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zoom RSS 移行利用者・菅野さん バブル底辺労働を経て街であがき生きる

<<   作成日時 : 2018/12/29 14:04   >>

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  T. 晴れ舞台に立って 

 12月26日、今年最後のすいごごカフェは、千間台の就労移行「世一緒」を会場に開催。

 ゲストは就労移行「世一緒」の利用者でもある菅野秀義さん。
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 今日菅野さんがトークすることになったいきさつは、先月やはりここ千間台でのすいごごカフェで、南埼玉病院デイケアのカフェ「天手古舞」で働きシナリオライター修行中の亀田康介さんがゲストとしてトーク中に、菅野さんが割り込んで、かって新宿副都心に都庁の建設工事が行われた時そこで働いたという話を熱っぽく語り始め、話しは延々続く気配となったことから。

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 就労移行「世一緒」での菅野さんの様子というと、店頭での販売でも売り声をよくあげているが、病気柄笑顔がなく、結果お経をあげているかのよう。

「世一緒」に来る直前は、被害妄想が前面に出て、駅で通行客をにらみつけていると通報され警察に保護されたり、都内で金を使い果たし、終電を過ぎて交番に行き、深夜パトカーで送られてきたり。

そして、通院していた精神科病院に入院し退院後、長年暮らした家を出てGH生活となり、昼間は「世一緒」を利用。週末は長い付き合いである重度障害者・荒井さんのところに介助がてら泊りに行くという生活パターンとなった。


 そこに至る前、母が亡くなり、家族は男ばかり4人になり、甥っ子から回し蹴りされたり、顔面パンチを食うといった事態も生じていた。

病気と生活の変化が重なり、相当疲れるようで、「世一緒」でも寝ている時間が多い。
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ただし他の人々が活動する場の横に布団を敷いて寝る。菅野さんの寝ている姿が、「世一緒」の日常プログラムの一部の中に溶け込んでいる。

さて、トークゲストになった菅野さんは、準備段階から椅子にしゃんと座り、体調不良や金欠の訴えも一切なしで、前を向いていた。この姿勢は、トークが終わるまで変わらなかった。

思えば、菅野さんにとって初の晴れ舞台だったのではないか。参加者も、これまでになくあちこちから集まった。

 U.バブル景気の底辺で働いた日々

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語り始めた菅野さんの話は、たまっていたものが次々とあふれ出てくるような感じで、スライドショーのようにさまざまな仕事経験が語られ、なんとたくさんの仕事遍歴を経てきたのだなあと驚くが、時系列を無視して語られてゆくので、整理が大変。これは翌日、私がインタビューして少し整理して年表にしたので、参照されたい。

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都庁建設工事の話は1988年頃のことだから、30歳前後。大宮の手配師の紹介で、綾瀬のプレハブに100人くらいが寝泊まりして、大釜が5、6個で飯を炊き、おかずは食い放題。

そこからゴルフ場や都庁の地下2階の現場に出かけていたという。バブル時代を下支えした現場にいたのだ。


菅野さんは75年に中学卒業後、高等職業訓練校に1年行き、その後ずっと中小零細の工場を半年から1年ぐらい転々としてきた。菅野さんは、小・中とも特殊学級だった。「小学校で女の先生に無理やり入れられた。

普通に行ってれば大学行ってたのに」と語る。働いていてもその思いを引きずってきたのだろう。そのぶん、日常から離れてはじめるべく、中学から原宿によく出かけていた。
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ちなみに、私たちが「どの子も地域の公立高校へ」と、3人の知的障害の生徒に県立高校の門を開くことを求めて県知事応接室に3泊4日した時が、まさに菅野さんの都庁工事と同時期だ。このすぐ後に出てくる重度障害者・荒井さんは、この泊まり込みに参加していた。上の写真の中央少し左が荒井さん。

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 上の写真の白いハンチングも荒井さん。知事応接室泊まり込みの朝、応接室前のバルコニーに出てみた。

 話を元に戻そう。バブルがはじけてしばらくして、仕事もなくぶらぶらしていた菅野さんは市の紹介で福祉の場と出会う。そして21世紀に入って、介助者をやりくりして一人暮らしをしてきた重度障害者・荒井義明さんと出会う。都庁工事そして知事応接室泊まり込みから12年経っていた。


 V.介護との出会い そして街で―荒井さん、大坂さんから 

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この日のすいごごカフェに荒井さんが来て、話してくれた。

「作業所の利用料が高いから払いきれないと菅野さんのおやじさんが言うので、じゃあうちへ来てみないかと、まずお風呂介助から入った。

あの頃は私も少しは動けたので、ちょっと手伝ってくれるだけで入役で来た。

それから食事介助もやってもらうようになり、来ることが多くなって、泊っていったりもしてそこで介護してくれると私も楽なので、だんだん頼りにするようになった。
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出かけるときも一緒に出かけたりすると、私は方向音痴だが菅野さんは道をよく知っているので助かる。上の写真は2004年、菅野さん(中央)の介助で県レベルの会議に参加した荒井さん(右)。

電話線が切れてしまった時も、あっという間にくっつけて、職業訓練校の電気科を出てるという話はほんとうだと思った。

いろんなところに二人で遊びに行ったり、旅行したりしている。」

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荒井さんの話に続けて、風の子介護人組合の大坂さんも語った。

「菅野さんと出会ったのは、私が会社を辞めて、マンションの廃品回収に来ていた施設のチラシに荒井さんが書いていたのを見て、連絡を取ったのがきっかけ。

春日部市の全身性障害者介護人派遣事業を共同で活用して、荒井さんたち障害者が街で生きていく介助に、近所のお母さんたちこ一緒に関わった。

その時、菅野さんが、施設の利用料が高いから父親から金払うならやめろと言われ、タイミングよく介護人組合で働き始めた。
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それから20年弱の間に、菅野さんは荒井さんの介助者としてあちこちに出かけたり、さまざまな団体、個人と知り合い、県内のネットワークや全国的な団体の集会など、いろんなところに参加もした。


最近になって菅野さんに変化があった。あるいは世の中が変わった。(ここで菅野さんから一言。「平成になって世の中が変わった。暗い人間と明るい人間がごちゃごちゃになった。」)

菅野さんは暑い夏に道路でぶっ倒れて、病院に運ばれ点滴を打って帰って来た。

いろいろあってその後入院したり、前は終電で帰って来たのが金を全部使ってパトカーで送ってもらったりしたことが5,6回あった。

荒井さんのところに入っている他の介助者が『最近菅野さんおかしい』と言うようになり、夜中に来れないようにしようと鍵をかけたら、ガラス戸を割って入って来たり。


現在は介助料等をもらうと、その金を一日で全部使っちゃうという状況なので、何回かに分けて渡したりしている。」(ここで菅野さんより一言。「なんで俺は60歳にもなって5千円とかしかもらえないのか」)

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ここで一言付け加えておくと、菅野さんのお金の使い道はほとんどがファッションである。細身のからだに合わせて女物を身につけることも多い。そのファッションセンスがプロのカメラマンの目にとまり、街角で被写体となってアサヒグラフを飾ったこともあるほど。
上の写真は昨2017年の埼玉障害者市民ネットワーク主催・ちんどんパレードで、筆者と談笑する菅野さん。

2時間にわたったゲストトークで、笑ったり、激白したり、荒井さん・大坂さんの語りに合いの手を入れたりしながら、本来の陽気な菅野さんが出現した日。


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