すみわけ進む街で「共に学ぶ」の現在を語るー竹迫さん(3.6すいごごカフェ)

画像

困惑した中学校教員時代

 前回、養護学校(現在の特別支援学校)に勤めてそこから地域の学校で学ぶ活動に関わっていった話をしたが、その前に中学校で働いていた時のことは話してなかったので、今日はその話から始める。

 中学校に勤めたのは、福岡の大学を卒業して教員になった時。学生時代、教員を目指す者たちの集まりの中で、大学の近くの大きい被差別部落の人たちから「教員は差別者だ」と言われ、ショックを受けた。被差別部落の家庭環境は厳しく、家で教育する余裕もない。できない子、荒れる子のことを先生たちはわかろうとせず、「問題児」とみなしてしまう。そういう子供たちの側に立つべきだと言われた。

 そして、いざ自分が中学校に勤めるようになると、そんな余裕はない。自分の言うことをきかないと怒ってばかりいた。新任だと、若いし、体も小さいし、女だし、言うことだけはきつくてやることはやれないので、生徒に反抗され大変だった。でも、先輩の先生たちがフォローしてくれた。そこは今とちがう。

 そのころの印象としては、隣に養護学校があって障害のある子たちが通っていることは知っていたが、それだけだった。自分のクラスにはいじめられている子もいた。いじめられる子が逃げ込んできて、私がかばうと私にも反発してくる。あと、片マヒの生徒がいてその子も反発するので、私が怒ると、どんどん反発する。ほかの先生とはなかよくやっているのに、なぜと困惑した。

 あと、不登校の子もいた。家庭が厳しく、いじめがあったのかと思うが、その子の家に朝迎えに行くと、何回か出てくるがそのうち出てこなくなる。その頃はとにかく学校に来るようにという方針でやっていた。若いし一生懸命なので、余計なお世話をしていたのかもしれない。

 1975、6年ごろ、福岡では学校がすごく荒れていて、子どもが授業中に外へ出て帰ってこなかったり、給食にいなかったりして、言い合いになり、殴られたりもした。その時はまだ子どもが元気に暴れていた。女の子何人かのグループで殴られたことがあったが、最近その中の子から連絡があり、「あの時は申し訳なかった」と、毎年年賀状くれたりしている。

 そんな自分をふりかえると、いま先生たちに「受け止めてください」、「長い目で見てください」と言っているが、自分がそこにいたらできないかもしれないなとも思ったりする。

画像

養護学校教員となり地域で生きる障害者と出会う

 埼玉に来て初めて採用になったところが越谷養護学校。その前に福岡で、養護学校義務化反対の集会があり、地域の学校で障害のある子を受け止めている先生の話を聞いたりはしていた。養護学校に勤めるようになって感じたのは、障害者も高齢者も重度になると施設に入るしかないというのは寂しいことだなということ。いまこの学校にいる子どもたちが卒業後地域で生き続けられるにはどうしたらいいのかと思って、わらじの会に行ってみた。ちょうど野島さんが家出をして、一人暮らしを始めようとしていたころだった。野島さんがしばらく谷中耳鼻科の黄色い部屋で世話になっていた時期があり、そこで風呂介助に入ったりした。

 「地域で共に」というのは、当時は支援制度がないから、介助者も自分で探したし、ボランティアで介助に入るという状況だった。とにかく隣にいる人が手伝う。今だと、集会に出かけて行くときに介助者を頼んでゆくが、その頃は一人で出かけて来ると、そこで食事もできるし、泊めてもらうということもあった。参加した時はそこにいる人が手伝うという感じでやっていた。

ただ、時には疲れることもあって、集会に行くのやめようかなと思ったりもした。そのうち、介助をつけてくるようになり、頼まれなければ自分は手伝わないでいいから楽になった。そうしたら、今になって、制度利用が厳しくなったり、障害者も周りも高齢になってゆくということが出てきた。私も田口由利子さんの介助に入っているが、自分自身が高齢になってきた。制度は必要と思うが、障害者にしろ他の人にしろ、何かあれば近くの人が手伝うという普通の感覚が廃れている状況がある。自分ができる範囲でやっていきたいと考えている。

