風の又三郎がアルバムをめくり始めるとき 7月17日すいごごカフェ・佐藤景子さんのトークから

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どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

世一緒のポスティング職人だった
 7月17日(水) キッチンとまとのカレーとコーヒーをいただきながらおしゃべりするLunch Café どっこいしょ の後に開かれたすいごごカフェのゲストは佐藤景子さん。
 一昨年創刊した「世一緒NOW」の呼びかけを読んで、世一緒の火曜日当番をするようになった。出会いは彼女が母と越谷市障害者就労支援センターに相談に訪れた時。すぐ就労ということでなく、とりあえず本部事業である世一緒のグループワークのうち、ポスティングをやりたい、しかし花壇整備作業や仕事発見ミッションなどはしないとはっきりしていた。
 ポスティングひとすじで、ポスティングがあれば必ず参加し、一通り終わったら、次はいつ頃あるか確認を忘れない。しかし、ポスティング以外の活動はきっぱり断る職人気質。
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世一緒当番に応募しひらかれてゆく世界

 そんな彼女が当番の仕事として、世一緒NOWや職場参加ニュースを、市役所のいろんな部署や中央市民会館、さらには産業雇用支援センター内の諸機関へ配達に回ったり、サポーターと共にキッチンとまとの弁当配達に出かけたり、時にはしらこばと水上公園管理事務所に毎月の実績報告書類を届けたりするようになった。
 越谷市民まつりや産業フェスタへの出店や定期総会で前に出て活動報告したりもしている。そして、そして、ついにすいごごカフェのゲストトークまでひきうけた。

 発展途上にある彼女のこれまでの人生を、この日自ら語った。
 生まれたのは1974年。私と連れ合いが、東京から埼玉に引っ越してきたころ、彼女は生まれたのだなあと思い、わらじの会発足前に「総合養護学校をつくる会」で出会った障害のある子どもたちやそのきょうだいの顔を思い浮かべた。
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高度成長後期の転勤族の子として

彼女は生後1ケ月から4歳まで、奈良の農村部。5歳から10歳まで福岡。11歳から17歳まで神戸。そして東京で1年暮らしてから、草加を経て、越谷に腰を落ち着けてから20数年たつ。

彼女は両親の初めての子であり、父が一部上場の水産加工会社の社員で、その会社がさらにチーズ等非水産部門へと事業を拡大し、太平洋岸に成長展開してゆく過程で転勤を重ね、彼女は転校を重ねた。次女も生まれ、やがて会社が倒産し日本ハムの100%子会社になる局面は越谷で迎えた。
 佐藤さんは、奈良では田舎で店がなく不便だったこと、そして小学校で友達から「さとっち」と呼ばれ、中学では先生から「さとちゃん」と呼ばれたことや、中学では吹奏楽部に所属して打楽器を担当したことを語った。

 転校したとき、新しい学校にすぐなじめたという。が、いじめはなかったのかと会場から聞かれ、話したくないと言った。彼女の学校時代は、ツッパリやスケバンの時代から始まり、やがて管理教育におさえられてゆく時代と重なっている。そんな時代に転校生であることは、いじめのターゲットになりやすいこともあろうし、逆にいじめから脱出する契機にもなりえたろう。
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三郎から見た「風の又三郎」


 佐藤さんが転校を重ねていた当時の他者についてほとんど具体的に語らなかったことから、私はイメージを膨らませ、宮沢賢治「風の又三郎」に出てくる転校生・高田三郎と佐藤さんは共通するところがあるのかなと考えた。だから冒頭に、三郎が歌ったとされる(でも実のところは子どもたちの夢の中でかも)歌を載せた。

 その土地に暮らし・働き、さまざまに関わりあう家族の一員として、その暮らしや働きをひっくるめて遊んだり、けんかしたりしながら育ってゆく子どもたちからすれば、三郎は風と共に漂着した異界の存在として強烈なインパクトを与える。もし、三郎がここに暮らし続けたら、このインパクトをきっかけとして新たな関係が編まれただろう。しかし、再び転校して去ったことで、「風の又三郎」として異化されたままになる。地域生活に根ざしたことばと感覚を奪われる。佐藤さんもそうなのだろうかと。

 私自身、中学の途中で転校した経験があり、佐藤さんと共通項があるかもしれない。今後、佐藤さんがほぐれてゆくことで、私自身もほぐれてゆけそうな予感がする。
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アルバムをめくり始めて
いっぽう、越谷で短大家政学部卒業後、そこで学んだ技術を生かそうと和裁の会社に就職したところ、あぐらをかいて働くのが辛くて1週間余りで辞めてしまった時の挫折感や、その10年余り後、33歳の時に、クリーニング工場の面接を受けたところ不採用通知が届いた時の悔しさは、ある程度伝わってくる。でも、今回のすいごごではそこまで以上のやりとりは語られなかった。

その後は、毎日曜日に新聞に入ってくる求人広告を見ていたという。そして、親と一緒にハローワークへ行ったら、障害者就労支援センターを勧められ、市役所にも行って療育手帳を取得し、就労支援センターの利用者となる。その時に、同センターを市から受託運営していた私たちと出会った。
その後は、冒頭に述べたとおり。

このすいごごカフェで、佐藤さんがこれまで自然に封をしてきた暮らしと仕事のアルバムを開き、他者たちと語り合ったのは画期的。次の機会には、アルバムの中の他者たちが動き出し、語りだすかもしれない。

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