被災した故郷岩手を再発見し 埼玉の地域を想う -ケアシステムわら細工・谷崎恵子さん
前回のブログに「 この数ケ月間、わらじの会の職員を中心とするメンバーたちが交替で、被災地障害者センターいわて http://20110311iwate.blog27.fc2.com/ に出かけ、岩手県沿岸部の被災地で調査・支援活動に関わってきた 」と述べた。
ここに紹介するのは、その一人で、被災した岩手県久慈市出身のメンバーのレポート。その谷崎恵子さんは、1990年に生活ホーム・オエヴィスが発足した時、チラシをもらって世話人の一人になった。
世話人になった年の秋、わらじの会の勉強会で就学時健診が子どもをふりわける役割をもつことを知り、次男を受診拒否させ、教育委員会に文書をもってその旨を伝えた。学校、教育委員会からの弁解や説得がいろいろあり、そのやりとりを3回にわたって「就学時健診始末記」と題して、月刊わらじに報告している。そして、翌年、次男が入学した後に、「就学時健診 その後」と題して、担任の家庭訪問でのやりとりをまた4回にわたって書いている。
月刊わらじに7回も就学時健診について書いた人は、彼女の前にも後にもいない。
二度にわたる就学時健診シリーズのちょうど中間にあたる1991年3月号の月刊わらじに、彼女は「生きる―住民参加型サービス・ヘルパー研修会に参加して」という文章を載せている。
「生きるゆうことは 悲しいことですなあ」… 何もかも包み込むようなほほえみ…同い年くらいの老婦人のほうを見ると、「死にたいやらなあ。あんたも死にたいやらな…死にたいなあ。」とつぶやいた。
…おやが倒れた時、遠くて 思うように看てやれなかった。そんな時気軽に頼める所が地域にあれば、という主婦がいた。
…女って結婚すると 自分の親のほうはなかなか思うように見てあげることができない。介護という仕事は 手のあいた女性だけで担っていけるものではないし、またそうすべきものでもないと思うが、なんとなくそんな雰囲気になっている社会も 変えていけなければと思う。
いま、老人や障害者にとって住みよい街をつくるということは、結局は自分のためになること。もっともっと自分の将来に関心を持って取り組まなければいけないなと ひしひしと感じた 5日間の研修だった。
何があっても どうなっても、死ぬまでは生きなければならないんですよね。
故郷・岩手の親兄弟、親戚から遠く離れ、埼玉で家庭をもった谷崎さんは、恩間新田をやっと共に生きる場として耕した障害者たちに接する中で、自分の足元の家庭・地域・学校を、みんなが住みやすい場に変えてゆく必要とそのためになしうることを、見出しつつあった。
そして、20年の時が流れ、いま谷崎さんは、オエヴィスと一緒に発足したケアシステムわら細工の専従事務局員になっている。その谷崎さんのレポートは、まさに就学時健診、オエヴィス、わら細工と故郷岩手の糸を探り探り、たぐりたぐりして生きてきた彼女ならではの味が出ている。
被災した故郷・岩手を訪ねて
谷崎 恵子(ケアシステムわら細工職員)
(前略)私が最初に訪問したのは、だんなさんは車椅子ですが、手仕事はできるので、街の中で釣具店を営んでいて、津波に家も車椅子も流されてしまった方でした。奥さんは低身長症なので、支援物資の中に合う衣類がなくて困っているという方でした。仮設住宅に入居はできても、車椅子がなかったり、中の造りが合っていないために、トイレも行けなくて、おむつを使わざるを得なくなってしまったと話していました。
次に訪問したのは、弱視の小学生の女の子のお宅で、家も家族も無事でしたが、お父さんの職場が流されてしまい、失業してしまったということでした。支援物資を届けて、お話を聞いてきました。夏休みに入ったら盛岡に引っ越して仕事を探すと言っていました。
筋ジスの中3の男の子は、本人とは会えませんでしたが、お母さんのお話を聞いてきました。自閉症の弟さんがいて、支援学校の寄宿舎に入っているそうです。筋ジスのお兄さんの方は地元の普通小学校と中学校に通ったけれど、高校は支援学校に行くと言っていました。
夜、呼吸器を使う際に加湿器が断水のため使用できなくなり、市販の精製水も手に入らなくなったので、毎日新聞に協力の呼びかけを載せてもらったら、全国から2リットルのペットボトル6本入りの箱が60箱くらい来て、誰か必要な方がいたら差し上げますと話していました。