越谷養護学校に勤めていた頃、新坂さんたちをはじめ障害者たちが自分で介助者を探して、電話をかけまくっていた。そうやって「地域で共に」と動いている障害者たちとつきあっている中で、「学校も一緒がいいよね」と思った。そして、浦和の猪瀬さん一家とか、与野の武内さん一家とか、新座のキャベツの会とか、山下さんたちとかと一緒に動き始めた。それまでに埼玉県は障害児の就学にあたっては親子の意向を尊重するという確認をしていた。当時養護学校の中に「校内就学指導委員会」というところがあって、養護学校に見学・相談に来る子どもの判定をしていたが、「親子の意向を尊重」という確認を踏まえて、「校内就学相談委員会」としてあくまで相談に徹し、判定はすべきでないといった運動を県教育局に対して行ったりした。

そうした取り組みをしながら、小・中学校、そして高校も地域で共に、ということで関わっていった。

画像

共に学ぶことの大切さ

養護学校の中では、その日その日を楽しく過ごしている。いじめもないし、のんびりしている。子どもと関わるので楽しいが、そこには同世代の他の子どもたちがいない。親とか先生とか、常に介助者という立場の大人しかいない。その頃はよく考えず、ずーっと一日を過ごしていたが、いつも大人が介助者としてついていると、他の子どもたちとつきあえなくなる。その頃は考えてなかったが。寝たきりでミキサー食を食べる子などといると、ずっと一人でついているので、自分がその子といないと、自分が一人でいられなくなる。

子どもは養護学校での昼間の生活と家庭の生活とがあるが、自分が地域を歩いたり、家族がどこかへ連れて行ってくれない限り、閉ざされた生活。先生たちは、外の普通の生活がある。しかし、子どもたちは普通の外の世界がない。そこはちがうということを思っていた。

ダウン症の藤ヶ谷郁美さんの場合、何か気になることがあると固まって動かなくなる。郁美さんは普通学校で共に学んでいるが、たとえば体育があり教室で着替えて出ていく時、少し着替えると動かなくなる。ほかの子が手伝うが、その子も少し手伝うと「先に行くよ」と行ってしまう。そうするとまたほかの子が「じゃあ手伝うよ」と交代してやるが、その子もまた行ってしまう。最後に残った子が「行こうよ」と声をかけると、郁美さんはやおら立ち上がって出かけて行く。他の生徒たちそれぞれの互いにずれた動きとの関係で、郁美さんが状況をつかみとって動く。

大阪で定時制高校に学ぶ人工呼吸器使用の新居優太郎さんは、質問に対しまぶたを閉じたり開いたりして答える形で会話する。試験では別室で、問題を選択肢に直してホワイトボードに書いてもらい、イエス、ノーを瞬きで答えている。優太郎さんは科学部に入っているが、科学部の生徒たちは「優太郎さんのまばたきの研究」というテーマで、まばたきを計測して分析する研究にみんなで取り組んでいるという。

画像

どの子も地域の公立高校へ

埼玉で初めて猪瀬良太さんら知的障害の生徒たちが高校の門をたたいた時は、入試でも0点の子が高校に行って勉強するのかという疑問が、私の中にもあった。でも地元の中学に通っている子供と親が養護学校見学に来た時、私が中学校はいまのままで卒業したほうがいいと言ったら、別の教員が「どうせ高校に入れないんだから、今のうちから養護学校に来たほうがいい」と言ったので、だったら高校も行けるようにしないとと思った。理解のしかた、わかりかた、それを表に出す方法を、実は私たちのほうがわからないんだよねと思ってきた。養護学校で少しずつ時間をかけてやっているとできるようになることが確かにある。でも、それよりも周りの子と本人が一緒に過ごせるようになることのほうが大事だなと思い、やっぱり小、中、高と一緒に学ぶのが大事だなとと考えるようになった。

県の障害者施策推進協議会に傍聴に行くと、学校については、「力をつけるためにどういう指導をして、そのための個別支援計画をもっとしっかり作れ」とか、「専門の先生がやるべき」とか、その子の障害だけを見た話ばかりしている。だけどこの前リーダーの先生が「一般の子がどう変わるかが重要だ」と初めて言った。

