数十年後の人生,地域につながる「共に学ぶ」
贈ってもらった本。詩のつながりで編まれた物語。何度か読み返した。そのたびに新しい発見がある。
作者のお母さんと35年前に出会った。「埼玉県東部地区に総合養護学校をつくる会」改め「埼玉県東部地区の福祉と教育を考える会」の杉戸・宮代集会。私は会の事務局をしていた。
泣きながら語っていた。当然のことと思って近所の小学校の普通クラスで共に学ばせている息子さんのこと。教育委員会や学校やほかの親たちのこと、友達のこと。
「切り捨てられた側からの証言」に収めてある。
「昼間ずっとニコニコしているので夜はグッタリしちゃう。ここのみんなと会うと気がゆるんでグチったり泣いたりするけど、こういう仲間がいることはほんとに大事だと思うわ。」
息子さんは中学の頃クラスメートたちを誘って、わらじの会のバザーなどで活躍した。そして近所の公立高校へ進学した。
20数年後、わらじの会のクリスマスに再び現れた時、彼はポエトリージャパンという小さな出版社を主宰していた。月刊わらじに中学時代をふりかえる文章を寄稿してもらった。
また時が過ぎ、今回わらじの会でで「地域とからだ」を出版するにあたり、その月刊わらじの文章を転載させてもらい、報告とお礼を兼ねて本を送ったところ、この「珊瑚」をいただいた。
ばらばらに思えることが、地域という場を原点としてつながりあう。
「共に学ぶ」は学校の時だけの話ではない。その後の長い年月の、本人と周りの人々の生き方、くらしを貫く。
もう一人の男との長い付き合いを思い出した。
第4水曜日夜はH宅プランづくり会。わが連れ合いの手づくり弁当を味わいながら、参加者の身辺雑記を繰りつつ、地域を語り、活動を考える。
本家マザコン少年、元祖登校拒否児、貧乏神などと自称するHくんとは昔彼が中学を卒業して通信制高校に入ったばかりの時からのつきあい。
それまでも同じ団地内でお母さんの自転車の荷台に乗って学校へ通う、制服がぶかぶかの脳性マヒの少年の姿はよく見かけていたのだが…。
わらじの会の重度障害者たちが街で暮らすことを探るために平日の3日間、家から出て武里団地の公園の中の公民館に集まっていたら彼のほうから話しかけてきた。上の写真の紺色のジャンパーの若者が通信制高校時代の彼だ。高校では野球部のコーチや生徒会で青春していた。
そのHくんのアパートの壁にいくつもぶらさがっているスナフキン。
スナフキンのことば……
「いずれどっかへいくだろうさ・・・・・・。それともどこへもいかないのかもしれないぜ・・・・・・。どっちでもいいさ。このままで、とてもたのしいじゃないか」
「明日もきのうも遠く離れている」
通信制高校を卒業して間もない樋上くんが書いた詩の一節…
「俺にとっては 自由が怖いと思うことだけが
ゆいいつの自由、自由 」 (月刊わらじ;1986年)
そして1987年の月刊わらじには
「しょせん一人の弱い人間が多くの人間を扶けようなんて
大それたことはできやしない。
されど多くの弱い人間は一人の人間の淋しさを少しは
いやすことができるような気がするのです。」
彼は元祖登校拒否児とも自称するくらいで中学は3分の1しか出席しなかった。が、中3の時校内の弁論大会で自らを語り全校生徒に衝撃的な存在アピールをしたらしい。
その時を知る後輩でわらじの会にも手伝いに来ていたMさんは結婚して千間台に住みわらじ大バザーや夏祭りの夜店によく顔を見せる。上の写真は15年前のバザー会場でのMさん。
先日の大バザーにも来たとHくん。
「H先輩!私3人も孫が出来ちゃいましたよ」と40代前半の彼女がすっぴんの顔で笑っていたという。Mさん若いころから肝っ玉母さんの風格あったなあと言い合う。
避難所一泊体験実行委員長など街づくりの市民団体の代表などを務める彼だが、いまもひきこもる日の方が多い。「元気?」と声をかけられ「元気じゃないです」と挨拶を返す彼。
その彼のアパートを定時制高校時代の野球部も一緒だったクラスメートが、比較的近くの会社の営業担当であることを利用し、息抜きとだべりを兼ねて、結婚して子どももできた今でも、ずっと月2回片付けがてら訪ねている。
30年間…。同情や正義感では続かない不思議な「腐れ縁」だ。
「特別な教育的支援が必要な児童生徒」? 「個別教育支援計画」?