小中と地域の学校で頑張った人がいたことはうれしく感じましたが、なぜ高校は普通高校ではないのか、弟さんはなぜ寄宿舎なのか、疑問を持って帰りました。
ほかには、やはり仮設住宅に住んでいる知的の人の買い物同行や、高齢の女性の話を聞いたりしながら、仮設住宅にセンターのチラシをポスティングしたり、スロープのあるお宅は訪問して様子を聞いたりしました。
途中、私の親せきを訪ねました。住居を流され、宮古の仮設住宅に入居していました。前にわら細工職員だったK君のおじいさんは、呼吸器を付けていてほんとに奇跡的に助かりましたが、避難先で亡くなったそうです。
また、兄妹で目が見えず、お兄さんはマッサージの診療所を開業していたというお宅は、1階の診療所は全部流されてしまったけれど、鉄筋だったために2階、3階の住居部分は残り、早く片付けてまた診療所を再開したいと言っていました。2階部分も1メートルほど海水につかったということで、そこの片づけを手伝いました。一緒に行った人は通院に付き添ったので、一人で片づけましたが、一日やって見まわしたときに、たったこれだけしかできなかったのかとがっかりし、一人でできることの小ささを痛感しました。
センターでの活動の終了後、久慈の実家に一泊。実家は海に面した崖の上にあるため、被害は比較的小さくて済みました。翌日はレンタカーで沿岸沿いを南下し、被災の状況をあらためて目のあたりに見ました。今日は穏やかに見えるこの海が…と、自然の前で何もできないもどかしさに落ち込むばかりでした。
最終日7月4日、岩手に行く前から、前にわら細工に関わっていた人を通して相談を受けていた青年に会いました。陸前高田と大船渡の境にある広田崎という小さな半島の根元あたりに住むその青年は、年齢には似合わず落ち着いた風情でした。実家近くの小規模多機能の老人施設で働いているということでしたが、施設が震災に遭い、浸水した建物を復旧させながらなんとか働いているが、給料が下がり震災の影響で止まっていた車のローンがいっぺんに3ケ月分来てしまい困っている、わらじで働かせてもらえないかという相談でした。わらじでは今募集はしていないし、わら細工もヘルパーを雇用している事業所ではないということを話し、なんとか地元から出ないでほしいと話してきました。
10人家族で家は無事だったものの、兄二人や母も職場が流され、収入がなくなったのだそうです。
「震災当日は休みで、街で買い物をしていたところで地震に遭い、最初は津波だと分からず、ただ何か海の向こうに黒い線が見えて。『なんだ?あれは』とみんな思っていました。そのうち誰かの『逃げろ!』という声で気付いた時は、もう真っ黒な壁でした。必死で逃げる途中、波にのまれて流されていく人たちが、助けて!と叫んでいて、その人たちと眼が合うんです、焼き付いて離れません。
急いで自宅に戻ってみると、広田湾と大野湾、両側の湾から津波の挟み撃ちでした。家に近寄ることができず、職場の施設に戻るとそこも水浸しで、一階は流されていました。自宅が流されてしまったり、波にのまれてしまったり、道がなくなったので来ることができなかったりと、職員は減ってしまいました。
建物は残ったので、残された職員数人で利用者の介護に48時間体制で当たりました。それが2ケ月ほど続き、今でも24時間体制が続いています。
道がなくなったので、山の木を切って並べて道を作ったり、泥をかき出したり、残った人たちでお金を出し合って買い出しに行きました。そこで目にしたのは、普通に生活している人たちの姿でした。ショックでした。自分達は死に物狂いで生きてるのに、この人たちは笑って暮らしている。それがショックでした。
陸前高田の消防団の法被を着ていたので、いろんな物はくれました。それはありがたかったけれど…。今職場に通う道には瓦礫が山積みで、これはあいつの家の瓦礫、これは遊びに行っていたゲームセンターのもの、それを毎日見ているのはつらいです。思い出が全部流されてしまいました。」
と語ってくれました。
こんなにがんばっている人にがんばれなんて言えないし、地元を出た私が、地元にいてほしいなんて言えない。でも、これから復興してまた町を作っていかなければいけない時に、若者が町を出てしまったらどうなるの?そんなことくらいしか言うことができませんでした。
