映画と地域共生を語るー悪・異端とされたものとの共生とは(田名部さん)

画像

はじめに
 次章以下で、田名部憲一さん(社福つぐみ共生会職員)が、4月3日世一緒すいごごカフェで「映画と地域共生」と題して行った語りを報告する。その前に、筆者の視点で全体を概観しておく。

1.映画とともに育ち山ドキュの青春 では、子ども時代のエログロ探求やヒーロー物TVの中で、「悪いもの、異端なものに興味をもった」という点に注目する。 

2.障害者と共に地域で生きる模索 では、障害者入所施設職員の体験、そして差別を見えなくした上で私生活を商品化する番組下請け会社の体験がベースがあること。
 
3.サービス幻想をくぐり地域で一緒に動くを確認 では、サービス幻想に囲まれた委託相談の環境の厳しさと、さまざまな人々と一緒に動くことの大切さの語りに注目したい。

筆者は、第2章の「共に地域で生きる」、第3章の「さまざまな人々と一緒に動く」は、第1章の「悪いもの、異端なもの」に寄せる心と通底することにより、独自の光を放ってくると考える。

旧優生保護法時代には、「悪いもの、異端なもの」を意味する「不良な子孫」の出生を予防するために強制不妊手術が行われたが、現在の母体保護法時代になって「新型出生前診断」の技術が普及し、強制ではなく自由意志的に「不良な胎児」の抹殺が拡大している。第3章の「さまざまな人々と一緒に動く」は、ともすれば「さまざまな支援者・機関の連携」にとどまりかねない。しかし、これを第2章の「共に地域で生きる」と同じく、時に「悪いもの、異端なもの」とされ、せいぜい支援の対象に据え置かれている障害者や病者自らの、時には周りを迷わせ惑わせもする生き方を含むせめぎあいとしてゆくことがキーポイントだ。

筆者も就労支援センター業務を受託して痛感したことだが、委託相談の枠組みの中では、障害者は「不利益を被っているもの」として位置づけられる半面で、「悪いもの、異端なもの」とされる要素は抑圧されやすい。ある意味「障害者ポルノ」と言われる状況と重なっている。

しかし、支援や行政の立場からすると「悪いもの、異端なもの」とされる当事者パワーが、時に支援や行政を揺るがし、そのありかたを変え、制度や地域を変える原動力にもなり、ついには正当な活動として認知されるようにもなったことを、筆者は過去何度も経験している。

筆者は、かって田名部さんがかがし座で開いた映画上映会で、アメリカのホラー映画がベトナム戦争後の反戦・不戦の思想の中から誕生したことを知った。ゾンビもゾンビ候補もせめぎあいながら共に生きること。筆者の橋本宅泊り介助や絵日記の旅、さらには世一緒での諸活動は、まさにその一つの試みということもできよう。田名部さんの今後の模索にも大いに期待したい。

画像


1.映画とともに育ち山ドキュの青春

1976年、青森県八戸市生まれ。父親が映画好きで、86年にビデオデッキを買い、ビデオを借りてきたり、TVを録画したり。父はよい映画が好きだが、中にたまにホラー映画も混じっており、小学生の時に観てトラウマになった。映画館に友達と行くと、友達はアクション物が観たいが、ぼくだけがゾンビ映画を観たい。そこでぼくのエログロ探求精神が開花したかな。TVではウルトラマンとかヒーロー物の中で、悪いもの、異端なものに興味を持った。

 高校の時は東京の美大に行きたいと思ったが落ちてしまい、18歳で家を出て東京へ。映画館に行きたかったこともある。小金井で独り暮らしして、都内の美術系の予備校に通ったが、翌年も落ちてしまった。当時、個人の作家による独自な表現を追求する実験映画に興味を持ち、その分野で世界的に有名な教授がいる山形の東北芸術工科大学を受けたら合格した。当時のぼくはとんがってて、入学したのは洋画コースなのに、洋画を批判しながらほとんど映像の学科に行ってた。そして、途中で情報デザインコースの映像学科に移った。

 山形は山形国際ドキュメンタリー映画祭が開催される土地で、その実行委員会にも参加した。この映画祭は、三里塚闘争の記録映画で有名な小川伸介さんたちが80年代前半から山形に来て、地元と一緒に立ち上げた。世界からも注目されていた映画祭。97年の時には、河瀨直美さんがまだ個人の映画(「につつまれて」1992)を作って出品していたころ。そういう人たちと交流したりした。また愛知県の知多半島の知的障害の本人たちと支援者、家族の活動を淡々と描いた「そっちやない こっちや コミュニティケアの道」という作品(柳澤壽男監督 1982)がすごく印象に残った。それがぼくのその後の人生のひとつのきっかけになったかと思う。いま思うと、中学校の時も「〇〇くんがいたなあ」というのはあるが、障害者として感じてはいなかったから。そんな大学時代を送ったが、後からわかったのは、ぼくは大学の中で「Poison(毒物)」と呼ばれていたという。

画像

2.障害者と共に地域で生きる模索

 「そっちやない こっちや」に刺激を受け、就活の時、茨城県の障害者施設の求人を見つけ、応募したら採用になった。ただ、古河市の通所施設に就職したはずが、八千代町の入所施設配属になっていた。入所者は50人もいるからしっちゃかめっちゃかで、いい環境とはいえなかった。言葉が苦手な人は行動で意思を示した。休み時間になると門の所へ行き、ずっと座っている。来たくて来たんじゃないよなと感じる。しゃべれる人は「ここがいちばんいい」と言うが、つきあってみるとやはり来たくてきたんじゃないことがわかる。

 自分が刑務所の職員のように思えてくる。1年半たち、疑問が大きくなった。当時、3週間に一度外泊する人が2,3人おり、その人を車に乗せたらすごく問題になった。バス停が施設から見えるところにあり、そのバス停に本人が現れないというので、大騒ぎになった。ぼくが車に乗せたと言ったらすごく怒られた。上司の「バスに乗るのがプログラムなんだ」という言葉には、違和感があった。始末書をいくつも書いた。これではもたないと思い、すったもんだの挙句退職した。

 その後、川口市にあるTVの朝のニュース番組の下請け会社に入った。上下関係が厳しく、理不尽な会社。事件が起きると、ピンポーンと訪問取材をする。そういう失礼なことがあたりまえだった。ある事件で「この人、障害持ってるからネタにならない」といった話もあった。日常的には楽しく観られる朝の番組の裏はには、こういう汚い大人がいる。ついてゆけず、またハローワーク通いを始めた。

 越谷のアパートに住んで仕事探しをしていて、パタパタという所の求人票に、「地域で共に」という言葉を見つけ、入所施設と反対だなと思い応募した。故吉田昌弘さんや現施設長の吉田久美子さん、現わらじの会会長の藤崎さんと会って、これは見ておきたいところだなと思った。行った時から肌に合った。障害持った人自身が地域で共に生きるということが、いまも職員として続けている原動力かなと思う。

 パタパタに入って3年目、わらじの会のさまざまな場や周りの人々が一緒になって地域を開拓してゆこうと、CIL総合協議会として専従職員を置くことになった。また、自治体から生活支援事業を受託し支援センター「苞」の運営が始まったり、CIL総合協議会の拠点としてかがし座ができたりした頃だった。それらに伴い人の動きも多かった。パタパタでずっとやってきた吉田弘一さんが築いた方針は、「他団体・他施設と一緒に動く」ということだとぼくは思っている。そんな中、ぼくもパタパタからべしみに異動した。通所授産施設だったべしみは、パタパタと違うところも多く、模索の日々が続いた。

画像

3.サービス幻想をくぐり地域で一緒に動くを確認

 べしみを数年やった頃、苞の職員が産休に入るため、2009年に苞に異動した。相談支援の研修をすでに受けていたし、自分自身新しいことにポジティブな性格なので抵抗はなかった。だが働き始めてみると、当初より相談量も増え、出なくてはならない会議も多く、大変だった。また、わらじの会の会議に出ても、苞でやりとりしたことをうまく伝えられない。やがて総合支援法が成立し、サービス利用計画も仕事に加わってきた。その後ベテランの職員が異動してきてくれて、その人が中心でやってくれたので心強かった。

 市の委託相談センターという立場上、いろいろ相談が入ってくるが、地域で大丈夫かなと思うような人が多かった。市から直で入ってくる相談も少なくなかった。そんな時にベテラン職員が退職し、相談の大変さが増した。自立支援協議会では一定の役割を担えたという思いはある。ただ、相談量の増加に対しては、もうどうにもできないというすごい圧迫感を感じ、もう福祉の現場から身を引こうかとまで追い詰められた。この状態のまま人生を捧げてどうするのかと思ってしまった。そんな実情をCILわらじ総合協議会などで訴え、諸先輩に相談し、異動でべしみに戻ることになった。
ふりかえって考えると、一般に「サービス」という言葉から「サービスを受ける」という思い込みにつながることが、すごく危ういとつくづく思う。地域の実態は、ヘルパー事業所だって限られているし、それぞれの事情があるので、必要に応じて提供されるかのような「サービス」という言葉の響きとはまったく違ってくる。それを錯覚させてしまう。現実には、ヘルパー、病院、地域の人たちと一緒にやることがすごく大事で、計画相談に関してもキャッチボールがすごく大事だなと思う。わらじの会に持ち帰っても、あちこちで一緒にやることがポイントだ。そういう意味での連携と「サービス」とは切り離せない。苞から帰ってきて痛感すること。

べしみに戻ってきて半年たった。自分の持ち味を生かそうと、「上映会」を始めた。なぜするのか?映画の数は星の数ほどあるが、TVも映画だと考えればさらに多く、中にはすごい深いものがある。かって大学にいたとき、その時々の話題や事件に関わるビデオを集めて上映会をやった。かがし座立ち上げの頃にも上映会をやった。テーマをその都度考えて、おすすめ映画の上映会をやった。今回べしみに戻ってからも2回やった。最初はウルトラマン。二度目は着物市にちなんで、着物怪人が出てくる映画などを上映した。この世一緒でも「世一緒 de キネマ」を吉田弘一さんがやっているが、たぶんマニアックな構成になっているのだろう。

今回こういう機会をもらって、原点が何かを考えるきっかけになった。山形国際ドキュメンタリー映画祭で出会った「そっちやない こっちや」の柳澤壽男監督は、もともとは職業として企業PRの映画なども作っていて、福祉の現場を見て、ちょっと変わっていった。是枝裕和監督は映画を撮りながら考えると言うが、ぼくは理解できてないところもあり、けっきょく模索中なんだと思う。原点をもっと自分の中でも追及していく必要があると思う。そこが上映会なのか、写真撮影なのか。初心を大事に歩き続ける。
画像

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック