環太平洋が照らす現在を生きるーすいごごカフェ・大熊真弓さん

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出会いは「うんとこしょ」

生活クラブ生協越谷ブロック地域協議会とケアシステムわら細工、そしてNPO法人障害者の職場参加をすすめる会、仕事おこし懇談会inこしがやが連携して、うんとこしょー共に活きる街の介護人養成講座をスタートさせたのが、2017年4月。そして、講座そのものは終了したが、2018年度も、「うんとこしょ」は団体相互の行事等への乗り入れと、共同イベントとしての梅見会、折に触れた会議等として継続している。2019年度もこのペースで取り組まれる予定。

  その「うんとこしょ会議」を生活クラブ生協の越谷生活環内「ふら~り」で開くとき、いつも進行役を務め、地域協議会への報告書案をその日のうちに送ってくれる人が、2月27日のすいごごカフェのゲスト・大熊真弓さん。

  すいごごカフェの告知には次のように記した。「大学時代のニックネーム『おきょん』をメアドに。吉川に住み、生活クラブと教会活動をパワフルに進める現在の思いをたどり、故郷八丈島の生活文化に遡る。」

  山上たつひこ作「がきデカ」の名セリフ「八丈島のきょん」は、実際には同島植物公園に飼われているが、野生化して増えているのは伊豆大島や千葉県のようだ。私自身その程度の認識しかないまま告知文を作っていた。

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集団自決、追放―戦争から生還した親たち

  大熊さんは語り始める。「私が育った環境―それで私ができているんだなと思う。両親は戦争を潜り抜けてきた世代。父は親が八丈島からサイパンに移民し、そこで生まれた。父は1944年防空壕で米軍の射撃を受け、隣にいた母親がうっと言って即死していた。山の中を逃げ回り、自生していたサトウキビをかじって命をつないだ。そのとき19歳。米軍に捕まり収容されて、作業をさせられた。」

サイパンや小笠原諸島を内地防衛のための「絶対国防圏」として確保しようとした軍部は、「米軍に捕まったら耳や鼻をそぎ落とされ、女の人は辱めを受ける」と住民たちにも教育していた。

それを信じた住民たちは次々と崖から身を投げ、海が真っ赤に染まったといい、「バンザイクリフ」、「スーサイドクリフ」と名付けられた場所がある。大熊さんによれば、父は「米軍に捕まってよかった」と言っていたという。「収容所では独身で若い者だけチームに入れられ、昼間寝て夜働かされた。その後、昼間の作業に回されたが、もっと暑くて辛かったと言っていた。」という。この収容所生活は、1年半で日本の敗戦により終わる。その後、父は八丈島へ来た。亡くなった母以外の家族はどうだったのか。

「母は小笠原の母島で生まれ、1944年長野県に疎開させられた。」サイパンは間に合わなかったが、小笠原では住民たちは戦闘の前に強制的に、すべての財産を放棄させられ、内地に追いやられた。文献によれば、青壮年男子は疎開の対象からはずされ、軍務に徴用されたとある。お母さんの家族がどう生きたのか、今回は聞き漏らした。
小笠原の施政権が返還されたのは1968年だった。内地にとどまらされていた住民たちがやっと父島、母島に住むことを許された。大熊さんには4歳上の兄がいるそうなので、八丈島の父のもとへ嫁いできたのはそれより前だろうか。だとすれば、長野県から直接八丈島に来たことになる。

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ひとびとをつないできた海

そもそも小笠原諸島は、1830年ごろから捕鯨船の寄港地・交易地として、ヨーロッパ、北米、ハワイ島から移住した人々が生活を営んでいた。そこへ1875年、明治政府が軍艦・明治丸を派遣し、1882年までに全員を日本帝国臣民として帰化させたのだという。(石原俊 「小笠原―硫黄島から日本を眺める -移動民から帝国臣民、そして難民へー」 2016)

