「障害者と高齢者」-橋本宅泊り介助からの課題整理(レジュメ)

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わら細工連続講座 レジュメ
障害者と高齢者―橋本宅泊り介助 約1年間から
                                     文責・山下 浩志

1.橋本宅泊り介助の概要 

 2018年3月8日から現在まで、ほぼ毎週木曜夜に、山下(76歳)が橋本克己画伯(60歳)への重度訪問介護従事者として、克己画伯が母ミツエさん(89歳)と二人暮らしの家に泊り介助で入り、翌朝克己さんの月刊わらじ地域配達に同行する。

 家族と同居しているところへ、また当初は本人からの希望も出ていなかった状況で介助を開始した。

 山下が毎回facebookで報告を発信している。山下自身もいわゆる後期高齢者になっており、その意味でも「障害者と高齢者」なのだが、今回強調したいのは、「たいへんだー」ということよりも、各々の「特性」をこえて人と人の暮らし合いとして考えてみようということ。

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2.橋本一家の歴史

  末尾の年表参照。「障害者と高齢者」とタイトルを付けたが、固有名詞をもった各々の人間がいて、それぞれの歴史を生きてきた。
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 己代司さん、ミツエさんはいとこで幼馴染だが、己代司さんは東京で工業学校を出て工場で働き、東京大空襲の中を母と逃げ回って生き延び、ミツエさんは足利で高等小学校をやめて織子奉公に出て「女工哀史」のような体験もくぐりぬけ、戦後二人は結婚し葛飾区青戸で克己さんを授かる。
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お定まりの大学病院通いのうちに真由美さんを授かり、己代司さんの父で木場の職人だった市太郎さんの住む越谷市南荻島の旧陸軍兵舎跡の長屋へ移り住む。克己さんは就学免除で近所の子ども達との関係も切れて、奥の部屋に閉じこもり、一見ささいと思えることでパニックになり暴れ、家族は途方に暮れる。
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真由美さんは近所の子ども達と学び育つが、高校になり友達関係が拡がり将来も考えた時、克己さんを含めて生きて行けるか迷う。そんな中、市のケースワーカー正木さんと嵐山コロニーを見学。また、日赤看護師の栗原さんから、正木さんらも参加しているわらじの会を紹介される。(以下、末尾の年表へ)
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3.家族と同居の生活に他人が介助に入ることの意味

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 年表にあるように、出会って間もなく、克己さんがパニックになった時、わらじの会で出会ったメンバーが家に行くということをくりかえし、橋本家も慣れていった。これは、つぐみ部屋の場合も同じ。制度も場もなかったから、互いの家に行くことが日常だった。

 初めは障害者家庭に他のメンバーが行く(迎え、緊急)ことが多かったが、徐々に障害のないメンバーの家庭等に障害者等が行く(集まり、泊り)なども行われた。それが後に耳鼻科黄色い部屋や生活ホームオエヴィス、べしみ、一年間ボランティアの基礎にもなった。
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 家族と同居の生活に他人が入ることは、ストレスやためらい、恥、不安を伴うが、それらはマイナス要素ばかりでなく、誰もが共に暮らしやすい街づくりのための試み、実験と考えられる。共に生きてきた家族の歴史、文化を街づくりに生かすためにこそ、制度や場を生かしたい。

 制度や場と家族の分業が固定化され、互いに干渉しあわないでビジネスライクにできることに慣れてしまったら本末転倒だと感じる。

 1)いくつかのエピソード

・制度利用に際して

 支援区分認定
  介護保険の「自立」は制度利用からの自立、総合支援法の意味
   「健常者」として生きてきた前半生によって、PPKを理想とし、他人様の世話になることを恥とみなす価値観が身についている。「保険制度」イコール自分が支払ってきたもので賄うという意識で制度利用の折り合い。それを超えた分は自己負担やむなしという意識。その「自立」意識が認知症が始まった時の個々人の対処法(コーピング)に反映され、周辺症状とみなされる「物盗られ妄想」や「弄便」などの発症につながる。

