共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 津久井やまゆり園の事件とその日の絵日記の旅−分けられた教育・労働・福祉と「すったもんだ」の地域

<<   作成日時 : 2016/07/29 23:57   >>

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  「世界が平和になりますように」という障害者大量殺人直後のメッセージ。

 「2025年問題」、「2035年問題」と称し、少子高齢化の深まりが「自治体消滅」、「社会保障崩壊」をもたらすとして、国を挙げて煽られている危機感。

 その中から浮上している「安楽死」、「尊厳死」、「与死」を叫ぶ声の高まり。そして、すでに人を「臓器工場」とみなすことを公認した「脳死」。

 こうした時代の空気を吸って、彼が殺人者となった。
 
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ここに示された優性思想は、1970年青い芝が「母よ!殺すな」と訴えた、横浜での障害者殺しの減刑嘆願の当時の優性思想とは、比べ物にならないほど膨れ上がっている。

 決して容疑者の特性に帰してはならない。分ける教育、分ける福祉、分ける労働が、私たちの社会をここまで連れてきてしまったのだということ。

 津久井やまゆり園を神奈川県が作ったのが、1964年。高度経済成長に対応した「労働力不足」に対し、農村からの出稼ぎや集団就職が促進された時代。
 さらに家庭生活を支えてきた女性たちを育児、介護をはじめとする家事から解放し労働力とする流れが進む中、家の奥でひっそり生きてきた重度障害児者に対し、「光」が当てられた(「この子らに光を」さらには「この子らを世の光に」 )。津久井やまゆり園は、その先駆けのひとつだった。
 この「光」は、さらに1970年代を通して拡がり、国、都道府県レベルで山奥の大規模コロニーへの隔離・収容施策につながってゆく。
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 同じ流れが、1979年の養護学校義務化だった。これまで「就学猶予・免除」を親から申請させ、家の奥での暮らしを強いてきた国・自治体が、一斉に養護学校をつぎつぎと新設し、地域の学校で学んでいた子どもたちも一律に養護学校へ移るよう強制し始めた。

 とはいえ、1981年の国際障害者年、その後の国連障害者の十年を通じて、こうした分ける施策は必ずしも成功しなかったといえる。
 その要因としては、オイルショックに示されるように、日本の高度成長は終わりをつげ、長期不況の時代が始まったことが挙げられる。

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 また、地域で共に育ち、共に学び、共に働いて生きてゆきたいという取り組みが、全国いたるところで噴出した

 こうして、大規模隔離収容の路線拡大は阻まれたが、分ける施策は新たな路線を準備していた。教育の分野では、普通学級で学びながら週1回ないし数回、通級する制度が導入され、これには反対もなく、年々利用者が増えていった。そして、ずっと減り続けていた養護学校、特殊学級の生徒数が再び増加に転じるのが、1995年前後。それからは、少子化により地域の学校は廃校が増えても、特別支援学校(養護学校)、特別支援学級(特殊学級)は増え続ける。

 このように、山奥への隔離ではなく、地域の中で分ける流れが、進んでいった。2000年の社会福祉の基礎構造改革と介護保険、そして2004年の改革のグランドデザインと2006年からの障害者自立支援法の大嘘!

 「介護の社会化」、「施設から地域へ」、「福祉から一般就労へ」と銘打ちながら、実際はなんだったのか?!
 けっきょくは、福祉の市場化と、非正規労働力の創出が一挙に進み、地域の中できめ細かな分類処遇が拡大した。そして、津久井やまゆり園のような、昔からある山奥の隔離施設も解体されることなく、新たにセンター的な位置づけを与えられてしっかり残っている。
「あかんねん」と言われた養護学校も、なんと「インクルーシブ教育システム」の中で、地域の「センター的役割」を与えられて。
 
 「母よ!殺すな」の時代は、山奥の隔離施設しかなかったから、かなり重度の障害者も街の中で働いていた。差別に満ちた現場ではあったが、差別をかわしたり、ごまかしたり、時には闘うすべも身に着けた。相手も、いじめやからかいもしたが、時には怒りの反撃にあい、つきあい方をいやおうなしに身に着けた。青い芝の横塚さんも、生家の土地の一角で養鶏場を営んだと聞く。ある自閉症の少年は、毎日学校帰りに自転車屋へ寄って、主人の修理や組み立て作業を暗くなるまで眺めていて、卒業後に弟子入りすることになった。

 そんな地域にも受け入れられず、家の奥でひっそりと、時には縛られたりもして生きていた重度障害者がおり、その家族の負担を肩代わりし、本人も死ぬまで安心して生きられる場として、津久井やまゆり園のような大施設が作られたのだった。

あの盲ろう・下肢マヒの橋本克己画伯も、1979年3月、埼玉県立コロニー嵐山郷の入所決定が来たが、家族は悩んだ末、泣きながら「もう少し地域で生きてみよう」と入所を断った。その当時のことを、母ミツエさんはこう書いている。(下の写真は、その当時の、まだ家から出始めたばかりの橋本画伯)

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 「克己を抱えて毎日の苦難が続いた。
 毎日病院通い。3年機能回復のために通った北療育園で訓練方法を学び、自宅でも訓練を施した。子どもが不憫で、「死」という気持ちになったこともある。でも、深い愛情は続いた。正常な子と同じ喜びや楽しみを味あわせたいという親心から、自転車を改造し車椅子にして、外で遊ばせるようにもした。遊園地や行楽地にも連れて行った。
 だんだん体も成長し、家で閉じこもるようになり、暴力をふるうようになってしまい、骨折数回、眠れぬ夜がたびたび続いた。
 このままでは家族ともダメになってしまうと思い、福祉の正木さんにもお願いもした。昨年10月、工藤さんからの明るい話『わらじの会』 進んで参加させてもらった。私も見に行った。楽しそうな姿を見て、本当に生きがいを感じた。
 わらじの会に参加して8ケ月。嵐山コロニー入所の許可も無視して。今では、例会や手話、またセントラルで泳ぎを練習。克己も世界の広がり、大勢の人たちとのふれあい、社会性に尽くして下さる皆さんに感謝しております。」(月刊わらじ 1979年6月号)

 ひるがえって、現在は市場化された福祉が市場競争を通してさらに市場拡大を進める中で、「地域の施設化」と言うべき状況が生じている。そこでは、障害の状況や家族の状況、自治体の方針等も含めて、地域の中できめ細かに生きる場を分け隔てられる。分けるために莫大な資本が投下され、分けたことによって、また新たなサービスが求められ、また投資が行われる。

  障害の特性や本人のニーズに合った個別支援という名目で、一人一人が独立した人格としてではなく、支援があって人格たりうる存在として位置付けられる。かってのようなあからさまな差別は影を潜めた代わりに、支援者なしでは対等に付き合うことができない、特別な市民として、敬して遠ざくべき対象となる。

 また、福祉の市場化がとめどなく進むことに対し、社会保障費の「費用対効果」を問い、「自助」・「互助」の価値が重視され、「生命(生活)の質」の評価が叫ばれている。その渦の中から、「脳死」に続く「安楽死」、「尊厳死」、「与死」の合唱が大きくなろうとしている。

 津久井やまゆり園で犯人が選んで襲ったという「意思疎通できない人」というイメージこそ、この「個別支援の対象者」であり、「生命(生活)の質」を評価さるべき対象者であるという視角からの人工的産物だ。だから、このイメージは、巨大施設・やまゆり園という場だけでなく、施設化された地域のあらゆる場面で再生産されるだろう。

 なにを考えてるのかわからない、しゃべらない、まったく動かないように見える子どもに、一緒にいる子どもがちょっかいを出す。そして笑う。次の瞬間には、その子を忘れて、他の子と遊び始めたり、けんかしたりする。あの子がそっちをみつめる。意志疎通とは、そんなすったもんだのことだ。

 以下は、津久井やまゆり園の事件の日、7月26日(火)に、まだ事件のことをあまり知らなかった筆者をはじめとする「絵日記の旅」一行がたどった「すったもんだ」。facebookにUPしたもの。
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 盲ろう下肢マヒの橋本克己画伯、褥瘡の手術を終え加療継続中。絵日記の旅一行は、本日も画伯ご託宣を忠実に守り、春日部へ行き帰路に画伯を見舞う。マドンナ達と手と手を合わせ、満面の笑みの画伯。その様子を見て、隣のナースステーションから、「気晴らしになるわね」、「少し視えるの?」、「少し聴こえるのかしら?」と看護師さんたちがかわるがわる。今日も電源OFFのTVにつなげたイヤホーンを装着している画伯に、不思議不思議という様子だったらしい。
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 1Fで行きと帰りに通院介助中らしきヘルパーのMさんに会い、待合室で障害者の親Iさんに会う。Mさん、「あらもう帰るの?」
たしかに10分ぐらいの面会時間だけど、絵日記の旅7人の存在感は十分。

 後から母ミツエさんに電話で報告したところ、明日傷跡の処置の指導を受けに行き、明後日退院予定とのこと。

 本日は、画伯の前に、精神科病院長期入院中のKさんにも久しぶりに面会してきた。かなり腰が曲がり、何度も「ボケちゃった」と口にしていた。かって退院促進の候補として紹介され、絵日記の旅にも一時参加していたのだが。


 2006年以降、「入所施設から地域へ」、「精神科病院から地域へ」、「福祉施設から一般就労へ」という目標が、常に福祉計画の柱としてたてられてきたが、うさんくさい感じがしてならない。

 「福祉施設から一般就労へ」という目標については、就労移行支援という新たな通過型施設を作ってしまった。これまでの授産施設や更生施設にあたる就労継続Bとか生活介護から一般就労へというならわかるが。けっきょく実績はほとんどが就労移行支援からで、しかも全国平均では就労移行支援利用者の3割くらいにすぎないのだから、国の計画自体が羊頭狗肉というしかない。

 その国の作戦に動員されて就労移行支援サービスを立ち上げた事業者の中には、稼げるときに稼いで、潮目を見てさっと資本をひきあげようという事業者もいるだろうが、まじめに就労移行支援をしようとする事業者に対し、本来なら職場実習やトライアル雇用等を地域の事業所が受け入れやすいように国が自治体を通し地域の企業への支援等の環境整備をしなければならないのに、カネ以外は何も支援しない。
 以上のことについては、稿を改めて述べるので、これくらいにしておく。

 精神科病院からの地域移行について考えると、病院としては「まず受け皿を確保して地域移行」という発想に行ってしまう。下図もそれを示している。

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 筆者が関わっているグループホームに精神科病院のケースワーカーが電話してくる際、「いま空きはないが、見学はいつでも受け付けているのでどうぞ」と答えると、それで連絡は途絶えてしまう。

 地域で暮らすということは、さまざまなリスクや迷いを経験しながら周りとの関係を築いてゆくことだ。精神科病院のスタッフもそのプロセスにまきこまれながら支援のあり方を変化させてゆくことこそ地域移行のひとつの要点だとつくづく思う。

 絵日記の旅でつきあってきたKくんの場合も、長期入院者が外へ出れば、禁止されてきたことを一挙にやろうとして周りとトラブルになるし、周りは病院スタッフとは異なって人によりさまざまな対応をする。そこでもまれながら折り合いをつかみ取ってゆくしかない。それを旅の仲間としてつきあいながら、一緒に試みてみようというのが、絵日記の旅。社会的入院の世界と街の間には、みえない大きな断絶があることを、病院スタッフも時には一緒に体験して感じ取ってほしかった。Kくん自身、疲れて、外へ出られなくなり、参加が途絶えてしまったが、そういう波を含めて、移行のプロセスとして、病院からも地域へ出てゆく姿勢を保てないものか。

 そういう姿勢がないままに、受け皿ばかりを求める発想が、病院敷地内グループホームとか、病棟転換型施設につながっていると考える。

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