BGMは浦鑑ブルースーべしみ四半世紀の星名良浩さん  2020.9.23 すいごごカフェ トーク

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人の心に魅せられて

 1960年(昭和35年)、東京生まれ。小学5年の時に越谷に越してきた。結婚して一時期春日部の武里団地に住んだけど、それ以外は49年間県外に出ずに越谷に住んでいる。大学は埼玉大学で、小学校教員コースに入っていた。一浪して4年間過ごした後は3年程大学院に行ったので、卒業が27歳。でも、教育実習で自分には適性がないと実感して結局教員にはならなかった。そこで、心理学の授業で人の心を研究するのがおもしろかったこともあって、浦和少年鑑別所に就職することにした。でも、仕事は想像していたのとは全く違った。

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自分には量りきれなかった少年の罪

 少年事件の内容はいろいろ。大きな事件は少ないけど、無免許でバイクに乗るとか、スピード違反とか。そういう事件を起こす非行少年が実は相当数いるんだけど、違反切符を10枚20枚もらってもなかなか身柄は拘束されない。毎日警察にお世話になってお叱りを受けたりする子がやっと鑑別所に来る。そういった少年少女は原則2週間鑑別所で過ごすことになる。そこで集団テストと個別面談をし、学校とか今までの過程を地域で聞いて、多少カンファレンスをして、意見をまとめて、少年裁判にどういう処分が適当かの意見と理由を書くというのが日々の仕事だった。

 「処分」といって今回は何もしないとか、親の監護力が弱いので「監護措置」といって、委託するといった判断を意見として出す。でも、そもそもどの少年も事件を起こした根拠があまりわからない。家庭裁判所は鑑別所の意見を聞いて決めるわけだけど、鑑別所の職員はどうしても鑑別所の中でのその子の生活しか見えないし(どんな少年も鑑別所ではおとなしかった)。でも、行刑(刑事)施設とつながってるから検事の求刑通り重い方に傾くようになっている。そんな中、資料の提出が遅れるのは絶対許されないし、毎日報告書で悩んでいたら耐えきれなくなってしまった。自分は2年間で80人いないくらいしか担当してないんだけど、毎週胃をキリキリ痛めるようなのはやめようと、次の仕事を決めずに30歳前に辞めた。

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面接のウリにしようと思ったら

 その後教員になろうかなと思ったんだけど、面接の時に売りがないと困るなと(笑) そんな時、ちょうどオエヴィスができた年だったので、そこでの障害者の介助者が足りないという新聞記事とチラシを目にして、やってみるかと思い立ち、それで谷中耳鼻科を訪ねた。大学で障害者教育の勉強はしたものの、障害を持った人と付き合ったことはなかったから、ちゃんと障害者に関わるきっかけとなったのはオエヴィスの介助。藤崎稔さん、吉田昌弘さん、野沢さんらの介助に入ったけど、最初はどうやって話して接したらいいかわからなかった。

 教員採用試験を受けた2年間は、冬はスキー場の12~2月の3カ月くらいで月に30万くらい稼げてたから(バブルだったので)、その他の時期はわら細工に週に2回くらい通って仕事しながら勉強するという生活をしていた。でも、勉強が適当になって教員にはまたなれそうにもなくなって。そのうちに、オエヴィスに続く暮らしの場としてべしみを作ろう、専従の職員を増やそうという計画が立ち上がった。最初の5年くらいは施設ができたら自分は身を引こうと思っていたんだけど、立ち上げたら立ち上げたで、引き継ぐなんてできっこないし…という感じで今に至っている。嫌になることは何度もあったけど、これをやりたいからやめる!ってのがなかったから、自分からやめるのも悔しかったし。年齢的なこともあったし。今はもう疲れたなっていうのが正直なところだけど。

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