「どうしてそんなに落ち着いているの?」と言うと、「震災前は自分もちゃらちゃらと遊んでいました。」と21歳の顔を見せてくれました。
親戚からは手紙が届きました。
「あの日から普通のことが普通でなくなり、普通でないことが普通になり、電気や水道が使えないことがどんなに大変なことか気付かされ、今までの生活がどんなに幸せだったか思い知らされました。
まさか自分の家に戻れなくなるなんて思いもせず。最初の津波が50センチとラジオで流れ、『なんだー、そんなもんか。』と思って田老に引き返し、坂を宮古方面から降りて見た光景は、潮ふぶきに瓦礫の粉が混じって『赤い霧』の後を茶色に濁った大津波が家ごと流し、松林もなぎ倒して向かってくるところでした。まさか…50センチと言っていた津波が『なにこれ?映画のようだ。』と信じられないような光景でした。
先のことは不安だらけで、どうなるのかわかりませんが、いま、一日一日をしっかり生活して行くことだと思っています。幸い三人の子どもたちも元気に小学校、中学校に通っています。子どもたちはきっとまた津波を経験するはずなので、家や家族を失わないように、高台のほうに建てようねと話しています。」
岩手は昔から日本のチベットと呼ばれ、産業も文化も遅れてきました。若者や男性は県外に出て働き、地元に残るのはじいちゃん、ばあちゃん、母ちゃん、そして子どもです。若者の90%が県外に出て行くと言われました。
残された人々で営まれる農業は、三ちゃん農業と言われてきました。
そして今回、町に障害者がいないと言われ、それでも行ってみて、普通学校でがんばっている人がいたことや、町の中でできることを活かして生きている人たちに会うことができてうれしく思いました。
遅れているからこそまだ、障害があっても担える部分も残されているのかもしれません。私の生まれ育った町にも、手作業を商売にして自立している障害者の兄弟がいました。町の人はきちんとそれを認め、なんの違和感もなくつきあっていました。
今ではテレビやインターネットでさまざまな情報が隅々にまで行き届くようになりましたが、まだまだ遅れているからこそ残されている、良い部分を失わないでほしいと思いました。
以上が谷崎恵子さんの被災した故郷・岩手の訪問記。
ここに紹介するのは、その一人で、被災した岩手県久慈市出身のメンバーのレポート。その谷崎恵子さんは、1990年に生活ホーム・オエヴィスが発足した時、チラシをもらって世話人の一人になった。
世話人になった年の秋、わらじの会の勉強会で就学時健診が子どもをふりわける役割をもつことを知り、次男を受診拒否させ、教育委員会に文書をもってその旨を伝えた。学校、教育委員会からの弁解や説得がいろいろあり、そのやりとりを3回にわたって「就学時健診始末記」と題して、月刊わらじに報告している。そして、翌年、次男が入学した後に、「就学時健診 その後」と題して、担任の家庭訪問でのやりとりをまた4回にわたって書いている。
月刊わらじに7回も就学時健診について書いた人は、彼女の前にも後にもいない。
二度にわたる就学時健診シリーズのちょうど中間にあたる1991年3月号の月刊わらじに、彼女は「生きる―住民参加型サービス・ヘルパー研修会に参加して」という文章を載せている。
「生きるゆうことは 悲しいことですなあ」… 何もかも包み込むようなほほえみ…同い年くらいの老婦人のほうを見ると、「死にたいやらなあ。あんたも死にたいやらな…死にたいなあ。」とつぶやいた。
…おやが倒れた時、遠くて 思うように看てやれなかった。そんな時気軽に頼める所が地域にあれば、という主婦がいた。
…女って結婚すると 自分の親のほうはなかなか思うように見てあげることができない。介護という仕事は 手のあいた女性だけで担っていけるものではないし、またそうすべきものでもないと思うが、なんとなくそんな雰囲気になっている社会も 変えていけなければと思う。
いま、老人や障害者にとって住みよい街をつくるということは、結局は自分のためになること。もっともっと自分の将来に関心を持って取り組まなければいけないなと ひしひしと感じた 5日間の研修だった。
何があっても どうなっても、死ぬまでは生きなければならないんですよね。