・重度訪問介護とは

・泊り介助開始直前、直後

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  当初はお互いに不安の極致。しかし、だんだんに。

・その後の展開
 当初は「後継者」に焦ったが、今はむしろ

 2)障害者、要介護高齢者自身が社会資源

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・克己さんに対するミツエさんのかかわり、及びミツエさんに対する克己画伯のかかわり、それぞれが長年にわたり鍛えられた技。介助に入る者として学ぶべきことが多い。制度利用のために二人が分けられた場合、貴重な社会資源が失われる。

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・克己さん、ミツエさん、それぞれの地域ネットワーク。

・上記を壊さずに地域で暮らし続けようとしたときに、既存の制度、機関の問題点やあるべき活用のしかたが明らかになって来る

・「親亡き後の施設」とか「親が元気なうちに自立」とか言われ、家族が障害者を抱え込むことが罪や悲惨ばかりのように語られるが、橋本家ならずともそれぞれの親やきょうだいはどんな重い障害をもった家族とも、たとえ専門知識などなくとも共に暮らし合ってきたパワーとノウハウを持っている。

裏返せば、生きるか死ぬかの限界まで、絶望も希望も愛憎も交えて共に生き、子殺し、親殺しの寸前にいる場合も多い。(障害者に限らず、野田の一家も同様では)

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そこでは家族として生を共にすることになった運命から逃れられないという原点があり、それに加えて無関係な他者から勝手な評価をされたくない、家族の面倒も見られない親と見下されたくない、行政が私的な領域まで立ち入るのは許せない等々の思いもひっくるめ、追い詰められてゆく構図もある。

また、寸前になってSOSが発せられても、関わり方が見出せないままになったことも少なからずおり、会の歴史に刻まれている(現にひきこもり続けている人や施設、病院にいる人々など)。

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そうではあるが、そこまでは家族もそして周りの他者たちも精一杯の試行錯誤をしてきたのだ。その挫折例も含めて、地域の共有財産、社会資源にしてゆくための試みが、家族からも場や制度からも必要。

・家族で抱え込むのではなく、また制度によりかかるのでもなく、他者をひきずりこみ、家の中に地域の風を通す。殺す前に他者に頼む。親もきょうだいも犠牲になる覚悟を捨て、少し距離を確保してそれぞれの道をみつけながら、「近しい他者」となる。

 3)家庭、個人は社会の縮図


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・「超高齢化社会」の縮図という意味。「超高齢化社会」と言った時にすでに「たいへんだ」というイメージが伴う。20世紀の末近くなってこのように叫ばれ、世紀が代わる過程で介護保険、障害者自立支援法、消費税(1999)が導入された。国は「騎馬戦社会から肩車社会へ」といったイメージ操作。

 しかし「君たちはどう生きるか」のコペル君が考えた通り、社会はさまざまな人々の暮らしがつながって成り立っているのであり、その暮らしが見えづらくなり、数字が前面に出てしまっている現状こそ問題。

 だからこそ、制度や場に預けてしまうのでなく、家庭、個人の暮らしを互いに伝え合いながらつながることが大事で、そのために制度や場を使いこなしてゆくことが問われている。
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・「個人」は「社会」を縮図として内にもつ(他者を通して自己に)ことで「個人」に⇒個人が障害や老い他の困難により社会的危機に対処する(コーピング、構造化)ための独自の「縮図」の重要性(画伯のスケジュール、結納品・食品買物、ミツエさんの畑…それらを含む橋本家) 

参考:えんの小島さんが語るゴミ屋敷問題/新井くんの突き落とし、由利子さん、学校、交通、住宅、職場)

 4)家庭、個人は文化遺産(たくさんの語り部を)

