共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 畔柳さんを偲ぶ会―制度なき時代 病院から地域へ住まいを

<<   作成日時 : 2017/09/17 00:30   >>

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 9月16日(土)、NPO法人精神障害者の自立生活をすすめる会の代表として、グループホーム・テレサの世話人として、長年活動してきた畔柳君代さんを偲ぶ会を、会員、入居者を主体として10数名で行った。

 会場に掲げられた彼女の写真の下に、スケッチブックが置かれていて、彼女が絵を描くんだと初めて知った。なお、遺品の中にあったビデオテープが会場で流され、市民劇団に参加し舞台に立っていたことも初めて知った。
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 絵の主題はほとんどが、おんなと子ども。
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 上の絵は、彼女がケースワーカーとして働いていた精神科病院である南埼玉病院のまつりの看板として描かれたらしい。同病院は、病棟を開放化してきた草分けの病院だが、彼女にとっては良心的な医師たちが上から進める開放医療、地域医療の限界が痛く感じられたようだ。彼女たち現場の職員や患者、病者といわれる本人たち、そして家族、他の地域の人々の役割が見いだせないと感じていたのだろう。
 
 なお、医師たちを含む南埼玉病院のスタッフたちの当時の取り組みについては、このブログでも少しふれている。以下を参照。
http://yellow-room.at.webry.info/201312/article_3.html

 
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 君代さんとは、1979年2月に、その前年発足したばかりのわらじの会が、越谷の市役所東側の葛西用水でめいめいが手づくりした凧をあげようというイベントをやった時に、南埼玉病院から参加した患者と職員のグループの中にCWだった彼女がいて、初めて出会った。上は、そのイベントを描いた橋本克己さんの絵。彼はまだ家から街に出始めて4ヶ月だった。この絵の風景の中に、畔柳さんもいた。
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 その凧あげの報告が載った月刊わらじは、まだ11号だった(現在は469号になっている)。

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 そこで出会った畔柳さんと何度も会うことになるのは、それから10年後の1988年のこと。3人の知的障害の生徒の県立高校入学を求め、「どの子も地域の公立高校へ!」と県庁知事応接室に3泊4日した(上の写真)数ケ月後。
 ちなみに、知事応接室3泊4日については、このブログのあちこちでふれている。その波紋は、いまなお広がり続けている。

http://yellow-room.at.webry.info/201210/article_1.html
http://yellow-room.at.webry.info/201012/article_2.html
http://yellow-room.at.webry.info/201609/article_2.html
http://yellow-room.at.webry.info/201002/article_12.htm


1988年7月末に筆者が活動日誌に書きつけたこと。
 「橋本父母と話していて、『なんだかんだ言っても、10年前から、みんな明日にでも施設行きだって言ってた人たちが、けっきょく入らないでやってこれたんだからなあ、すごlいよねえ』という話になった。新坂きみ子さんの家、新坂光子さん・幸子さんの家、それぞれお母さんが寝たきりに近くなり、きみ子さんのお母さんなど20分おきにトイレという状態だ。以前元気だったころは、自分が寝付くようなことがあれば、きみ子は病院入れちゃうんだと言ってたけど、施設が少ないということも幸い(?)して、そういう気配はない。橋本母は『いざとなるとなかなかかわいそうで入れられないんだよね』と言うけど、それだけでなく、『こんなにあちこち歩いて、いろんな人と会って、それを楽しみにしてるんだから、施設にじっとしちゃいられないでしょうね』とも言う。光子さん・幸子さん、きみ子さんのお父さんたちも同じ気持ちだと思う。
 藤崎君の家族なんかも、ずいぶん変わったなと感じる。昨日はけっきょくたけやさん(地元商店街会長)の奥さんと藤崎君の母との間で電話で話が通じ、『雨はやまないけど、そのまま一人で帰ってくるように言ってください。』という母の言葉で、藤崎君は雨の中帰って行ったという。そうした経過も含め、たけやさん夫妻は藤崎君の『責任能力』というか『人格』というか、あらためて見直し、『よくわかってるんだな。すごいな。』と言っていた。そんなこんなで10年―もしこの人たちが施設に入ったら、何億という公費が支出されねばならなかったんだぞ。!」

