一人暮らしという宇宙の旅路で重度障害の私は     2019.9.4 友野由紀恵さん(世一緒金曜当番スタッフ)トーク

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子どもの頃から施設が全世界だった
元々私はずっと施設暮らしだと思っていて、一人暮らしなど考えてなかった。東村山の養護学校の寮に3年間いて、それから整肢療護園に中学までいて、そして越谷養護学校高等部の寮に移った。

寮の生活で外に出るときは家に帰るときだけ。それもきょうだいが怪我したりすると、帰りたくても帰れないので、みんなが帰っても寮にいた。

私は小学5年生の時国際障害者年のポスターのモデルになった記憶がある。山下さんがそのポスターを探したいというが、もうずっと昔のことなので、みつからないんじゃないかと思う。

父はタクシーの運転手をしていたが、父の思い出は海に一緒に行ったという記憶しかない。あと、私はきょうだいが皆男ばかりで、その中の女一人。その私が一人で子どもの施設に入れられて泣いているので、父が「そんなに泣いてるんなら、家に連れ帰ろう」と。それが父のやさしさだが、母が「由紀恵のために、鬼にならなきゃダメ」と言ってるのを聞いた。

 養護学校でも高等部まで寮にずっと入ったままだったから、父が亡くなったのもずっと後から聞いた。

母が越谷養護学校にバイクで向かう時交通事故に遭い、一回だけ自宅に戻ったが、その後亡くなったという話を後になって聞き、母の時に初めて葬式に出た。

 養護学校を卒業した時、それまできょうだいと過ごしたことがなかったので、「きょうだいと過ごさせてほしい」とわがままを言って、わらじに入る前の3年間、自宅で暮らしたのを覚えている。
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街へ出た 迷って迷いまくった

その時、今わらじの会で火曜日にやっている「ぽぽんた」というグループが、新しい活動をやるのでメンバーを探していて、養護学校で同級生だった子が杉戸まで来てくれた。誰かの助けを借りられなかったら、あのまま外へ出られなかったと思う。わらじの会は今でも外に出られない人を外に出していこうということをやっている。

そして生活ホームオエヴィスに前の夜泊まって「ぽぽんた」に参加した。その時は、家にいる人を外に出そうというのが主で、どうやって出そうとか、どうやって支えていこうとか話していた。

そのためにみんなであちこち出かけて行ったが、それまでずっと寮とかうちで暮らしてきたので、地図の見方がわからなかった。いつも2,3時間道に迷ってしまった。

いつもオエヴィスから電話がかかってきた。当時の職員からは、「あんたは地図の見方がわからないんだから、迷って迷って迷いまくれ」と言われた。それが3年かかった。

それから生活ホームオエヴィスに入居し、べしみができ、2階に生活ホームもんてんができて、そちらに移った。

33歳の11月に生活ホームもんてんから現在の借家へ引っ越して、11日で15年目の一人暮らしになる。入居して11月から翌年の4月まではエアコンもなく、小さいヒーターで過ごしたので、けっこう寒かった。

引っ越しの時は、わらじの職員の人たちに、もんてんから家財道具を移してもらった。

なんで出るようになったか?門間さんが新しく入居するからもうそろそろという話があった。一緒にアパートを探してあげるから、出る準備をしないかと。

杉戸の実家の兄が、車で迎えに来てくれた時、もんてんが白い建物で、病院みたいだから、俺が保証人になるから早く出ろと言ってくれた。

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地域で暮らすって こんなことだった

 活動の傍らアパート探しをした。けっこう疲れた。不動産屋に、「あなたは一人で住むんですか?誰か入ってくれるんですか?火は自分で使うんですか?」とよく訊かれた。「介助者を入れて、火は自分では使わないから大丈夫。」と答えたが、なかなかOKにならなかった。

 今の借家も、出るときは元に戻さなくちゃいけないと言われている。私の場合玄関から入るのでなく、車いすから縁台の広いところに移り、そこから這って家の中に入るように直している。風呂場のスノコと手すりとトイレの手すりも付けた。