やはり一緒に育たないとみんなの中に入っていけない。地域で共に学んできたダウン症の熊谷健くんは、誰の中にも入っていけるが、知り合いの特別支援学級や特別支援学校を卒業した子は、本人も入っていけないし、親も押し出していけない。周りも慣れてないから、どうしていいかわからない。一緒に過ごしてきていれば、障害も特別なことではなくなる。

 重度の障害をもち、地域の学校で共に学んだ吉井英樹くんの学校時代の友だちに彼の思い出を訊くと、「ああ、いたよ」と素っ気ない。特別なことという意識はなくて、いるのが自然なことだったから。そうなっていれば、やまゆり園のような事件もない。

先生たちも子どものころから地域で障害のある人たちに出会っていないと、学校で障害のある生徒を受け持った時、自分は一生懸命やっているがどうしたらいいかわからない、やはり専門的な教育を受けたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。一方、支援学校はどんどん大きくなっているので、支援学校の先生は子供の障害についてどうするかはわかっていても、障害のない子が一緒にいる中でどうしてゆくかについてはわからない。通常学級だと30人の生徒に対して1人の先生だが、支援学校は3人に1人なので、いくら専門性といっても、いろんな子が一緒にいるという状況はわかりようがない。通常学級でも障害の状況に応じた支援は必要だと思うが、他の子どもたちと共に学んだり、遊んだりする関係を支えることが大事で、支援がつくことで他の子どもたちから分けられてしまわないようにしなくてはいけない。

学校を卒業した後も、どう一緒に生きてゆくのか、すごく大事なこと。一緒に働くのも厳しい状況があるが、熊谷健くんは、地域の学校でもまれてきたから、トライアル雇用で働いた後再契約は断られてもあきらめず、またハローワークに毎週通い、何度目かには紹介を受ける。サポート校でがんばって取ったヘルパー資格を活かして高齢者の世話をしたいという思いを貫いて、あちこちの施設・病院でトライアル雇用を重ねている。

画像

質疑応答:

特別支援学校の中で分けられるとは

松丸:特別支援学校(養護学校)は、障害による区分があるんですか?

竹迫:肢体不自由とか知的障害とかに分けられている。さらに特別支援学校の中で、重度とか中度とかに分けられている。越谷養護学校の時は、最終的には4段階ぐらいに分けられていた。学習別に分けていても、ふだんは一緒に学校生活を送れるようにと主張したりもしたが、それもだんだん通らなくなった。三郷養護学校では、学年を4つに分けて、一つのクラスにいろんな子がいた。昔は教員が職員会議で検討したことが尊重されていたが、だんだん文科省の方針で分けるようになった。

分けられたいのではないか

沖山:お客さんはどう思ってるのかな?ちゃんと分けてもらったほうがいいと思ったりしていないのか?

ごしゃごしゃになってると、私の学ぶ権利が奪われていると思う人もいるのでは?

竹迫:支援学級から高等部に入ってくる子は、支援学級でやっている勉強の延長でやってほしいという要望がある。逆に寝たきりの子などは、先生が働きかけるしかないので、やはり一緒がいいと思っている。

沖山:高等部は一般学校にいた子がどんどん受けてくる。知的障害の子が普通高校に来られると先生が大変だが、特別支援学校なら受け止める態勢がある。受け入れる教員の立場で、ほんとうに一緒がいいと思うのか?
竹迫:特別支援学校高等部で職業指導をしているということでそういう子が増えていると思うが、特別支援学校では職業指導をするにしても個別に大人が関わってという形になるし、地域、職場に出てもそういう関係でないとやっていけなくなる。

沖山:でも自己肯定感は育つでしょ。殺伐としている普通高校に子どもを行かせるのは、自分が親だったら入れたくない。やはり目や手が届く特別支援学校に入れる。教員をやっていた立場でほんとうにそう思うのか?