故郷・岩手の親兄弟、親戚から遠く離れ、埼玉で家庭をもった谷崎さんは、恩間新田をやっと共に生きる場として耕した障害者たちに接する中で、自分の足元の家庭・地域・学校を、みんなが住みやすい場に変えてゆく必要とそのためになしうることを、見出しつつあった。
そして、20年の時が流れ、いま谷崎さんは、オエヴィスと一緒に発足したケアシステムわら細工の専従事務局員になっている。その谷崎さんのレポートは、まさに就学時健診、オエヴィス、わら細工と故郷岩手の糸を探り探り、たぐりたぐりして生きてきた彼女ならではの味が出ている。
被災した故郷・岩手を訪ねて
谷崎 恵子(ケアシステムわら細工職員)
(前略)私が最初に訪問したのは、だんなさんは車椅子ですが、手仕事はできるので、街の中で釣具店を営んでいて、津波に家も車椅子も流されてしまった方でした。奥さんは低身長症なので、支援物資の中に合う衣類がなくて困っているという方でした。仮設住宅に入居はできても、車椅子がなかったり、中の造りが合っていないために、トイレも行けなくて、おむつを使わざるを得なくなってしまったと話していました。
次に訪問したのは、弱視の小学生の女の子のお宅で、家も家族も無事でしたが、お父さんの職場が流されてしまい、失業してしまったということでした。支援物資を届けて、お話を聞いてきました。夏休みに入ったら盛岡に引っ越して仕事を探すと言っていました。
筋ジスの中3の男の子は、本人とは会えませんでしたが、お母さんのお話を聞いてきました。自閉症の弟さんがいて、支援学校の寄宿舎に入っているそうです。筋ジスのお兄さんの方は地元の普通小学校と中学校に通ったけれど、高校は支援学校に行くと言っていました。
夜、呼吸器を使う際に加湿器が断水のため使用できなくなり、市販の精製水も手に入らなくなったので、毎日新聞に協力の呼びかけを載せてもらったら、全国から2リットルのペットボトル6本入りの箱が60箱くらい来て、誰か必要な方がいたら差し上げますと話していました。
小中と地域の学校で頑張った人がいたことはうれしく感じましたが、なぜ高校は普通高校ではないのか、弟さんはなぜ寄宿舎なのか、疑問を持って帰りました。
ほかには、やはり仮設住宅に住んでいる知的の人の買い物同行や、高齢の女性の話を聞いたりしながら、仮設住宅にセンターのチラシをポスティングしたり、スロープのあるお宅は訪問して様子を聞いたりしました。
途中、私の親せきを訪ねました。住居を流され、宮古の仮設住宅に入居していました。前にわら細工職員だったK君のおじいさんは、呼吸器を付けていてほんとに奇跡的に助かりましたが、避難先で亡くなったそうです。
また、兄妹で目が見えず、お兄さんはマッサージの診療所を開業していたというお宅は、1階の診療所は全部流されてしまったけれど、鉄筋だったために2階、3階の住居部分は残り、早く片付けてまた診療所を再開したいと言っていました。2階部分も1メートルほど海水につかったということで、そこの片づけを手伝いました。一緒に行った人は通院に付き添ったので、一人で片づけましたが、一日やって見まわしたときに、たったこれだけしかできなかったのかとがっかりし、一人でできることの小ささを痛感しました。
センターでの活動の終了後、久慈の実家に一泊。実家は海に面した崖の上にあるため、被害は比較的小さくて済みました。翌日はレンタカーで沿岸沿いを南下し、被災の状況をあらためて目のあたりに見ました。今日は穏やかに見えるこの海が…と、自然の前で何もできないもどかしさに落ち込むばかりでした。
最終日7月4日、岩手に行く前から、前にわら細工に関わっていた人を通して相談を受けていた青年に会いました。陸前高田と大船渡の境にある広田崎という小さな半島の根元あたりに住むその青年は、年齢には似合わず落ち着いた風情でした。実家近くの小規模多機能の老人施設で働いているということでしたが、施設が震災に遭い、浸水した建物を復旧させながらなんとか働いているが、給料が下がり震災の影響で止まっていた車のローンがいっぺんに3ケ月分来てしまい困っている、わらじで働かせてもらえないかという相談でした。わらじでは今募集はしていないし、わら細工もヘルパーを雇用している事業所ではないということを話し、なんとか地元から出ないでほしいと話してきました。
10人家族で家は無事だったものの、兄二人や母も職場が流され、収入がなくなったのだそうです。