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・オラッチの生活は自立っつうのになってっかい

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・克己絵日記

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・地域と障害―しがらみを編み直す

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・クリスマスビデオ

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・月刊わらじ

3.わらじの会としての課題

・場からのラブコールだけでなく家庭・個人からのラブコールを(利用者・提供者関係にはまらずに)

・文化遺産の公開を(独り占めするとバチが当たる) 
    
・制度利用のすすめ(制度に利用されるのでなく)


参考:橋本一家とわらじの会の関係の年表

1978年秋 克己さん19歳。わらじの会例会に一家で初参加し、以後毎月参加。当時家でパニックになり暴れた時、会員と外に出ると落ち着く。
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1979年春 県立コロニー嵐山郷から入所決定通知が届くが、家族は「もう少し地域で頑張ってみよう」と泣きながら通知を破棄。この時から橋本宅手話会開始。近所からも参加。

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1979年夏 夏合宿(日立)の夜に討論会「なぜ施設なんですか」で両親も語る。
   秋 川柳小学校に1週間体験入学。
1981年  自立に向かってはばたく家準備会発足。手動チェーン式車いすで自力参加。父己代司さん山野草を育て提供。バザーに長屋、近隣が協力。
1984年  電車、バス1人乗りを覚え、世界がさらに広がる。月刊わらじ配達も。
1988年  妹真由美さん結婚し家を出る。
1990年  橋本宅離れに日本青年奉仕協会からわらじの会に派遣された1年間ボランティ
アが暮らし始める。月刊わらじを市役所ロビーで大量配布。(~1998年)

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1992年  克己さん街を通行中、突然移動交番に載せられ家に連れ戻される。わけがわからぬまま「大いなるまなざし」の支配を感じる。
1993年  克己さん交通事故で初めて(複雑)骨折し入院142日間。会員が交代で付き添うが何度か大パニックに。
1994年  克己さん高架化工事中の越谷駅で転倒。東武鉄道、役所含めて現場チェック。
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1995年  克己絵日記Ⅰを出版。取材ラッシュ。「渋滞の元凶だ」との抗議電話も。
1997年  克己さんの「2階に住みたい」という訴えで新宅を建て引っ越す。1年間ボランティアだけが長屋に残る。
1998年  父己代司さん入院。病状重く会員が付き添いローテーション。 
2001年  母ミツエさんの入院、手術、リハビリで、克己さんサバイバル生活。駅と自宅間などの介助体制確立。母退院後も送迎体制。談合開始。視力低下しホーム等から転落。

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2002年  視力低下のため毎日の自力での電車行は草加と春日部に限定。そこでも衝突等トラブル。長屋ついに解体。克己絵日記2出版。ロータリークラブのミーティングで絵日記、陶芸作品販売。
2005年  克己さん結婚相手を探し始める。

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2006年  克己さん埼身協のお見合いに参加。2人を指名。ほとんど視えなくなり外出の介助がますます必要に。結婚式予定を2010年にリセット。調理道具などの品を処分。

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2010年  母ミツエさん入院。克己さん3ケ月のサバイバル生活。
2013年  母ミツエさん膝の手術で入院。克己さん1ケ月のサバイバル生活。克己さん蜂窩織炎で入院1週間。

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2015年  克己さん、山下、水谷他と北海道へ3泊4日の旅。
2016年  克己さん、褥瘡で1ケ月入院。付き添いなしで大丈夫だった。
2017年  母ミツエさんの不安も受け、調理、入浴等の介助を増やすべく支援区分認定調査を受けるが、市のケースワーカーは2階にいる本人に会わずに帰る。ミツエさん米寿。

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2018年  新任の市のケースワーカーに克己さんと山下で会い、重度訪問介護の必要性を伝え、支援区分認定調査も本人の暮らしを十分把握して行う。相談支援事業所「らでん」、わら細工、社協と本人含め相談し、泊り介助を含む支援を進めることに。
2019年  会報配達先は徐々に拡大。
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