竹迫:やはり不安はある。だけど、じゃあ守られた中で育っていれば、そういう所でしか生きていけないし。その自己肯定感というのは、別のところでていねいにやった所で育っているのだから。

沖山:自分が親だったら、殺伐とした学校に行かせたいと思いますか?私、いま公立高校のケースワーカーやってるけど。そういう現実も教えてあげないと。

画像

なぜしたくない介助をするのか

樋上:初めの方で竹迫さんが「介助しなくてよくなったから気が楽になった。だけど何かもの足りない」というような話をしていた。自分も最近は介助者はけっこう周りにいて、出先で介助者を集めないでいいから楽といえば楽になった。昔はぼくも新坂幸子さんの介助者探しの下請け仕事で、1週間くらい先の介助をお願いしたいという電話を1軒30円で一日10軒くらい、ばんばんやったりしていた。当時のわら細工事務局長の糸賀さんに「樋上くんはおばさんキラーだから、最終的になんとか介助者が見つかるんじゃないか」と拝み倒されて、1年ぐらいやっていた。ところで、竹迫さんとしては、介助をやりたくない気分はどういう気分なんですか?

竹迫:はい。昔はやっていて、その後やらなくなって、このごろまたやるようになりました。

樋上:おばさんにぼくが電話をして、「樋上くんが電話してきたんだから、じゃあ1回だけやってもいいわよ」と言われたのはどう思いますか?

竹迫:それは、お互いに知ってるからね。じゃあちょっと介助に行くか、でも自分の家でのんびりしてるほうが楽だしと思ったりもしながらだよね。

樋上:ぼくが言いたかったのは「知ってるから」というところです。

竹迫:田口さんもわらじの会の初めの時からずっといて、私は関わってなかったんだけど、お母さん、そしてお父さんも亡くなったっていうし、これまで生活してきた環境が変わると大変なこともあるし、そういうもろもろを知ってから介助に行くようになったという感じ。知ってると、単に介助に入るというのとはちょっとちがうところがある。

画像

差別もいじめもあるけれど

内野:うちの娘の場合は、小学校上がる前からあちこち行って。幼稚園の卒園ごろから、みんなと一緒のところへ行くんだと小学校へ行って。中学の時も、特殊がいいですよと言われながら、本人もその気になってるからみんなと一緒の学校に行きました。中学卒業を控え、養護学校を見学に行ったら、鍵もかかってるし雰囲気も違うので、「お母さん、やっぱりいやだよ」と本人が言いました。親は養護学校のほうがいいと思ったんですが、本人がどうしても友達が行く専門学校へ行きたいと。この専門学校は成績が1の子が多いです。同じような子も来ていましたし。あの頃見に行ったら、うちの子がほかの子と交流しているんです。よく見たら、テレホンカードを貸してるの。まあそれもいいかと。中学校ではいつも20点とか30点しか取れなかったんですが、専門学校では直前にやったのと同じものをテストに出すので、100点も取れたりして、よかったねと。うちの子は普通だと養護学校に行かなきゃいけない子だけど専門学校に受け入れてもらってるということで、運動会の時はえらい人が来るから休んでくださいと言われました。まあそれくらいはいいかなと休ませました。

里見:自分の親なんかは教育委員会に対して、「うちの子を養護学校に入れるんだったら、学校行かせない」と言ったんです。だから、学校時代は親のことを恨んでました。なんで自分をもっと楽に行けるところへ行かせてくれなかったのかと。でも、いま学校卒業して何十年たった今、生きていくっていいことばかりじゃないし、高校行ってもいじめもあるし、能力差もあるけど、そういうところを生き抜いてきたから、今こうしてやっていけるんだなと。いまは親のことを、それもひとつの過程だったなと思ってます。

沖山:養護学校の見学もしなかったんですか。

里見:見学もしませんでした。

画像

すみわけが進む社会で

松丸:試験的に地域の学校の中で能力別クラス編成をしたところ、勉強ができる子ほど下のクラスを選ぶといいます。学校は勉強の場でなく、塾に移っていて、学校は共同体になってくる。いまは特別支援学校に入れたい親が増えています。

