雇用と福祉の谷間のロング アンド ワインディングロードで-上田靖さん

 
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 2月20日のすいごごカフェはせんげん台の就労移行支援「世一緒」で。毎月一度は就労移行・高瀬さんの企画立案で行うことにしており、今日のゲストは上田靖さん。この日は第3週にあたっていたため、すいごごカフェの前に、仕事おこし懇談会inこしがやとの連携による「Lunch Cafe どっこいしょ」恒例のキッチンとまとのカレー共食もせんげん台「世一緒」で開催された。

 ところで上田さんだが、今日は障害福祉サービス事業所MINTのピアサポーターとして登場いただいた。「私のリカバリー・ストーリーといってはなんだけど、いろいろ生きてきたことをお話しします。」と述べて語り始めた。筆者自身は上田さんに30数年前に出会い、一緒に動いたことがあり、その後も職場参加をすすめる会の集会などで時々会っている。だが、今日のようにまとまった話を聞くのは初めて。

  予めピアサポーターということで「支援するーされる」と暫定的にタイトルをつけて告知したが、あらためてその語りをまとめるにあたって、「雇用と福祉の谷間のロング&ワインディングロードで」というフレーズが浮かんできた。いわずと知れたビートルズの名曲の名に「雇用と福祉の谷間」をかぶせ。

  上田さんはてんかん発作を理由に中学時代いじめられた。が同じ発作を持つ友人ができ、一緒にブラスバンドに入ってパーカッションをやった。それは今でも盆踊りで太鼓を頼まれるなど、地域での役割にもつながっている。

  上田さんのてんかん発作は、精神運動発作で、一時的に意識がなくなりうろうろ動き回るタイプ。バイクや車の免許はだめだと親に言われ、大学卒業後も就職できず、1年生の福祉系専門学校に行って社会福祉主事の任用資格を取り、障害者施設で働こうと考えた。施設実習では普通に点数をもらえるが、就職となると「介護中に発作が起こったら危険」、「車の免許がなければ」と言われてどこも落とされた。

それで、専門学校の先生の紹介でファミレスで働き始めたが、数ケ月後発作が起きてしまったら、社員からパートに格下げにされ、店からケーキ工場に異動。給料も月給から時給にされ、健康保険からも外された。仕事内容は皿洗いとか、焼き菓子を作った後の鉄板を削る作業だけになった。これが障害者の働かせ方か、ちくしょうと思い、数ケ月後に辞めた。これが雇用と福祉の谷間の入り口だった。

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上田さんがわらじの会に毎日のように顔を出していたのは、その後の1987年から数年間のこと。当時の月刊わらじに上田さんが書いている。

「私自身バザーの売り場でお客様の立場ではなく、売る方の立場になったことは、学生時代の文化祭をぬかして、このような公的場所でのバザー、しかも『障害者団体』の一員として参加してやったことは初めてだったので、いい体験になったと思う。」

そのほか、小学生たちと一緒に売り場を担当した時の楽しさや、個々の品物は安くとも全体としての売り上げは50万になったこと、そこに至るまでの準備段階が当日よりずっと大変だったことなどが、上田さんのセンサーに感知されている。

でもその後の上田さんのことは、ぼんやりとしか知らなかった。今日の語りで初めて知ったことが多い。

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この頃から、上田さんは地元杉戸町の親の会の行事等の手伝いも始める。雇用と福祉の谷間に分け入ってゆく。そして、ようやく親たちが開設した知的障害者施設の指導員になった。が、ここでも発作のことで馬鹿にされたり、「障害があるなら利用者になったほうがいいんじゃないか」と言われたりした。この時がいちばん大変だったとふりかえる。

ロング&ワインディングロードは続く。90年代に入り、バブルが崩壊し、雇用も福祉も全体的な見直しが問われてゆく。その過渡期にあって、さまざまな障害者自身やそこに関わる人々が、あちこちで独創的な試みを始めてゆく。県庁内福祉の店・アンテナショップかっぽもそうだし、越谷市立病院組合事務所でわらじの会の知的障害者が支援を得て実習を長期に行ったこと、職場参加をすすめる会の母体ができたのもこうした時期だった。