 藤崎君は谷中耳鼻科黄色い部屋から帰宅途中、雨が降って来たのでたけやさんに寄り、自宅に電話してもらったのだろう。言語障害の強い藤崎君だが、パンや飲み物を買いに立ち寄るうちに、少しずつ伝わるようになっていたが、この日の出来事で家族も含めた関係の編み直しがあった。

 かめばかむほど味が出てくるするめのように、地域で共に生きてきてこそ人それぞれが味わいをどんどん増して来ていた。

 以下は、その同じ時期、月刊わらじ7月号に掲載された「克己絵日記」。
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 そんな時、畔柳さんとの再びの出会いがあった。筆者がいまも毎日書いている「活動日誌」の1988年8月23日にこうある。

 「南埼玉病院の相談室で、畔柳さん(ケースワーカー)と約2時間半の意見交換。どちらかといえば、一方的に情報収集させてもらった。その中でこれからのスケジュールと関係することでは、まず9月3日(土)、越谷で生活保護制度についての講演と討論会。講師は『福祉が人を殺す時』の著者。呼びかけ人は、同病院の畔柳さんと小林さん。ぜひ多数参加して、野島さんや山本哲夫さん、木島さん、新井さんあたりの体験を語っていきたいものだ。もうひとつは、9月17日(土)午後5時または6時より、武里団地の畔柳宅でこじんまりした会合。テーマは『ケア付きアパート構想』。その中身は、いまの団地5街区1号棟の同家が転居したあとを、アパート兼訓練場として使おうじゃないかということ。その可能性をめぐり、南埼玉病院から3、畔柳夫妻、やどかりの里の谷中輝夫氏らとぼくも加わって討論しようということだ。畔柳さん作成の原案をもらった。埼玉社会福祉研究会合宿でも、若干とりあげてみたい。」
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1週間余りたった9月1日、畔柳さんは、黄色い部屋に来た。以下は活動日誌より。

 「畔柳さんが帰りがけに、5街区のいまの家を今度引っ越した後、南埼玉病院の長期入院者等の外泊先や退院後のアパートとして活用する計画を、ちょこっと話していった。その計画について、意見を出し合う会に、ぼくも招かれている。そこに『やどかりの里』の谷中理事長も来ることになっている。『やどかりの里』は『心を病む人々』が地域社会で生きていく活動をもう10数年続けている。精神病院に通院している人々が自分自身しんどくなった時、心を開いて語り合える仲間づくりや、一時的に泊まってもいけるたまり場、アパート、そして職場づくりなどをやってきた。『やどかりの里』は、地域の差別や偏見をなくし、いろんな人が地域で生きる活動の全国ネットワークづくりの中心になって来た。畔柳さんが言うには、地元埼玉でそうしたネットワークができないのが、谷中さんたちとしては残念に思っているため、この畔柳宅を『ケア付き住宅』にするという話をきっかけに、南埼玉病院や川瀬クリニック、式場クリニック、そしてわらじの会、埼玉社会福祉研究会などとつながりをもちたいと考えているということだ。」

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 9月3日の活動日誌より。
 「福祉が人を殺すとき」の著者・寺久保さんと講演のあとに立ち話。わらじの会関係で一人暮らしをしながら生保を取っている障害者が何人かいることを知って、彼は『すごいですねえ。そういう一番大変な人たちが踏ん張ってくれると心強いんです。福祉の切り捨てというのは、だるま落としみたいなもんで、下からだんだん落とされていくんですよね。』と言う。」

