まあるい月が 2021.1.13 すいごごカフェ 島根淑江さんトーク

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”ど根性”の父の生き様に影響されて

 今日のタイトルの「まあるい月が」っていうのは、私が作った詩で、自分史みたいなものを発行する時に載せてもらった。私は昭和18年生まれで、今77歳。横須賀生まれ。

 私の父は軍人だったんだけど、辛くも命だけは助かって帰ってきた。でも戦争に負けちゃったから軍人は職に就けなくて、小さい頃は芋粥がよく出てたのを覚えている。そんな中、横須賀基地ができ、父はそこでボイラー(釜焚き)になった。私が小学4年までは一緒だったけど、親戚のおばさんが連れ合いが亡くなって1人になってしまったのを機に、おばあちゃんもいるからってことで、父以外の家族は茨城(父母の出身地)に引っ越した。父はそこから60何歳まで20何年か単身赴任をして、月に1回水戸に帰ってくる生活だった。
 私達は土地があったからお百姓をして、私自身も22歳まで手伝っていた。そういう生活で勉強もしなかったのに、奨学金をもらって大学もなんとか行かせてもらって。

 うちの父は、私ら娘には語らなかったけど、横須賀基地で働きながら、米軍さんと英語で会話して英語を習って、夜間の慶応大学を出たの。それで免許を取って田舎で英語教師になろうと思ったのね。でも40歳過ぎると、もう教師の働き口がなかった。やむなく英語の勉強だけして、時々帰ってきて英語の勉強の手ほどきをしてくれた。
 「これからの女は仕事を持たなくちゃいけないよ、教師になったらどうだ?」って父に言われて、言う通りにしたけど、私は英語教師になればよかったのに、短歌の世界に興味を持ってしまって国語教師になったの。そんなお父さんは基地を辞めた年に白血病で62歳で亡くなった。そんな父のど根性をもらったと思っている。

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波乱万丈だった30~40代

 就職口が近くになかったから埼玉県を受けたらなんとかパスして、栗橋で教師を2年やって、越谷では4校勤めた。ちゃんとした教師じゃなかったと思うんだけど、幸いにして生徒がよかった。優しくて抱きついてくる子なんかが多くて楽しく教師をやっていた。
 越谷の平和橋で夫と出会い、結婚して越谷市に住んで50年経つ。家では、お姑さんは脳梗塞やリュウマチで動けないおばあちゃんではあったけど、一緒にいてくれたから子供を育てられた。それはよかったんだけど、舅も体が動かない中、老々介護に耐えられなくなってしまったみたいで。「お前教師を辞めたら?」って私に言ってきた。だけど、子供達はまだ大学に入ってなかったし、「教師は辞めません」って言い切ったの。そしたら私ら2階にいたのに舅に火をつけられた。家は全焼。50歳の時。でも、これでまたやってやるぜって気持ちで60歳ちょっと前まで教師を続けた。辞めた後は、自分の楽しいことをやりたいということで、今までもちょこちょこやってた書道をまた再開した。コーラスもやったり。

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どんな時でも楽しみを見出して

 2年半前に、転んで骨が欠けてしまい杖生活になった。神経をやられて足が動きにくくなっちゃって。でも、杖をついてどこへでも行ってやるぜ~という感じで、バスと電車に乗って東京とか横浜とかに出かける楽しみを覚えた。その間にバス停が近くだったので世一緒を覗いてみたら、少し前から知ってる山崎さん、樋上君なんかがいて、いろいろお喋りしたのが始まり。お話ができるのが楽しくて1年くらい前から世一緒に来るようになった。
 足を一歩前に踏み出せば、次の楽しい目標に向かってとにかく歩けるじゃない? 今は半身不随の生活ではあるけれども、趣味の書道や音楽をやりながら頑張っています。

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