全部半分。家のことはホームヘルパー(当時は家庭奉仕員と呼ばれていた)の青木さん(現日本ヘルパー協会会長)が週に2回2時間家事をしてくれて、助けてもらっていた。

 ある日、お互いストレスもあってか木元君と取っ組み合いのケンカになり、私は目の所に傷がついたため、市営住宅に引っ越すことにした。世帯用と言うからお袋も一緒に入ろうと考えてたんだけど、社会福祉課の課長が「自立生活してるから親子で住まなくてもいい」と言ってくれて。当時は障害者も少なかったので、何かあるとケースワーカーが飛んで来てくれて相談にも乗ってくれたし、制度がなかったから臨機応変にできたところがあった。障害者自立支援法ができる前は、介助者募集のビラを撒くと学生や主婦などが1人2人つかまったけど、今の時代はちょっと難しい。それに、事業所がヘルパーを派遣しないといけなくなったから、自分の好きな介護者を入れることも難しくなってきた。

 その後、共働舎はあまりうまくいかなくて、精神障害者の作業所と知的障害者のデイケアを作った。重度障害者の人達相手だったので、日常の生活で介護をするのがいっぱいいっぱいだったけど、それが今のあんだんて(心身障害者地域デイケア施設)の前身となった。

 私は旅行をするのが好きなので、大学生の介護者との旅行はずいぶんした。青森、北海道、熊本、能登半島なんかへ行ったけど、それも夜行バスを使っての安い旅。2010年に頸の手術をしてから、あまり身体が動かなくなって旅行もあまり行けなくなった。でも、これから何年生きるかわからないけど、風の子で続いている廃品回収に協力してくれる方に渡している「風のたより」の発行と、旅行は続けていきたいと思っている。

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【荒井義明さんの前回のすいごごカフェ(2021.7.1)の記録はこちら】
https://yellow-room.at.webry.info/202009/article_1.html

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