またサイパンを含む北マリアナ諸島は、紀元前16世紀頃、古代チャモロ人が移住したとされ、古い歴史がある。16世紀からスペイン統治下となり、19世紀末ドイツ領となるが、第一次大戦で日本が占領。1920年に南洋庁サイパン支庁が置かれ移民が活発化した。1943年の人口は、日本人(台湾人、朝鮮人含む)29,348人、チャモロ人他3,937人と発表されている。1947年からアメリカ合衆国の自治領となり、2009年合衆国の一部となる。

故網野善彦は「『島国日本』とい見方の持つ一面性、虚構の側面を、われわれは徹底的に崩す必要がある。」と述べた(網野善彦 「日本論の視座―列島の社会と国家」(小学館ライブラリー 1995))。

また、「われわれはどうも西日本と朝鮮のつながりのほうに目が行きがちですが、これ自体、畿内政権・大和朝廷史観になってるところがあるわけで、北方の沿海州やシベリアとのつながりにも目を向ける必要があると思うのですが、それだけでなくポリネシアや、東南アジアとの太平洋を通じてのつながりも無視してはならないでしょう。」、

「伊豆七島の方へのつながりだって、海の道はきびしいとはいえ、縄文時代にあったことが、どうしてそれ以後にありえないのか。」、「なにか、国家を最初から大変強力なものとみる見方があって、律令国家ができると、とたんに『島国』になって周辺から孤立したように描かれる。ここに大問題があるんだと思いますよ。」と力を込めて述べている。(網野善彦他 「列島文化再考」(ちくま学芸文庫 2015)

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ネイティブ、ジェンダーとの軋みを生きる

大熊さんの両親は、八丈語をかろうじて聞き取れるが、話すことはできない。学校の先生も標準語だった。そこで育った大熊さんは、友達の家のお母さん、おじいちゃんの言ってることがわからない。「お前どこの子だ?」と言われる。「中之郷の笹本の娘」と言う。「中之郷には笹本はいねえ」と言われる。たしかに笹本は隣の地区に多く、中之郷には一軒だけだった。「私は八丈島で生まれ育っているのに、なんでこのおじいちゃんは認めてくれない?私ってどこの人?」とショックを受けたという。まさに「国境をはずして考える」ことが問われていた。「友達はみな八丈島の文化の中で育っていた。お葬式の手順や料理も細かくきまっていて、父母はそこにつきあっていたが、自分は一切出席させられることがなかったので、知らないで育った。」

八丈語がわからずとも子ども同士の世界を拡げていった大熊さんだが、小1で初めて同級生の女の子の家に遊びに行くとき、母がこう言った。「『ゆきちゃんはね、女の子だから。ゆきちゃんは優しくしなきゃいけないんだよ。ゆきちゃんは送り迎えしてあげなきゃいけないんだよ。』今でも忘れない。ゆきちゃんはお人形遊びをしていたが、私は外で木登りしていた。」

八丈島の儀式に娘を出さなかった両親の思いをたぐりながら、大熊さんは共同体の性別役割分業をこえて育ってきた。その結果、「今でも女の人には気を遣う。かえって男性がいっぱいいるほうが楽。」とも言う。

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みんな一緒の学校で


大熊さんは島で唯一の都立八丈高校へ進んだ。「選ぶという感覚が理解できなかった。男の子で勉強ができる子は都立秋川高校という全寮制の高校に進んだ。八丈島は女の人が多いので、男がさらに少なくなる。その代わりきっぷのいいお姉さんがたくさんいた。お兄ちゃんには『100人定員で90人応募だから、0点でない限りみんな合格するんだよ』と言われた。高校の先生はみな東京から来る。先生が『偏差値ランキングって知ってるか』、『八丈高校はどこに位置するか?』と訊く。答えは『ランク外』だと。」

