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zoom RSS 黒田流「共生の技法」―矛盾を友として(2月14日すいごごカフェから)

<<   作成日時 : 2018/03/01 22:55   >>

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●黒田流「共生の技法」

 2月14日のすいごごカフェのゲストトークは、世一緒の障害者スタッフである黒田さんにお願いした。

 黒田さんは年間を通して主に週末や祭日を、露天商のアルバイトに費やしている。金魚すくいなどでなじみの親子もおり、その仕事が気に入っている。

 だから当初は就労支援センターの相談者として出会ったのだが、現時点では一般就労をめざしてはいない。しかし、一般就労や障害者自立支援法以前の「福祉的就労」をいろいろ経験しており、彼自身の問題意識をもっている。

 その問題意識から、黒田さんは「地域の職場に出て行って、職場・地域を一緒に変えてゆこう」という活動に参加し続けている。「障害者だけで集まってちゃいけない」とよく言う。そして、越谷市民ネットワークの活動にもよく参加している。

 そうやって仕事でも、活動でも、さまざまな人々とごちゃごちゃと動いているからこそ、矛盾に引き裂かれ、ぶつかり、迷う。
 それが時には出来ない障害者への「そんなことだから周りの人々の理解を得られないんだ」という説教めいた口調につながったり、今回の話の中にあるように、かっての特殊学級や施設という分けられた場の中でのていねいな個別支援に対する全面的な肯定にも表現される。

 論理の矛盾を指摘することはたやすいかもしれないが、実はその矛盾は、人を分け隔てる境界を、時にはこちらの言葉を用い、時には向うの言葉を、時にはその隣の世界の言葉を用いながら、往ったり来たりして、道に迷ったり、逆戻りしたりもしながら営まれている、「あたりまえ」の暮らしの表現なのだと思う。

 だから、それこそが、彼が独自に編み出した「共生の技法」にほかならないと、筆者は実感している。

 以下は、筆者の秘書的介助者の奈っちゃんにまとめてもらったすいごごカフェでの黒田さんのトーク。
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越谷で姉1人、弟2人、妹1人の5人兄弟の長男として生まれる。幼い頃、どもってなかなか喋れず、突然倒れて“てんかん”だと診断され薬を飲み始めた。医師には生まれつきのものだといわれた。

●学校生活
幼稚園は近所の園に通い、小学校では3年生までは普通学級に通った。けれど、勉強についていけず悩んでいた。4年生から特殊学級に移った。自分ができる勉強があることで学校が楽しくなった。

その頃から家でお父さんがイライラすると殴られたりしていたが、怖さで学校の先生たちには言えずにいた。お小遣いを貯めて友達と映画を観に行ったり、田んぼでザリガニ釣りをしたりして外では楽しく過ごしていたけれど、家に帰ると嫌なことが多かった。

中学校ではまた普通学級に入った。最初はよかったのだけれど、やはりここでも勉強についていけずただ教室にいるだけになることも多々あった。同級生にスーパーカー消しゴムを窓から投げ捨てられたり、お前がいたら勉強の邪魔だと言われ悲しい思いをした。また特殊学級に移り、友達もできて、自分にできる勉強も見つけたことで学校に行く意味が見つかって楽しくなった。

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●卒業後の進路・働く
 中学の卒業後、学校の紹介で草加の会社に就職。その頃、不良、暴走族に憧れていたので、グループに入り、
リーゼントパーマかけたり、バイクの後ろに乗せてもらったり、悪いこともしたりと、やりたいほうだいだった。けっきょく会社は1年で辞めた。辞めてしまってからは、仕事が見つからずイライラして、親とはうまくいかず、家で物を壊したり、大声をあげたりしていた。

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 その頃に母が長崎のしが先生が出した本を見て、そこに電話したら、講演会で東京に来るからそこで会ってくれることになり、いろいろ話しているうちに長崎に行くことになった。、自分も家にいてもつまらないし、すぐに帰れると思い、遊び気分で行った。

初めての飛行機にドキドキしたのを今でも覚えている

 長崎のその施設に行くと「県外の人は入れない、でも連れて来ちゃったから送り返すわけにもいかない」と言われた。施設とは別の一軒家に住むことになって農業をして暮らした。収穫期には休みなく夜遅くまで箱詰めをして大変だった。

 約1年経って慣れてきたころ、職員さんが近くのガソリンスタンドの仕事を紹介してくれて洗車やボンベ運びの仕事をした。慣れないボンベ運びで腰を痛めて辞め、3カ月間接骨院に通院した。

 その後は今までやったことの無い水道工事をした。コンクリ打ちやパイプ運びをした。雨の中スコップで5mも掘ったりして大変だった記憶がある。鉄製の物を運んでいた際に足の上に落してしまい、骨折した。

 骨折中、仕事を休むことになりその期間は入所施設の人たちとおせんべいの箱作りをした。そこにいた障害者たちと話をしたり交流を持てたのが今でもとても大切な経験になっている。

 今度は縫製工場の仕事がある、と紹介されてアイロンがけなどをした。売れ行きが悪くなって倒産。また無職になってしまった。

 その後、運よく寮長の知り合いの造園業で働けることになりしばらく続けた。そこで通勤寮ができたので10人くらいの人と住んだ。寮長夫妻や職員、他の住人にすぐに相談できる環境のおかげで辞めずに続けられたと思う。こういう環境が今の越谷にもあればいいのにと思う。

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●越谷に戻る
造園を辞めてから、仕事がなかなか見つからず家に帰ることになった。寮長夫妻や職員さん、造園の人たちでお別れ会をしてくれた。帰ってきたら越谷のまちの風景が変わっていた。

そろそろ仕事を再開しよう、その前に桜を見に行こうといった先で事故に遭い1年通院。その後も“障害者”という理由でなかなか仕事が見つからなかった。

 友達の紹介で障害者枠で草加のクリーニング工場で働いた。仕事が暇な時期は給料が半分になるし、お昼で帰されたりして大変だった。
 中卒の子が入り自分が教えることになったが、お金の盗難事件が起こった。犯人がその人だと判明するまで色々な問題があり、お前がやったんだろうと言われた。障害者ってだけで自分が疑われることに疑問を持った。健常者より障害者のほうが言いやすいからかなと思う。それで1年で辞めてしまった。

 しばらくは家にいたが、その頃ハローワークができたというので行くと、失業保険がおりることを知って、その時に就労支援センターを紹介され、そこからさらに世一緒を紹介されて世一緒にも顔を出すようになった。

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●現在の姿
世一緒では色々な経験をした。また、露店の親方と出会って仕事をするようになり、信頼されてずっと働き続けている。
世一緒以外でもいろんなつきあいができ、イベント時の子どもの面倒を見ることが多くなった。それがアルバイトになってお金ももらえるようになった。

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●仕事をしてよかったこと、人生で悲しかったこと

母の生前に、自分が稼いだお金で飛騨高山、世界遺産ツアー、かっぱ橋、ホテルで名産の食事を食べたりできたこと。悲しかったのは母が亡くなったこと。仕事から帰って母が倒れていたあの日、自分が仕事に行っていなければ亡くならなかったのかなと自分を責めた。

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