…学校という体制に適応させる(不適応が続くと二次障害を生じるといって親や周りを怖がらせながら)ための支援によって子どもたちを分け、囲い込むシステムは、ここで紹介したさまざまな関係、腐れ縁をずたずたに断つことでしかない。
子どものころから、互いに不思議な他者として、思い違いや擦れ違いを重ることで、社会は地域として再生してゆく。、
作者のお母さんと35年前に出会った。「埼玉県東部地区に総合養護学校をつくる会」改め「埼玉県東部地区の福祉と教育を考える会」の杉戸・宮代集会。私は会の事務局をしていた。
泣きながら語っていた。当然のことと思って近所の小学校の普通クラスで共に学ばせている息子さんのこと。教育委員会や学校やほかの親たちのこと、友達のこと。
「切り捨てられた側からの証言」に収めてある。
「昼間ずっとニコニコしているので夜はグッタリしちゃう。ここのみんなと会うと気がゆるんでグチったり泣いたりするけど、こういう仲間がいることはほんとに大事だと思うわ。」
息子さんは中学の頃クラスメートたちを誘って、わらじの会のバザーなどで活躍した。そして近所の公立高校へ進学した。
20数年後、わらじの会のクリスマスに再び現れた時、彼はポエトリージャパンという小さな出版社を主宰していた。月刊わらじに中学時代をふりかえる文章を寄稿してもらった。
また時が過ぎ、今回わらじの会でで「地域とからだ」を出版するにあたり、その月刊わらじの文章を転載させてもらい、報告とお礼を兼ねて本を送ったところ、この「珊瑚」をいただいた。
ばらばらに思えることが、地域という場を原点としてつながりあう。
「共に学ぶ」は学校の時だけの話ではない。その後の長い年月の、本人と周りの人々の生き方、くらしを貫く。
もう一人の男との長い付き合いを思い出した。
第4水曜日夜はH宅プランづくり会。わが連れ合いの手づくり弁当を味わいながら、参加者の身辺雑記を繰りつつ、地域を語り、活動を考える。
本家マザコン少年、元祖登校拒否児、貧乏神などと自称するHくんとは昔彼が中学を卒業して通信制高校に入ったばかりの時からのつきあい。
それまでも同じ団地内でお母さんの自転車の荷台に乗って学校へ通う、制服がぶかぶかの脳性マヒの少年の姿はよく見かけていたのだが…。
わらじの会の重度障害者たちが街で暮らすことを探るために平日の3日間、家から出て武里団地の公園の中の公民館に集まっていたら彼のほうから話しかけてきた。上の写真の紺色のジャンパーの若者が通信制高校時代の彼だ。高校では野球部のコーチや生徒会で青春していた。
そのHくんのアパートの壁にいくつもぶらさがっているスナフキン。
スナフキンのことば……
「いずれどっかへいくだろうさ・・・・・・。それともどこへもいかないのかもしれないぜ・・・・・・。どっちでもいいさ。このままで、とてもたのしいじゃないか」
「明日もきのうも遠く離れている」
通信制高校を卒業して間もない樋上くんが書いた詩の一節…
「俺にとっては 自由が怖いと思うことだけが
ゆいいつの自由、自由 」 (月刊わらじ;1986年)
そして1987年の月刊わらじには
「しょせん一人の弱い人間が多くの人間を扶けようなんて
大それたことはできやしない。
されど多くの弱い人間は一人の人間の淋しさを少しは
いやすことができるような気がするのです。」
彼は元祖登校拒否児とも自称するくらいで中学は3分の1しか出席しなかった。が、中3の時校内の弁論大会で自らを語り全校生徒に衝撃的な存在アピールをしたらしい。
その時を知る後輩でわらじの会にも手伝いに来ていたMさんは結婚して千間台に住みわらじ大バザーや夏祭りの夜店によく顔を見せる。上の写真は15年前のバザー会場でのMさん。
先日の大バザーにも来たとHくん。
「H先輩!私3人も孫が出来ちゃいましたよ」と40代前半の彼女がすっぴんの顔で笑っていたという。Mさん若いころから肝っ玉母さんの風格あったなあと言い合う。
避難所一泊体験実行委員長など街づくりの市民団体の代表などを務める彼だが、いまもひきこもる日の方が多い。「元気?」と声をかけられ「元気じゃないです」と挨拶を返す彼。
その彼のアパートを定時制高校時代の野球部も一緒だったクラスメートが、比較的近くの会社の営業担当であることを利用し、息抜きとだべりを兼ねて、結婚して子どももできた今でも、ずっと月2回片付けがてら訪ねている。
30年間…。同情や正義感では続かない不思議な「腐れ縁」だ。
「特別な教育的支援が必要な児童生徒」? 「個別教育支援計画」?
…学校という体制に適応させる(不適応が続くと二次障害を生じるといって親や周りを怖がらせながら)ための支援によって子どもたちを分け、囲い込むシステムは、ここで紹介したさまざまな関係、腐れ縁をずたずたに断つことでしかない。
子どものころから、互いに不思議な他者として、思い違いや擦れ違いを重ることで、社会は地域として再生してゆく。、
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