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 「いま生保の切り捨て攻撃の表に立って集中的に狙われているのは母子家庭、ついで高齢者世帯だ。そういう健全者の強さと弱さをあわせもった人たちが、福祉行政に蹴飛ばされ、この『豊かな』日本で飢え死にするという事件まで起こっている。そんな状況の中で、まったく逆の動き――いわば闇の中の光として、これまで施設や家の奥で一生を終えることが当たり前とされてきた障害者達の自立生活運動がある。たんに『切り捨て』から身を守るだけでなく、積極的に、住まいを、介護料をどんどんぶんどっていこうという新しい波がある。『健常者』といわれる人々にとっての障害者運動の意味がいかに大きいか、あらためて確認させられた。」

 寺久保さんには、それから四半世紀後の2013年にテレサの晩協会に来ていただいた。その時の報告は以下。
http://yellow-room.at.webry.info/201307/article_7.html

http://yellow-room.at.webry.info/201307/article_8.html

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 そして、9月17日の活動日誌。
 「畔柳宅を、精神病院を退院した人の共同アパートにしようという計画についての集まりに参加した。やどかりの里の谷中さんの話はいい刺激になった。やはり精神科病院に勤務する畔柳聖治さん(夫)の思いは、この黄色い部屋をオープンした時のぼくらの思いと重なってくる。自分たちの身銭を切って活動の場を提供したのだから(もちろん前向きに関わってくれる仲間とは一緒にやっていきたいが)、足をひっぱるだけの無責任な第三者とか、『わが子』意識丸出しの親なんかに手足を縛られず、自由にやりたいという気持が、はっきり言ってあった。しかし、谷中さんは、それではだめだと言う。そんな狭い考えではな、こういうところを地域にたくさん増やし、ネットワークをつくってゆく展望でやれと言う。そのためには、家主が運営の最終責任をもつのではなく、家主と一会員という立場に徹し、いろんな人たちに集まってもらって、運営会議のようなものを作るべきと言う。わらじで今度作っていく作業所や生活ホームのこと等、大いに反省させられ、学ばされた。」

 それから10日余りたった9月29日の活動日誌。

 「全労災チラシ配りチームが出たと思ったら、すぐ畔柳さんが来て、4時ごろまでずっとだべっていた。畔柳さんは南埼玉病院の開放医療を推進してきた中心人物の一人だし、同病院労組の核でもある。そういう彼女がここへきて、病院について、労組についての愚痴のありったけを吐いていく。病院の囲いを脱け出て、地域の側から病院を包囲する側にまわりたいのだが、しがらみと不安がその一歩を踏み出させない。が、12月にまた17日のような集まりをやりたいと言っていた。忘年会を兼ねてと。」

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 ここではテレサの前史を1988年の活動日誌に筆者が書きつけた記録から拾い上げてきたが、この時期は先に述べた高校問題のほか、新坂姉妹や橋本克己さんをはじめとして、わらじの会をきっかけに街に出始めた重度障害者達と家族が生死の瀬戸際であがきながら、地域生活を探り合っているときでもあった。その混沌の中から、やがて生活ホームオエヴィスやケアシステムわら細工が生み出されてゆく、その直前だったことを付け加えておく。

 
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 そんな中で、最初の共同住居は、分譲団地の1世帯分を3世帯分に改造し、一人一人が生保を受給し、その住宅扶助を家賃として大家の畔柳夫妻に支払うという形で、利用料はなしの形で発足した。1989年のこと。生活ホームオエヴィスにやや先んじてのスタートだった。当時、県単事業でグループホームの制度はあったが、公益法人か家族会でなければ認められなかったのだ。そんな荒野の中に旅立った頃のことを、今日思い出した。

 畔柳さんが精神病院の開放化のありように関し、思いを共有していたと思われる赤松晶子さんを、テレサの勉強会に招いた時の報告(病院の開放で 病は人に社会にひらかれたか ― 赤松晶子さんのお話) も、このブログにあるので参照されたい。

http://yellow-room.at.webry.info/201211/article_10.html
 

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