八丈島の学校はいろんな子がいて楽しかったと大熊さんは言う。「中学になった時、隣の小学校から来た女の子が小柄でちょっとちがうなと思った。あの子は小さいとき熱を出して…と言われた。ほかの子が数学をやっているとき、ノリヨちゃんは別プリントで九九をやっていた。小学校から一緒の子がいるから、誰かがサポートして一緒に卒業した。それで困ったことはなかったから。でも高校にはノリヨちゃんは来なかった。」という。でも、そんな風にあたりまえに一緒にいた記憶があり、『うんとこしょ』で日吉さんに出会ったとき、『日吉さん、電動車いす乗せて』とすんなり言えた。」と語る。

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そして、いま、父母と埼玉で

年月がたち、大熊さんが埼玉に来て、生活クラブの「ふら~り」で司会をしているとき、携帯が鳴った。八丈島の牧師からだった。「お母さんが倒れました。これからヘリで飛ぶけど、都立広尾病院まで行けますか?私が一緒に乗りますが、家にいる認知症のお父さんをどうしたらいいでしょうか?」と。急遽ケアマネさんに電話して父も一緒にヘリに乗せてもらった。あとから八丈島の同級生が「そのくらいでなけりゃ、お母さん、あなたのところに行かなかったんじゃない。」と言われた。退院後、父母の住まいを吉川団地に確保した。母は数ケ月で帰ると言ったが、「一年はいてちょうだい」と言うとしかたがないと。そのうちに父の状態が悪くなり、あきらめた。母に「旅行で八丈島に行かない?」と訊くが、「旅行で八丈なんか行きたくない」と言われる。

 まだ17、8歳の娘さんが「お母さん、私、子ども産まないから。産んだらお金かかるじゃない。」と言う現実がある。この閉塞感はまずいと思う。「お母さんが元気なうちに子ども産んだら、手伝うから。」と言った。父母を私が見ている中で、やれることを私がしていかないとと思う。私は自分がこれをしたいという感じで生きてきたが、自分が何気なく選んできたものが、10年たって『ああ、あの時これやってきたから、いまできる』という感じで、ドミノ倒し的にうまくいくことがある。四の五の言わずにその時示されたことをやって、だめになったら考えればいいと思うようになった。」

「母は耳が遠く、脳出血の後遺症でふらつきがあるが座っていれば大丈夫。今でも針と糸を渡すと、一発で糸が通る。裁縫ができる。ありがとうと言われるとうれしい。そういう母ができることを、吉川の地域でできればと思う。父は中程度の認知症で、デイサービスで風呂に入るが、脱いだ下着を着てきちゃう。緑内障があり、日中寝ている時間が増えている。100m歩くと苦しくなる。」

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はるかな空を感じさせた語り

そんな父母が青春時代、おおぜいの人々と共に死線を彷徨した、その果てに生を受けた自分。だからこそ、崩壊しつつある世界に踏みとどまり、他者と共に生き抜く関係を耕すことができるのではないかと考える大熊さん。「感じたことはあまり迷わないでやっていいんじゃん、そう思って生きています。」

大熊さんは「山下さんが地域を耕すって言った言葉が気になった」と言う。「耕すってどういうことかな」と。いろんな人のことでも、自分のことでも、常に耕してないと、上が固いままになっちゃうのかなと。」そして、「永遠の神の愛はわれらの出会いの中で」という聖書の言葉を引いた。

吉川にやってきた小さな教会との出会いも、生活クラブや他生協、市民活動との出会いも、自分が何気なく選んできたものが、10年たって、あああの時これやってたから、今これができるんだと思うことがよくある。

 大熊さんの話を聞きながら、橋本画伯の絵を思う。彼の絵の中にはいつも自分が描かれている。大熊さんの話も自分の目線ではなく、大空を舞う鳥や天空にまたたく星から自分を含めた生きとし生けるものを俯瞰している。

 いま生きているこの時、この場所は、父や母の人生を通して、環太平洋の人と自然に見守られ、そこから照らし返されたいま・ここを私たちは生きている。はるかな空を感じさせてくれた大熊さんの語りだった。

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