竹迫:私が支援学校にいたときは、親たちが「ほんとうはここに入れたくなかった」と言っていたが、その後変わってきて、「もっと勉強を教えてほしい」などと言うようになった。そのことを行政は「親たちの理解が進んだ」と言うようになった。たしかに親の気持ちとしてそう言うのはわかるが、本人たちはどうなのか?地域の学校で、親がすごく不安に思っているのに、子どもはそこで楽しんでいたり、学んでいたりすることは、いつも実感している。

沖山:この社会はすみわけが進んでいる。昔埼玉で共同連の全国集会が開かれたとき、知的障害の参加者が大声で叫んで、話が聴き取れないので、手を挙げて「私の聴く権利はどう保障されるのか」と問いかけた。それについて、当時育成会の事務局長だった松友さんが、「場だけ共にしていても完全な交流にはなっていない」と評した。いま定員割れで無条件で入れる都立高校の現実は、すさまじい。

山下:埼玉で知的障害の生徒3人が初めて県立高校の門をたたいた時、最初に受け入れた定時制は、ほかの定時制で拒否された大番長たちが集まっていた。まさにすさまじい光景だった。しかし、どの生徒も切り捨てないという教職員の姿勢があり、障害のある生徒を受け入れない校長に3階から在校生が椅子を投げ落としたりということもあった。ダウン症で難聴の生徒も受け入れられ、彼は番長が煙草を探ると素早く火をつけた。

沖山:つきあい続ける人がいる場合はいいと思うが。

黒田:特別な学校に行っていると、社会に適応できない。

竹迫:分けられる側だけでなく、分けた側の不幸。地域の学校・高校にさまざまな子どもたちを人として受け止める力が弱くなっている。やっぱり、国とか県として、学校・高校を変えていかないと。

沖山:IQ95くらいでも特別支援学校に入ってきちゃってる生徒もいる。娑婆に出たら厳しいと思うから、早いうちからもまれたほうがいいというけど、現実はそういかないのでは?

山崎:うちの娘は泣くと誤嚥するので、泣かせないようにと気を配った。地域の保育所に入れたら、ほかの子どもに「かんたんなことはしてあげるよ」と言われた。5歳児になったら、世話してくれていた子がほかに興味があるほうへ行ってしまうので、怒ったりするようになった。悩んだ結果、養護学校に行かせた。うちの子は12年間そこで過ごしたが、よかったと思っている。地域の学校の教育の力が弱まっていることは痛感している。軽い知的障害と弱視があるいとこがいるが、通常学級で学んだ。番長に守られたという。弱い者が一緒にいることで、関係が変わるということもある。

黒田:もう少し一般の人と交わって働くとかして、何か言われても対応していかないと。

画像

わからない中 すったもんだしながら

樋上:樋上のじいちゃんは中学校の先生で、とっくに亡くなっているが、自分はじいちゃんの血をいちばん受け継いでいるのかなと思う。学校の先生に向いている人って、どういう人ですか?
竹迫:わからないです。

樋上:昔職業テストを受けたら、一番が学校の先生で、二番が探偵と言われたんですが。

竹迫:わからないです。向いていると思ってなってみたら、あまり子どもが好きじゃなかったという人もいるし。ほかに仕事がないからと思ってやってみたら、けっこう面白かったという人もいるし。

内野:うちの子は典型的な普通学級出た子ですねと言われたんですが、どういう意味でしょう。

竹迫:狭山の門坂豊さんは自閉が強い人で、小、中、高とみんなと一緒にやってきた中でけっこうトラブルがあったが、そういう時にその問題の中で本人もどうしたらいいか学んで行き、周りの子も一緒にすったもんだしながらやってきた。そういう蓄積が、今問題が起こった時に、今度も何とかなるだろうという姿勢でいられる足場になっている。

内野:うちの子もあきちゃうと「すみません。トイレ行っていいですか。」とか技を心得ている。TVの時代劇が前はだめだったのが、学校で歴史をやってからは、名前しか知らなくても大丈夫になった。

黒田:無駄なことはないですよね。

竹迫:門坂さんの場合も、高校で問題を起こしたら普通に停学を食らったり、そういうことを経験して社会の歩き方をつかんできた。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック