共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 排除する社会でー転学・転職経て「共に」を探る―野村さんトーク

<<   作成日時 : 2019/01/27 22:24   >>

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 1月9日のすいごごカフェ。ゲストは就労移行支援「世一緒」の利用者である野村康晴さん。実は筆者が越谷市障害者就労支援センター所長をしていた時、彼と出会い、彼の出身校である越谷特別支援学校から頼まれた「就労支援アドバイザー」の事業として、同校高等部の生徒たちに彼の体験談を語ってもらったことがあった。それをきっかけとして、職場での悩み事にも微力ながらつきあった。

 そんな彼は、肢体不自由の特別支援学校出身者の中では、いわば「エリート」とみなされる企業就労を続けてきたこれまでの人生にいったん休止符を挟み、新たな就労への道を歩みだすにあたり、初めて来し方をじっくりとふりかえる時間をもったといえる。今回のすいごごカフェに向けて、年末年始の休みの間に、深々と息を吐くように書き綴った文章が以下。筆者とのくりかえしのメールやりとりを経て、推敲した。すいごごカフェで、これを元に語った。

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すいごごカフェ
                   
小売業界で働いたら
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<小学校から玩具大手ストアで働くまで>

小学校は、大沢北小(1995年卒業)で、中学は、(1995年4月)新栄中学校に入学しました。しかし、障害を理由に、くつを隠されたり、まねされたりといういじめがありました。さらに、今回母に聞いてみて初めて知った事実がありました。 中学校での授業をするときに、普通に、書きながらノートを取っていましたが、なかなかノートを取るのが難しく、ノート代わりにPCを使って授業を受けていました。しかし、担任の先生から、親が呼ばれ、これ以上他の人と同じように授業をすることが難しいと言われ、担任の先生より、転校を勧められ、1996年1月より越谷養護学校中学部に転校しました。

その後、越谷養護学校の高等部(高校)に1998年4月に入学、その後、越谷養護学校の高等部を2000年3月に卒業しました。
そして、2000年8月に所沢にある国立身体障害者リハビリテーションセンターに入所しました。
高等部3年生の時の進路指導の先生は、宇都木先生でした。実は、所沢にある、国立身体障害者リハビリテーションセンターに2000年5月に入所する予定でいましたが、自分が、2000年4月入所より自動車の免許を取得の為に自動車教習所に通っていたため、2000年8月に入所になりました。しかし、教習所に行っていましたが、効果測定が合格できず、免許取得を断念し、国立身体障害者リハビリテーションセンターに入所しました。

2000年8月に入所し、職業リハビリテーションの職業評価では、落ちまして、国立身体リハビリテーションセンターの第一ワークで、機械の仕事をしていました。

しかし、2001年3月に、母が病気になり、国立身体障害者リハビリテーションセンターを退所しました。その後、自宅で一人でいる時間が多くなり、今後の仕事など親と相談をした結果。一回、作業所に通ってみてはどうと言われ、2003年4月に、鴻沼福祉会そめや共同作業に入所しました。

そめや共同作業作業所に決めたのは、中学時代からノート代わりにPCを使って授業を受けていたのと、中学の部活で、PC部で活動をしていたので、PCを使った仕事に就きたいという自分の中で先入観があったので、そめや共同作業に入所しました。

入所当時は、PCで入力作業をしておりました。作業所に通っている時に、2004年4月、作業所の中で、委託支援というかたちで工賃5万円を目標に、上尾のヤマト運送の倉庫をかりてキューサイの青汁の箱を作る作業をしていました。
授産施設の本部が、鴻沼福祉会というところで、籍は、そめや共同作業において行いました。この時に、初めてデスクワークより立ち仕事の方が自分に向いていると思いました。

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一年半ぐらい通って作業をしていましたが、その時に、障害者自立支援法という法案が成立になり、今後、食費や交通費などが実費扱いになると言う話があったので、その時に、このままでは、いけないと思い、自分でハローワークで求人をみました。その時に、玩具大手ストアA社の障害者求人を見つけて面接を受け、2006年7月から越谷店で働きはじめました。

一般就労は初めてだったので、委託支援の時の職員が、ジョブコーチの資格がありその時の職員と障害者職業センターの職員に最初来て頂き、仕事をすることができました。
就労支援事業所でもあるように、職場定着支援で定期的に職場巡回訪問をしていただきました。

働いているうちに、残業が増え、12月のクリスマスシーズンは、朝9時から夜9時頃まで仕事をしていました。ちょうど、その時期に、任天堂の『Wii』や『DS』などでとても忙しかったので、残業しながら仕事をしておりました。働いていくにつれ、会社の上司が、異動になり、そのため、仕事内容が変わり残業をする日々が多くなりました。しかし、2011年の震災の時に、「会社の当初の仕事の時間が9時から4時で、今後、残業ができないから、それまでに仕事を終わらせてくれ」と言われ、体と心がアップアップになりました。

その時に、ジョブコーチで、障害者職業センターの職員に相談をしましたが、障害者職業センターの職員が定年退職になり相談する場所がなくA社を退社しました。
2011年7月、退社をしたものの、今後の仕事をハローワークで探していましたが、今後の相談などをどうすれば良いのかわからず、ハローワークの職員に相談をしました。

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<世一緒との出会いからドラッグ大手チエーン退社>

 2011年8月より、ハローワークの3階に就労支援センターがあることを知り、そこで初めて山下さんや沖山さんに相談をし、今後の仕事を相談しました。
その後、就労支援センターで、ハローワークの使い方や、履歴書の書き方や求人の見方などの職場参加実習に、参加をし、(2011年10月)の越谷で障害者合同面接会があり、その求人を見ていたら。そこに某中堅ドラッグチェーンB社の求人があったので、世一緒の職員に相談をし、面接をしました。その結果、2011年11月より働き始めました。

しかし、2016年10月に大手ドラッグチェーンC社に吸収合併になって仕事の量が減り、このままいてもしょうがないなと感じてしまいました。
ドラッグストアの職場の人間関係は、女性が多く、以前の玩具大手ストアの時は、仕事を与えて頂けたのですが、ここは、自分で仕事を見つけるという全く反対な仕事でした。
C社では、賞味期限チェックや商品の前出しをしていましたが、自分は、緊張で手が震え、商品を少し、潰してしまったり、賞味期限チェックのときも商品が少し潰してしまったこともあり、職場のパートの人から、「やらなくていいよ」と言われ、結局、掃除を中心に仕事をしていましたが、午前中で終わってしまい、パートさんから、「何のために来てるの」と言われたことがありました。

上司に相談をしようと思いましたが、C社も人件費削減なのか、上司も2店舗ももっていたためなかなか話をする機会がなく、親にも相談もできず。結局、自分の中でしまい込んでしまい。どうすればよいのかパニックに陥っていました。

以前、B社の時に相談にのって頂いた世一緒の山下さんに、電話で相談をし、その後、世一緒で改めて話をすることになりました。しかし。結局、退社という選択をしました。

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<現在、越谷世一緒 そして、せんげん台「世一緒」>

 2018年9月に、C社を退職しまして、その後、世一緒の山下さんと連絡を取り、今後の仕事のことについて相談をしておりました。その相談をしていた時に、「せんげん台の世一緒に来て、今後の仕事を探してみては?」と言われ、現在に至ります。
2018年10月、せんげん台世一緒と越谷世一緒に通うようになりました。
現在、入ったばかりで、日は浅いですが、今まで全くといっていいほど、自分の障害と向き合っていなかったことに気付き始めています。

これまで接客業を中心に仕事をしていたため、自分の身体より、お客様や仕事のことを優先し仕事をしていました。
今回、就労支援事業所で、訓練をしていた時に、自分の身体(緊張)などを考えながら、作業に取り組むと言う経験があり、「自分の障害と向き合ってこなかった」と改めて思いました。
自分でも、なさけない話、自分の身体と向き合いながら、作業をしているのは初めてなので、少し戸惑っている自分がいます。

