傷抱きしめ介護現場でー元世一緒スタッフ、いま介護現場で働く田辺雄太さん

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6月19日(水) Lunch Café どっこいしょ& すいごごカフェ ゲストトーク:田辺雄太さん(障害者介護支援員) 「傷抱きしめ介護現場で」 家庭にも学校にも居場所がなかった子ども時代を経て越谷の祖父母の家へ。就労、離職後おやじ狩りで保護されたのち世一緒へ。ジグザグを経て介護現場で働く心は。

しんどいがなんとか楽しく働き続けられてる

 田辺雄太さんは1988年生まれというから、今年で30歳を迎える。現在は居宅介護合(社福天恵園)で障害者宅へ行って入浴を中心とした介護(時には1日に5件)をしている。また短期入所の泊り介護も行っている。休みの日の楽しみはメイド喫茶。4千円位でカウンターでメイドさんと話しながらお酒が飲める店へ行く。そのほか友達とつまみが安い店に飲みに行ったり、カラオケしながら飲むこともある。少し年下の友達とが多いが、時には職場のおじさんと仕事の愚痴を言い合いながら飲んだりもする。
 実は田辺さんはこの職場で前も働いていたが、仕事に行けなくなりそのままになっていた。前は介護だけでなく事務仕事もあり深夜1時までPCに向かっていたりして疲れ切った、今度は介護だけなので楽になった。職場復帰のきっかけは、買物に入った店で職場の看護師さんに偶然出会い「戻ってこないの」と声をかけられたこと。最近、当事者の親御さんが入社して、いろいろ提案してくれて働きやすくなったという。
 決して安定した仕事とはいえないけれど、友達や同僚とのつきあいを通して、しんどさを癒しながら働き続けている田辺さん。今回のタイトルにある「傷」について語る。
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幼いころからの「傷」をひきずって生きてきた

 田辺さんには、ずっと別れたままの母と妹がいる。母はパチンコが好きで、スロットもやった。自分が酒好きなのも母親譲り。実の父親とは自分が生まれてすぐに別れてしまった。後に義理の父親に連れられて、実の父親のところに行ったら、目が点になった。なんとフィリピンの人と再婚し、子どもが10何人もいた。アパートの二部屋続きで住んでいた。これがみんな義理のきょうだいなんだよなあと思った。日本じゃ暮らしていけないからフィリピンに行くとか話していた。たいへんなんだなと思った。がんばってるなと。
 母は浦和の伊勢丹のレストランで働いていた。帰ってくるのが遅いから、義理の妹に夕飯を作るのは田辺さんの役目だった。チャーハンとかしか作れなかったが。ガスを使うなと言われていたが、ちょっと使った。
 「小学校は普通学級だが勉強しなかったです。小学校の時から荒れて孤立してましたね。先公をぶんなぐってました。」と田辺さん。「自分の場合、自分が生まれてすぐ離婚しておやじがいなかった。その後妹の父親と再婚したけど、相手が母親に暴力をふるって、自分は包丁を持って殺そうとしました。それが小1の時です。生きててもだめだからいいやと思って。暴行を受けてるんだから殺そうと思って。何回かビール瓶で頭をぶんなぐってました。」
 田辺さんは三郷市内で小学生の時に3回転校し、その間学校でいじめにもあった。同じ三郷の中学に上がるとき、自分はよくわからないが、普通学級でなく特殊学級へ行くようにされた。そこから荒れ始め、悪い友達とつるむようになった。警察沙汰にもなり、親には迷惑をかけた。
 中学卒業後、最初は三郷で就職したがうまくいかず、最初の給料をもらってすぐやめた。その後、三郷に帰らず、越谷にいた母方の祖父母のところに住むようになった。そこで祖父母の知り合いから仕事の紹介を受け、Kという食品を扱う会社で働いた。自分の部署は箱を洗う仕事。1年は頑張って働いたが、続かず、あと夜帰るのが遅かったりもしてやめた。そこから就職もせず、ゲーセンで知り合った友達と夜遊ぶようになった。その時に、いろいろ警察にお世話になるようなことをしてしまい、少年院に行ったりを繰り返し、計2年少年院に行った。そこでいろいろ資格をとらせてもらった。
 少年院を出てからは、わらじの会や世一緒と出会い、世一緒では草取りやポスティングをみんなとやった。わらじの会では日曜日にトイレ介助をやらせてもらったりした。こども☆夢☆未来フェスティバルに参加し、初めてみんなの前で自分の生い立ちを語った。「それで話せるようになりました。」とふりかえる。
少したって、GUというアパレル関係の仕事を紹介された。実習を経てそのまま採用された。しかし、そこでも上司との関係が難しくてけっきょく辞めてしまった。そのあとは、祖父母の家からも出て、祖母が渡してくれた給料の半分の20万をつかって、秋葉原をうろついていた。携帯にわらじの会の内藤さんから電話があり、話を聴いてもらった。帰る家もないと言ったら、生活ホーム・オエヴィスで暮らしながら生活の基盤を固めてはどうかという話になった。