この時期に、上田さんはさいたまコープ(現コープみらい)の関連で、いくつかの働き方を経験している。最初が精神障害者を中心とした生協の下請け会社で、自分と同じ障害をもった人もいた。その次に、労協事業団に就職して8年間働いた、宅配の商品のセットなどで、ここでは日勤だけでなく準夜、深夜すべてを経験した。さらに、同じ生協の物流センターで社会福祉法人の下で知的障害者たちを支援しながら一緒にシッパーを拭く等の仕事をした。休みの日にボウリングに一緒に行ったり、楽しくやれていたが、時に他のスタッフから「ケース会議には参加しなくていい」などの差別的に感じられる発言を受けたりしたこともあるという。

とはいえ、これらの働き方は、いずれも「雇用と福祉の谷間」からの出口を探る当時の先端的な試みだったと思う。

「雇用と福祉の谷間」というと、企業が求める労働能力の比較的高い障害者と限られた福祉施設に措置される比較的障害の重い人とのはざまで、生きてゆくために親方や自営業のところに住み込みで下働きしたり、農家の手伝い等で働いたり、働けなかったりしながら生きるイメージがあるかもしれない。

しかし、そうした意味だけではなく、雇用の目安となる「雇用率」そのものが職安に求職登録を行っていない多数の障害者の存在を度外視していたり、「福祉的就労」と呼ばれる作業所等に通う人々の半数近くが一般就労を希望していながら日々の活動のサイクルに入るとそこから出てゆく回路が見いだせないという現実、その総体が「谷間」を形作ってきた。

そうした「谷間」を意識した取り組みが、90年代を通じて、地域でも、自治体でも、国レベルでも試みられてきた。上田さんの体験はその流れと呼応する。
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そして、雇用と福祉の谷間のロング&ワインディングロードは21世紀に入る。

2004年9月、「障害のある人の『働きたい』を応援する共働宣言~共に働き・共に生きる社会づくりを目指して~」(障害者の就労支援に関する有識者懇話会)が発表された。谷間が終わり、ついに平野にたどり着いたかと思われる内容だった。

その風の中で、埼玉県は市町村就労支援事業を実施し、越谷市は当会との協議の中で障害者地域適応支援事業を実施し、さらにピアサポートによる就労支援を含む同市障害者就労支援センターの運営を当会に委ねることになる。

とはいえ、国が2006年から実施した障害者自立支援法は、それまで授産と更生に二分されてきた施設体系を、就労系と介護系とし、就労系を就労移行支援、就労継続支援A型、就労継続支援B型として機能分化した上で、営利法人の参入にGOサインを出した。こうした流れと雇用促進法の改正により、障害者雇用は大きく進んだとされる。

が、その内実はこれまで非開示で就労してきた精神障害者等が障害者枠に入ってきたためであり、その半面で福祉施設利用者がなおも急増したこと、福祉施設から一般就労への経路が就労移行支援に限定され、それ以外の施設からの経路がさらに狭まってきたことが特徴的である。

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現在57才になる上田さんは、2004年43歳当時から現在まで、基本的に「じりつ」グループとの関わりの中で、さらに曲がりくねった道を歩んできた。保健所の紹介でふれんだむに相談に行き、社会適応訓練で老健施設で介護補助の仕事をしたこともある。その後グループホームに入居し、小規模作業所へ、さらに就労継続B型事業所へ。グループホームは4年半過ごし、夕食づくりや掃除、買物、役所の手続きなどを身に着けた。

アパート暮らしに移行し、就労移行支援を利用し、社協の実習や不動産会社のアパートの除草の仕事なども経験した。その後、現在のMINTへ。午前中はMINTで作っている弁当の中に入っているアンケートを入力して集計する仕事をしている。午後はMINTから派遣される形で地活へ行き、ピアサポートをしている。

ピアサポートでは、書記や司会、日報記入などをやる。全体ミーティングの時に主題になっていることをまとめて話したりするのだが、うまくまとめられずに他のメンバーから突っ込まれることもある。「お前ピアサポートだろ!」と言われたりする。

当初、今日の話の落としどころは、ピアサポートと本人も考えていたような雰囲気だった。まとめでもそのような話しぶりだった。しかし、終わってみれば、そこに収れんさせてしまうのはちがう感じがして、標題をあらためて工夫した。

ピアサポートについては、「それで金もらってんだろ」とつっこまれても、自分の役割はそこにあると踏みとどまる上田さんがおり、その上田さんに対してつっこんでもいいんだと思える関係が育っていることの背景には、上田さんのたどってきたロング&ワインディングロードの旅路が続いているんだなと強く思う。

上田さん自身が出会ってきた無数の他者の集合体としてそこにあることの重さを感じるた。
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(写真:直井利雪)

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