黄金の午後から喪失の黄昏を経て ひきこもりが発酵させた他者・社会を語るー塚田正行さん 2019.8.7 すいごごカフェ報告

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8月7日(水)のすいごごカフェのゲストは、」塚田正行さん。肩書は「世一緒に来始めた人」としておいた。あらかじめ「街の風に身を委ねて」と題し、次のように勝手に書いておいた。
「失われた十年(二十年)―さまざまな職場を巡ったのち、いつしか『ひきこもり』とみなされ、母の知人、相談機関を経て、世一緒へ漂着。旅路の風景と思索を語る。」

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マンモス団地の団塊ジュニア世代

当日、塚田さんは、6ページのレジュメを用意して、語ってくれた。その1ページ目の最初の言葉は、「団塊ジュニア世代」。レジュメにはこの言葉の解説をはじめ、当時の諸事件など時代背景をていねいに解説してくれてあったのだが、ここではあえて略す。塚田さんの両親は、新潟県の「落人部落」といわれた土地の出身だという。

塚田さんが生まれたのは東京の下町・葛飾区青戸。1973年。4人目の子どもで、上3人は女の子。両親はおろそうかと考えたという。長女は10歳上で、自分を抱いて近所中を走り回り、よく落とされたと後に聞いた。高熱を出すとひきつけ、救急車を呼ばれたという。幼いころの記憶は、ひよこを飼っていて、猫に食べられたこと。風呂は外に出ないといけなかったこと。なめくじがはっていたのを覚えている。父はおとなしい性格だが、毎晩酒を飲み、怒ると手が付けられなかった。でも、なぜか自分には怒らなかった。
一家は、1977年に武里団地に引っ越してきた。5階で富士山が見えた。翌年、幼稚園に入った。毎朝泣いていると、隣の女の子が一緒に行こうと誘ってくれた。近所で自分は年上の方だったので、小さい子のめmどうをみた。(そのころ生協の灯油を配っていた人が山下さんだったと、ここへ来てから聞いた。)

小学校から中学校時代は、絵をかくのが好きだった。友達にリクエストに応えて描いた。学級委員に推薦されたりもした。当時、姉たちは定時制に入って働きながら、家に金を入れてくれた。でも三女が非行に走り、父とケンカして家出したりした。母について一緒に警察に行ったこともある。そのうち、長女と三女は家を出て暮らし始め、両親と次女と私の4人暮らしが長く続いた。
この時代、少年ジャンプは黄金期で、アニメ、ガンダム、ファミコン等、最盛期を体験した。当時と比べると、21世紀に入ってからはゲーム機の技術やアニメ絵の進化はあっても、内容は新鮮味に欠け、衰退していったように感じられる。
中学では先輩との上下関係がない帰宅部で通した。高校受験では第一志望は不合格になり、二次募集で商業系の学校に合格した。高校では簿記の資格を取った。朝の支度が出来ても外に出られず、1年間に50日ぐらい欠席した。

卒業後東京の商業系に専門学校に進学した。サプライズが好きで、ズームイン朝の後ろを歩いたりしていた。グランドの広場に石灰を使って文字を書いたりもしていた。その後いろいろあって、専門学校は中退した。そのため、就職活動の大変さを経験していない。

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失われた20年のワーキングプア、ひきこもり

そこで、幼児期から続いていた「学校へ行く」という流れが途絶えた。気分を変えたかったので、長野県茅野市にあるリゾート施設で、夏に働いた。その後自宅に戻って、大学の通信制で幼稚園コースに入った。工事現場の整備員のアルバイトも並行してやった。その後、1994年、健康食品の会社の事務の仕事をした。

そこもしばらくして辞めた後、人材派遣会社の営業、住宅リフォームの訪問営業などやった。都内を歩き回ったら靴の皮がべりっとむけて、すぐやめた。

1997年に、防犯器具の会社に入った。電話でアポを取り、客の所に行く。1週間で客が取れたが、その後取れなくなり辞めた。1997年8月、派遣会社に正社員の待遇で入った。茅場町にある会社が派遣先だった。コンピューターのオペレーターをやった。25、6歳になっていて、そろそろ自分も正社員のうちに結婚したいと思ったが、そのうち不景気になって、登録型の派遣になった。何ケ月かは「リフレッシュ休暇」で仕事がない。参議院議員会館、かんぽ事務所……NECのLモードには開発段階から携わったが、所詮派遣の立場。悔しい思いを抱くようになり、そのうち働くことを拒否した。(第1次引きこもり開始)

