ロボトミーと傷痍軍人、また何か隠すのか?オリンピック (7.3すいごごカフェ:日吉孝子さんトーク)

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ロボトミー手術のため一家で上京した時の光景から
 1954年、北海道で最初(1879年~)の官営幌内炭鉱に生まれた。脳性まひ。その町から出たのは、障害者手帳を取るために2回札幌へ行った時しかない。5歳の時、ロボトミー手術を受けて機能訓練すれば障害が治るという話が東京から流れてきて、親が全財産をかけて手術を受けさせてやるといって、1959年11月、おばあさんの背におぶわれて、東京の瑞穂のおばの家に一家で出てきた。
 その時の旅で覚えているのは、昭和新山の煙。そして上京して上野駅に降り立った時、傷痍軍人が二人いて、一人は松葉杖をつき、片足が膝のあたりからなくて、ゲートルを巻きアコーディオンを弾いている。その横にもう一人が四つん這いになっている。それを見たとき、なんとも言えない気持ちになった。あれはなんだったのかとずっと考えているが、表現する言葉がみつからない。見てはいけないものを見てしまったという感じ。それでいて目がはずせない。戦争のことも世の中のことも何も知らなかったが、その人たちの存在が、すごく子どもにも屈辱的な感じだった。それが、ずっと頭から離れない。東京の光景がそこから始まっている。

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連行され前線にかりだされ捨てられた人々だった
 その後、人の集まる場所に行くと、やはり松葉杖の片足がない人と、もう一人が四つん這いで、その前に缶が置いてある。その人たちの横に立看が立っていたような記憶もある。その人たちがなんでそこにいたのかは、それから22、3年経った後になって、初めてわかった。
 1981、2年当時、子どもを産んで、高島平の都営住宅の8号棟に住み生保を受けて暮らした。保育園のママ友ができ、話す機会があった。その人は朝鮮総連所属で、その人に傷痍軍人の話をしたら、急に真面目な顔になって、「あなたたち何だかわかってる?」と訊く。「あの人たちは第2次大戦で大陸から連れてこられて、負傷したにもかかわらず、その人たちの補償を日本はしない。日本の国への抗議を示すためにそういうかっこうをして、人の集まるところへ行って、自分たちがどういう目にあっているかを伝えてるんだ」と言う。その人たちはアコーディオンを奏でるが、話は一言も発しないので、わからなかった。その正体がわかって、20数年ぶりにショックを受けた。

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どう伝えたらいいかわからないままだった戦後日本
 東京でロボトミーを受けるために家族みんなで上京したはずだった。1ヶ所でなく何ヶ所か病院を回った時、武蔵野日赤の先生が「その手術はやめなさい。危ないよ。性格変わるよ。」と、親にとくとくと話してくれた。親は体が不自由でもまだいいかと思ったらしく、手術をやめようかということになり、そこのリハビリに5歳から2年間通った。
就学免除で2年いて、そろそろ学校行った方がいいねと勧められて、都立光明養護学校を受験した。試験といっても積み木みたいなのをやるということだが、入ることができた。世田谷の梅が丘が最寄り駅で、当時暮らしていたのは青梅線の中神で遠いので、寮に入った。寮から学校に通い始め、1964年に東京オリンピック。その年までは目黒不動の祭りになると、傷痍軍人がいた。今思うと、声をかけることができればよかったのだが、たまたま父親とどこかのお不動さんに行ったとき、父親が私に「ここであんな物乞いをしないでリハビリして働きゃいいんだ」と言った。子どもごごろにも、なんかちがうぞと思い、その時だけは父親に嫌な感じを抱いた。まだ10歳になる前だったが、「お父さん、なんでこんなこと言うんだろう」と思った。その時の私は、自分がどちら側の人間かというのを理解していたんだろう。アコーディオンを抱えている側の人間だという思いがどこかにあったのだろう。彼らのことを伝えたかったにも関わらず、その時の自分の気持ちをどう伝えたらいいかわからずに来た。朝鮮総連の友達に話した時が初めてで、その時もよく伝えられなかった。

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わからないことまで一掃するオリンピックがまた来る

1964年を境に、傷痍軍人は巷から一掃された。養護学校の空の上に、5機のジェット機が飛び、オリンピックの輪を描いていたのを、あーっと眺めていたが、それまで混とんとしていたことがみんな封じ込められたか、隠されたか、戦後のにおいを消し去ったかのようだった。奇しくもまた東京オリンピックが来るので、また何か隠されるのかなあと思っている。選手には申し訳ないが、オリンピックにはいい思い出がない。
1968年、私は5歳から家に帰れないで過ごしてきたので淋しくて、中学校から普通学校に行きたいと言った。親は反対だったが、絶対に行くと譲らず、周りが根負けして、中学の校長が受け入れてくれた。

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 以上が日吉さんのトークのまとめだが、筆者から「ロボトミー」について、少し付け加えておく。ロボトミーとは、前頭葉白質切截術で、かって精神科医による治療法として認められていた(精神外科)が、手術により死亡する者や術後にてんかん発作や性格変化、無気力等様々な障害を生じ、人体実験として告発され、現在は行われていない。しかし、それはあくまでも精神科領域のことで、日吉さんのように脳性まひであったり、てんかんの治療という領域では必ずしも同様な批判、反省が行われてきたとは言いきれない。

 試みにネット検索をすると、前頭葉白質どころか片側の脳半球を丸ごと摘除してしまうという手術を、新潟大学病院で3人の脳性小児まひの子どもに行ったという、1957年の記録がある。そこには「これと平行して動物実験を行いつつあるが」と書かれており、まさに人体実験以外の何物でもないと思われる。

 日吉さん一家が脳性まひが治る手術と聞いたのは、この手術である可能性もある。厳密にはロボトミーでなくヘミスフィレクトミーというが、ロボトミーよりはるかに危険な手術といえる。

 2006年の大阪大学脳神経外科の論文では、上記の1957年の報告にある手術に関して、「機能性疾患に対して侵襲が大きすぎるという考えや、種々の社会情勢があって普及には至らなかった」と総括されている。しかしこの論文では、1957年当時の手術を「解剖学的大脳半球切除術」とし、難治性てんかんに対しては好成績を上げた(脳性まひについては触れられていない)が、術後早期の水頭症(50%)、慢性硬膜下血種(33%)、術後4~20年を経ると進行する意識障害や精神症状をきたし、時に致死的となる脳表ヘモジデリン沈着症(25~35%)が認められたと述べている。
 その批判の上に、しかし、論文は大脳半球を摘出せずに切除する「機能的大脳半球切除術」を提起しており、海外の論文を参照して、「長期成績は、約40%の患者が多少の神経症状を有しながら介助なく就業するか、普通学級に進み、知能向上も認められるといわれている」としている。こうした資料を見ると、難治性てんかんに対する脳神経外科の治療にはまだまだ人体実験的な要素が感じられ、日吉さんの子ども時代と大きくは変わっていないように思える。

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