「震災当日は休みで、街で買い物をしていたところで地震に遭い、最初は津波だと分からず、ただ何か海の向こうに黒い線が見えて。『なんだ?あれは』とみんな思っていました。そのうち誰かの『逃げろ!』という声で気付いた時は、もう真っ黒な壁でした。必死で逃げる途中、波にのまれて流されていく人たちが、助けて!と叫んでいて、その人たちと眼が合うんです、焼き付いて離れません。
急いで自宅に戻ってみると、広田湾と大野湾、両側の湾から津波の挟み撃ちでした。家に近寄ることができず、職場の施設に戻るとそこも水浸しで、一階は流されていました。自宅が流されてしまったり、波にのまれてしまったり、道がなくなったので来ることができなかったりと、職員は減ってしまいました。
建物は残ったので、残された職員数人で利用者の介護に48時間体制で当たりました。それが2ケ月ほど続き、今でも24時間体制が続いています。
道がなくなったので、山の木を切って並べて道を作ったり、泥をかき出したり、残った人たちでお金を出し合って買い出しに行きました。そこで目にしたのは、普通に生活している人たちの姿でした。ショックでした。自分達は死に物狂いで生きてるのに、この人たちは笑って暮らしている。それがショックでした。
陸前高田の消防団の法被を着ていたので、いろんな物はくれました。それはありがたかったけれど…。今職場に通う道には瓦礫が山積みで、これはあいつの家の瓦礫、これは遊びに行っていたゲームセンターのもの、それを毎日見ているのはつらいです。思い出が全部流されてしまいました。」
と語ってくれました。
こんなにがんばっている人にがんばれなんて言えないし、地元を出た私が、地元にいてほしいなんて言えない。でも、これから復興してまた町を作っていかなければいけない時に、若者が町を出てしまったらどうなるの?そんなことくらいしか言うことができませんでした。
「どうしてそんなに落ち着いているの?」と言うと、「震災前は自分もちゃらちゃらと遊んでいました。」と21歳の顔を見せてくれました。
親戚からは手紙が届きました。
「あの日から普通のことが普通でなくなり、普通でないことが普通になり、電気や水道が使えないことがどんなに大変なことか気付かされ、今までの生活がどんなに幸せだったか思い知らされました。
まさか自分の家に戻れなくなるなんて思いもせず。最初の津波が50センチとラジオで流れ、『なんだー、そんなもんか。』と思って田老に引き返し、坂を宮古方面から降りて見た光景は、潮ふぶきに瓦礫の粉が混じって『赤い霧』の後を茶色に濁った大津波が家ごと流し、松林もなぎ倒して向かってくるところでした。まさか…50センチと言っていた津波が『なにこれ?映画のようだ。』と信じられないような光景でした。
先のことは不安だらけで、どうなるのかわかりませんが、いま、一日一日をしっかり生活して行くことだと思っています。幸い三人の子どもたちも元気に小学校、中学校に通っています。子どもたちはきっとまた津波を経験するはずなので、家や家族を失わないように、高台のほうに建てようねと話しています。」
岩手は昔から日本のチベットと呼ばれ、産業も文化も遅れてきました。若者や男性は県外に出て働き、地元に残るのはじいちゃん、ばあちゃん、母ちゃん、そして子どもです。若者の90%が県外に出て行くと言われました。
残された人々で営まれる農業は、三ちゃん農業と言われてきました。
そして今回、町に障害者がいないと言われ、それでも行ってみて、普通学校でがんばっている人がいたことや、町の中でできることを活かして生きている人たちに会うことができてうれしく思いました。
遅れているからこそまだ、障害があっても担える部分も残されているのかもしれません。私の生まれ育った町にも、手作業を商売にして自立している障害者の兄弟がいました。町の人はきちんとそれを認め、なんの違和感もなくつきあっていました。
今ではテレビやインターネットでさまざまな情報が隅々にまで行き届くようになりましたが、まだまだ遅れているからこそ残されている、良い部分を失わないでほしいと思いました。
以上が谷崎恵子さんの被災した故郷・岩手の訪問記。
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