保健室で出会った子どもたち 2021.2.10 すいごごカフェ 西陰博子さん(元養護教諭)

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大繁盛だった保健室

 12年前に退職するまで、約40年間養護教諭の仕事をしてきた。足立区の中学で7年間、小学校で10年間。その後、墨田区で3校。この仕事に就いたきっかけは子供たちと関わりたいなと思ったこと。保健室には「どこどこが痛い」なんて理由で子供が来るんだけど、実際にはいじめられてたり、家庭内でいろいろあったり、子供なりに悩んでいる場合が多い。でも、担任が仕事に追われて子供達の話を聞いてあげることができなくなってきていて。だから、クラスで居場所がなく避難所を求めてくる子が来たし、少し障害があって授業についていけなくなった子も来たし、学級崩壊なんかがあると保健室はさらに大繁盛だった。

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どう向き合えばよかったのか

 一番初めに赴任した足立区の中学校では、健康診断、保健の授業、健康管理が主な仕事だった。当時は予防接種もやらなくちゃいけなかったから、ともかく毎日毎日仕事に追われている感じだった。子供達が持ってくる給食費も夜9時10時まで数えたりしてね。だから子供の顔も、しょっちゅう来ている子しか覚えられなかった。

 そんな中、印象に残っている女の子がいる。その子の父親の会社が倒産してしまったせいで行きたい方面に行けなくなって、学習意欲をなくしてしまっていた。教室には行けないんだけど、学校に行かなくちゃって気持ちはあるから、とにかく保健室にいさせてくれと。でも、その頃はまだ登校拒否とか不登校という言葉はない時代だった。私もどう接したらいいかわからず、他の仕事もいっぱいあって、その子とゆっくり話し合ったり、その子の気持ちに寄り添えなかったかなと、今でもすまなかったなぁという気持ちでいっぱいだ。

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外国の子、障害のある子…たくさんの出会い

 その後、90年代半ばからは墨田区にある学校に移った。もともと学級崩壊が流行っていた時で、本当にバイクで廊下を走っちゃう時代だった。勤めていた学校は繁華街の近くだったので、フィリピンやタイなど外国の子もいて。親の出稼ぎについてきただけで、来たくて来たわけじゃないから、日本の社会に馴染めない。言葉を覚えるのも拒否しているから勉強も全然できない。すると障害児扱いもされて、行き場がないから保健室に来たりしていた。

 墨田区の組合は養護学校義務化に反対しており、視覚障害、聴覚障害の子でも希望すれば受入れられていた。でも、その子たちが幸せだったかというとどうだったかのかな。いじめられたり、ほったらかしにされたりとか。そういうのが嫌で不登校になったりした子もいたので、なかなかその辺は難しいなってところがあった。

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中途障害者になった生徒に寄り添って

 すごく覚えているのは、突然頭痛を起こして意識がなくなっちゃった4年生の女の子のこと。呼吸も止まってしまい大手術になって。意識が戻ってよかったんだけど、歩けなくなったし、食べる方も大変になって、かなり重い障害が残ってしまった。教育委員会は養護学校を勧めたけど、本人は元の学校に戻りたいとのことで、私達学校も受け入れることにした。私も給食とかトイレの介助をやったりしたけど、他の子供達もいるのでどうしてもその子を待たせてしまったり、かわいそうな思いもさせた。でも、親はついていかずに修学旅行、移動教室にも行けたし、運動会も生徒たちと一緒に車いすレースを考えたりして頑張った。

 今まで、担任と相性が悪くて教室に行かずに保健室に来ることを貫き通した子や、多動で乱暴が止まらず、病院に行ってもらったら発達障害だとわかった子など、いろんな子がいたのを思い出す。今、彼らはどのような人生を送っているだろうかと時々思う。

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