 最後になりますが、いろいろと話の流れが整理つかず、聞き苦しい点が多かったと思いますがお許しください。
本日は、聞いてくださりまことにありがとうございました。


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 野村さんは、年末から正月休みの間に、これまでの人生をしっかりとまとめ、メールで筆者に送ってきた。返信でわからない箇所を問うと、折り返し修正した文章を送って来る。そういう作業をくりかえして、正月休み明けのすいごごカフェに臨んだ。これほど準備作業をしたゲストは初めてだ。

 野村さんが地元の中学校から特別支援学校に転学した時期は、バブル崩壊後のリストラが荒れ狂い、就職氷河期といわれた時代で、派遣法の改正等を機に非正規労働者が急増し、先行きの見通しが立たない中、これまでは希望者が少なかった特別支援学校や特別支援学級で障害に応じた支援を受けさせたいと考える親たちが増え始めた時期に一致する。

 また、野村さんが卒業して、国リハや作業所を経て、企業就労してゆく過程は、福祉制度が「措置から契約へ」と大きく転換し、介護保険を機に福祉の市場化が促進され、「改革のグランドデザイン」と銘打って多様な就労の支援が謳われ、雇用促進法の改正や障害者自立支援法へと大きく舵が切られていった時期に対応している。

 肢体不自由特別支援学校では各年度に1人いるかいないかだった企業就労をした野村さんは、だからこそ時代の波の先端で翻弄されながら必死で働き、必死で生きながら天空の星を見つめて現在の自分の位置を探り続けてきたのだろう。

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 野村さんの語りに対して、企業就労の経験が長かった日吉さんが発言した。自分は養護学校小学部を卒業した後、地域の中学校へ移ったが、野村さんの場合はその逆。でも、二人とも、通常学級も特別な学校も経験しているという点では、それもよかったといえるのではないかと。野村さんはそうですねと応じた。

 筆者は、社会が障害のある人々の「支援」を理由として特別な場に分け隔ててきたことが、結果として多くの人々自身が「障害」を「我が事」として感じ取れなくなり、高齢になってマヒや記憶障害になったら施設に入るしかないといった社会をもたらしてきたと考える。そして、日吉さんも、筆者と同意見だ。

 だが、分け隔てられて生きてきた体験も含め、さまざまな他者と共に生きる社会を作ってゆく資材として活かそうという意味では、「それもよかった」と二人が言い合ったことも腑に落ちる。

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 樋上さんは、自分の体験と重なることとして、中学時代のいじめ問題に言及した。樋上さんがよく語るのは、同級生同士だと自分をいじめたりしている同級生が、他のクラスの生徒や大人が樋上さんをからかったりする時は、俄然樋上さんを守って相手に歯向かってゆくという体験。

 これに対し、野村さんも、自分は遊びの延長のような感覚で受け取っていたのだが、大人である親から見るといじめだと感じられたのだと語る。

 これは筆者の体験とも重なる。弟が統合失調症で入院していた時、一緒に外出したが、弟に対する街の人々の対応が、私にはひどく屈辱的に感じられ、よく憤ったものだ。 

 その病院は開放医療を進めていたので、患者さん達がたくさん街に出ていた。病棟スタッフたちは、「〇〇さんが帰ってこない」などと、街のあちこちを探し回ったりしていた。金銭や人間関係トラブルも発生するらしく、病院から至近の喫茶店には「△△病院の患者さんはお断わりします」と貼り紙が出ていた。弟や患者仲間や病院スタッフたちはそんなやりとりを日常的に生きていたが、たまに一緒に歩く私にはひどく冷たい街に感じられたのだ。ほんとうは私自身も同じような街の一員として日々を過ごしているのに。

  大人になった野村さんは、玩具ストアで「短時間で仕事を終わらせろ」と命じられたり、ドラッグストアで、「やらなくていいよ」とか「何のために来てるの」となじられる。今回は端折られたが、野村さんは耐えてきただけでなく、反撃もした。

 転学や転職の道もあってよい。それは生き残るために最低限必要なことだ。しかし、同時に、いじめや理不尽な差別、偏見に対して、どうやり過ごし、どう反撃してきたか。そんな体験をこれまでの人生からさらに掘り起こし、いまいる場を働きやすい、生きやすい場に変えてゆく道を切り拓くことも、とても大事と感じた。

 
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(写真は世一緒サポーターの直井さん撮影)


 
 
 

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