昔の大袋駅は階段と開かずの踏切があり、なかなか渡れなかった。私ともう一人女性障害者が大袋に住んでいた。駅のホームの途中に臨時の出入り口ができたり、やがて新しい駅になってエレベーターができた。

 今の家は大袋の踏切やバイパスの近くにあり、うるさいが、前よりは眠れるようになった。

生活ホームから出る準備をしているときは不安で泣いたりしていたが、いまは大袋に移ってよかったなと思っている。隣に男の人が引っ越してきて、タオルを持ってきてくれて、「引っ越しの挨拶だな、引っ越してくる人いるんだな」と思ったりする。

 今はきょうだいに連絡を取っていないが、連絡ないのが元気な証拠かなと思う。昔兄が倒れた時、お金を送ったりしていた。今は兄は働けなくて、病院通いで、弟二人が働いているそうだ。向こうは向こうで無事に過ごせているようだ。時々弟が、バイクに乗って来たりしている。生活福祉課の人が時々来て、「きょうだいと連絡を取っているか」と訊くので、取ってますと答えている。昔うちの兄と弟も、私とは別の施設にいて、それから母が兄と弟を引き取って暮らしていた。

兄が、去年、浅草から大袋まで歩いて来たらしく、泊まるところがないということで、私の留守中に借家に来てそこから私の携帯に電話をかけてきて、「お前のうち開いてんぞ」、「だれか来るかもしれないから、開けてある」、「早く帰ってきて」というやりとりをして、家に帰った。

その時、介助に入ったのが、世一緒の元障害者スタッフの新井さんで、びっくりしながらもう一人分の食事を作ってくれた。その兄から「金を貸してほしい」と言われ、次の日「私どうしたらいいかなあ」と介助者に相談したら、「きょうだいでも金貸すのはよくないだろう」と言われた。兄は金も薬も忘れて来ていたので、実家の弟にバイクで届けに来てもらった。
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介助者たちと私の人生
朝はわら細工スタッフでもある村田さんに毎朝来てもらい、食事とか私の送り出しをやってもらっている。はじめは生活支援センター苞で週2回という話になっていたが、私のほうで毎日来てほしいと頼んで来てもらっている。村田さんとのつきあいは、もう25年。村田さんは前に生活ホームもんてんの職員だったので。お金の管理なども、いろいろやってもらっている。

 ほかには、介助者の一人から「マンションの鍵を閉められて、泊まるところがないから泊めてほしい」と言われて、泊めてあげたことがある。亡くなったKさんも泊めてあげたことがあった。Kさんは息子さんが同じ学校だったので、「ボランティアをやらせてほしい」と言われ、5歳の時から亡くなるまで、40年間つきあいがあった。

 県立大学の学生が、10人~15人で1ケ月毎のシフトを組んでくれていて、夜7時から9時に毎日来て風呂介助などをやってくれる。重度訪問介護の資格を取るために、わら細工の研修を2回受けてもらわないといけない。新しい介助者を募集するために、入学式や卒業式にチラシを持って出かけてゆく。毎年3月にはわら細工で、卒業を祝う会もやっている。

 学生の介助者が、卒業のために病院の実習に行くと私の介助に入れなくなるから嫌だと言う人がいるんで、「卒業できないと困るから行きなさい」と言ったり、テストの時に「手のエネルギー下さい」と言われたりする。

 世一緒の元スタッフの新井さんがこの前介助の時間に来なかったので電話したら、「風邪を引いたから行けません」と言うので、その時は代わりの人がいたからいいけど、いつもそうはいかないので、「前の日でも電話ください」と言った。今は新井さんは手帳に書くようにしているという。新井さんには、他の人が入れなくなったときに代わりに入ってもらったこともある。

 やはり世一緒の元スタッフの山崎さんには日曜に介助をお願いしていて、先日は彼女の誕生日でもあった。
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