2020.7.1  共に働く事業所の時代 すいごごカフェ 荒井義明さんトーク

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都立養護学校から群馬の入所施設へ

 僕は昭和30年生まれ。まだ若かった時は体もある程度動いて、どうにかこうにか歩けた。大宮が実家なんだけど、埼玉には養護学校みたいなところがなかったから、東京の学校に通うためにわざわざ引越して養護学校に行った。遅れて学校に入ったので、僕の方が3つ年上だけど、そこでは野島さんと同級生になった。
うちにいるのが嫌だったので、22歳で「恵の園」という群馬の授産施設に入所した。朝は6時起床。それから点呼、掃除、朝食、朝礼を済ませて朝の8時から夕方の5時まで作業をした。仕事は電線のビニール製の皮をむいて、皮と銅線を分ける作業で、分けたものを他の会社に売ってお金をもらっていた。でも、いちいち外出許可をもらわなければ出歩けなかったし、そもそも有給休暇がなくておかしいと思っていた。工賃は月に17000円くらいしかなかったけど、まだ良い方だった。僕が26歳くらいの時に亡くなった親父は、これから自分の好きなようにやってくれって言ってくれていたし、身体にガタが来た30歳の時に恵の園を出た。

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共働舎 風の子のチャレンジ

 それからはいくらアルバイトをやっても食べていけず、なかなか大変な生活だった。でも、当時は障害者の自立生活運動が盛んで、私も若かったし少しは動けていたので、どうにか働いて生活したいと希望していた。その頃、たまたま恵の園にいた職員と専門学校で一緒だった人が、春日部で風の子というグループを立ち上げていて、その代表が野島さんだった。そこで、風の子で話し合って、会社を作ってごみの収集や産業廃棄物を運ぶ仕事をやっていったらどうかということになった。その頃に春日部のアパートの2階に引越して、知的障害者の木元君と一緒に生活を始めた。家賃も光熱費も全部半分。共に働く「共働舎 風の子」を作って、その会社で帳簿や事務の仕事をした。あの頃は1行ずつしか打てないワープロで仕事をしていた。
木元君とは日々の生活でお互いストレスもあったと思うが、ある時取っ組み合いのけんかになった。私は目の所を切る怪我をしたため、今住んでいる花積住宅に引越すことにした。しかし、仕事が段々なくなり、私自身も急性肝炎になって半年入院した。その後も右足の股関節の手術で半年入院し、仕事どころではなくなってしまった。

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その後の出会い

 これからの方向性を見つけられないまま、今まで一緒にやってきた仲間も数人よそへ行ってしまったが、木下さんが風の子の廃品回収をしながらこれからのことを考えて、石川さんと友田さん、新しい介護者の高橋さん、竹山さんとでアパートの1部屋を借りて、今のデイ・サービスのようなことを始めることになった。名前はそのまま使って共働舎。会社といっても、NPOなんてないから個人企業の形。木下さんが事業主で、雇用促進法の助成金を取っていた。障害者は僕と木下さんしかいなかった。重度障害者の人達相手だったので、日常の生活で介護をするのがいっぱいいっぱいだったけど、それが今のあんだんて(心身障害者地域デイケア施設)の前身となった。
風の子が出来てからずっと続いているのは廃品回収で、協力してくれる方たちには『風のたより』を渡している。ちなみに、この『風のたより』を読んで、一番初めにあんだんて(心身障害者地域デイケア施設)に来てくれたのが大坂さんだった。

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