その前に、1999年に長女が35歳でがんで亡くなった。そして母にも同じがんが発症したが、高齢のため進行せず、手術して治った。

この頃から社会はだんだんフリーター、派遣などワーキングプアが増えて、結婚しないで親と同居する人が増えて行った。かくて20世紀は終わり、「第3次ベビーブーム」は来ないことになった。

21世紀になったが、自分はひきこもっていたので、家でネットばかり。なんでもダウンロードできる状態になっていた。まだ法整備がなされていなかったので、上映中の映画とか、最新のゲームにアクセスできた。外に出なくても、金がかからずに遊べる状態だった。これまでTVや新聞を通して持っていた常識が崩れて行った。

 9.11以降、この世界はおかしいなあと感じていた。「アメリカの自作自演か?」、「アメリカの中央銀行も民間の銀行だ」などなど、TVでは知ることができないことを、ネットで知った。そのころ金の歴史について考えることも多くなり、ミヒャエル・エンデの「モモ」には感銘を受けた。2005年までひきこもりは続いた。

2005年にアルバイトを再開した。住宅販売の看板持ちをやった。動かないですむのがいい。世一緒に来て知り合った癸生川さんも、この時期に看板持ちをやっていたと聞いた。会っていたかもしれない。

自分としては、外に出て木になったような感じがしていた。夏だとセミが止まるし、雨だと雫の音がスローモーションのよう。雪の日にもやった。東越谷3丁目の交差点でよく座っていた。あの弁当屋さんに歩いて行った。たまに電車で帰るときは世一緒の前を歩いて駅に行ったんだなあと、後で思い出した。当時は、おかしな名前だなあと思っていた。

2011年に武里団地の1-1が建て替えになるというので、1-3へ引っ越した。近くなので顔見知りばかりだった。2012年、看板持ちの会社から施設内の警備もやらないかと言われ、東京駅の大丸の施設警備をした。浜松町の事務所もあったが断った。

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第2次ひきこもりで体内に発酵してきた他者、社会

2013年、長らく病気でいた父が亡くなった。その4年前に胃がんで胃を3分の2切除したが、2012年に肺がんが発覚し、進んでいたから助からなかった状態。その1ケ月後の命日に、自分がめまいで倒れ、谷中耳鼻科に通った。家族の状況と自分の病気で、第2次ひきこもりに入る(2013~2018年)。

母も高齢になって、下半身が夜になるとむくみ、家事手伝いをするようになった。仕事もしていないから、手伝いに気が向いた。

2018年、また団地の建て直しのため、6街区に引っ越し。生活圏が変わった。散歩するようになり、前々から母親が団地内の第6地域包括支援センターに「相談した方がいいよ」と言われていたので、第6包括に行ってみた。あとで地域包括支援センターは高齢者が対象とわかったが、事前に調べていくより自分の足で歩いて、いきなり入っていくのが楽しかった。あらためて考えると変だが、その時はほかの人の力を借りなかった。ボランティアから始めたいという気持ちが強くあった。人に会いたかった。

すぐに仕事をする気にはなれず,日課がほしかったので、ボランティアの活動を紹介してもらったが、連絡がなかった。その後、知人から紹介された越谷らるごに行ってみた。月2回座談会を開いているが、もっと多くそういう機会をほしいと思い、また第6包括へ行った。そこから生活支援センター「えん」を紹介され、そこに世一緒のサポーターでもある長谷川さんがいて話を聞き、せんげん台の就労移行「世一緒」にふらっと行ってみたのがここに来た経過。

せんげん台から越谷の世一緒を紹介され、来てみたらちょうど水谷さんがゲストで話しており、前に谷中耳鼻科で診てもらった先生だった。2018年12月20日のこと。

自分がひきこもっている時も、人と会うことは嫌ではなく、家族とも話をしていた。早く仕事をしろとか言われたこともなかった。家族が認めてくれたので、部屋に閉じこもっている形ではなかった。精神科にも行ったことはない。

現在職業には就いていないが、社会には参加している。どうしたら心の底から働きたいと思う気持ちがわいてくるか、わからない。いまこんな状態でも、水曜に日吉さんの介助、木曜に革細工の助手としての仕事をしている。社会に出ても、内面はひきこもりの状態と変わらない。長びくとまずいのかなとも思う。

でもそういうひっこもりの人にも何か可能性があるのではないかと思う。どうすれば村を災害から守れるかとずっと考えていた「三年寝太郎」みたいに。

アリの社会でも、常によく働くアリと働かないアリがいて、前者が疲れると後者が代わって働くことで社会を保っているという。ニートも働く準備段階としてみていただければと思う。

また、ウォールデンの「森の生活」とひきこもりを比較するのは申し訳ない気もするが、自分も部屋の中で、ほんとうの豊かさを探すことを選んでしまったのだと感じる。


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