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学校行きたくないことも、かみつきたいこともわかるから

 生活ホームに暮らしている間に、就労支援センターの紹介で合同面接会に参加したら、そこに「合」が来ていて、見学に行き、働くようになった。働き始めたころは体力ももたず、何回かやめてしまい、ふらふらしていた。「合」の仕事が好きになったので、もう一回やりたいということで、3回ぐらい「合」に出戻りした。「合」で、ヘルパーと強度行動障害の資格を取り、そこで働きながらようやくオエヴィスから独立するということで家を探し、大泊のアパートで一人暮らしを始めた。しかしまた体が疲れてしまい、「合」を辞めて生活保護をもらいながら生活するようになった。
 今年の1月頃、また「合」に戻って仕事を始めた。二度目の生活保護を受けていたが、生活保護をもらいながら働き始めた。復帰してすぐに夜勤も始め、その後仕事が増え、現在は生活介護、居宅介護、夜勤(ショートステイ)などをやって生活している。
 田辺さんはこの仕事が性に合っていると語る。「先週も特別支援学校に送るのに、車に乗せようとしていたら、肩をぱくりと2回かまれたんですよ。学校行きたくないのはわかるから、しょうがないというのはありますね。」
 「走り出すのを止めてる最中に通りがかりの人が虐待だと思って、警察沙汰になっちゃったこともあります。うちの施設は制服じゃないんでTシャツだからわかんないんですよ。信号のないところを突っ走って車に轢かれたら危ないんでと説明したらわかってくれましたけど。4人くらい警察から来ちゃいましたからね。上司の人もいたんで、なんとかなったんですけど。」
 「入所施設に入ってる人だと、うんこを投げられる場合もあります。若干はかかるけどしょうがないかなと思います。『合』はほかのところから断られた人が多く来るので、しょうがないんですよね。」
 田辺さんは、かみつきぐせがある人からかまれた歯形の痕が残っていると腕を見せてくれながら、その人が変わってゆくのにつきあうことが楽しいと語る。

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古傷は消えないが他者の中で豊かさに変わるかも

 田辺さんは、祖父母の家に出た時以来、母にも妹にも会っていない。母が倒れたというのは祖母に聞いた。祖父母の家を出てからは祖父母にも会っていないので、その後祖父が亡くなったのは知っているが、祖母がどうなっているかは知らない。母親も妹も三郷の実家にいるかどうかもわからない。義理の父親と一緒にいるのだろうとは思う。母親はずっと前に一度会ったことがあり、その時もベッドの上にいたが、自分が家を出た時はICUに入っていたと聞いた。悪化したら亡くなったかもしれない。

 子ども時代の「傷」は田辺さんの奥にいまだ残っており、「合」で出会う人たちから受けた傷跡のように楽しく思い出すことはできない。いまだにうずく古傷を、田辺さんはかって世一緒に来て間もない頃の「こども☆夢☆未来フェスティバル」以来、再び語った。しかも、あの時よりもさらに詳しく。古傷を探り他者たちと共有しようと努めるたびに、田辺さんの語りは豊かになってゆく。

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