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zoom RSS 貧しいけれど人と魚鳥と共に生きた「越谷」への時間旅行―山崎昭二さん 画廊喫茶3日目のトーク

<<   作成日時 : 2016/04/18 00:17   >>

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画廊喫茶@世一緒 三日目(13日)の午後のゲストは、山崎昭二さん。越谷に生まれ育ち、人形職人として、また図書館をベースにした読書会主宰や地域の文芸誌「川のあるまち」の編集長など、多彩な地域文化の担い手として生きて来られた。
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 以前ご恵贈いただいた著書「秋」を、私のブログで紹介した。時代の秋が深まり冬へと向かおうとする状況を、春や夏の回想を織り込みながら、ていねいに刻みだしていた作品。その小さな本の奥へ、みんなで連れだって迷い込んでみたいと思い、お招きした。
http://yellow-room.at.webry.info/201502/article_4.html


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 「期待」通り、世一緒のある東越谷のかっての風景の中へ。子どもの頃、母に手を引かれて、東福寺の近くのどんぐり神社のそばの実家に行き、昼ご飯を食べさせてもらって帰った。それを「食いっ稼ぎ」と称していた。食糧難の時代だったので、食べさせてもらうことも「稼ぎ」だった。
 少し大きくなると友達とも歩いて来た。大沢の家から1時間足らず。世一緒のすぐ近くの東福寺一帯から世一緒のほうまで砂地の山になっていた。昔は土葬なので、砂から頭蓋骨や肋骨などが現れてきたりする。鉄錆色になっていた。

 なお、上および後掲のhttp://bc6745de.sakura.ne.jp/mingas/newpage028.html航空写真は、米軍が撮影した1956年の越谷(越谷市郷土研究会の「上空から見る越谷・大沢・蒲生」より)。
 この写真に写っているのは、現在の東越谷で、左の元荒川は大きく溜井を形作り、市役所も現在の平和橋もまだない。代わりに、やや下流に昔の平和橋が写っている。山崎さんによれば、穴がところどころ空いた危険な橋だったという。
 この写真にも写っている東福寺の山にはクヌギやナラの木が茂っており、オオクワガタやノコギリクワガタ、カブトムシを捕った。野兎の足跡が砂地に点々とついていた。ワナをしかけたことがあるが獲れなかった。

 世一緒側の川岸は「ヤッカラ」と呼ばれ、茅や葦がびっしり繁茂しており近づけなかった。(「ヤッカラ」と似た「スナッカラ地蔵」という愛称の「花田のお地蔵さま」(1655年)が「郷土越谷写真集―越谷の板碑・石塔・石仏」というHPで紹介されていた。http://homepage2.nifty.com/hatazoku2/index.htm  

 ここから類推すれば、「茅河原」ということになるのかも。)茅葺屋根の材料として冬に刈り取るために育てている。山崎少年は、その茂みの中に分け入って鳥の巣を探した。巣が見つかったが中にあったのは卵ではないようだ。カヤネズミの巣だったのだ。

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 現在市役所と世一緒の間にある平和橋は、そのころなかった。市役所もなく、その一帯は瓦曽根溜井といって、元荒川が広がり水をためる場所になっていた。そこから四ヶ村用水、葛西用水、八条用水などに分流して一帯の田んぼに水を送っていた。上の写真は、越谷市役所HPからだが、この瓦曽根溜井を埋め立て、葛西用水と元荒川を分離する工事を行っている様子。

 ここまではまだプロローグで、さらに元荒川のウグイやナマズやウナギの話や、シラコバトとヤマバトと伝書鳩の話などにつながり、ヨーロッパのハトへも広がってゆく。昔、「鳩がゴボウを背負ってきた」(「鴨がねぎを」でなく)という表現があったという話も。
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 子どもの頃、大沢や恩間は洪水がすごかった。自宅は二階家だったので、近所の人が二階に避難してきた。すぐそばに昔からの遊廓があったが、遊廓の家の壁はあさぎ浅葱色(スカイブルー)をしていて、その壁に洪水の跡が何層にも残っている。キャサリン台風の層より上にさらに三つ跡があった。洪水になると、堤が決壊すればその対岸は助かるので、切れそうになると農家の人が堤防に集まってきたあっち側に水を流そうとする。それで江戸時代にはけが人が出るような大喧嘩になった。明治に入ってからも、恩間では、止めに入った巡査が農民に殺されるといった事件も起こっている。
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 そんな情景を育ち、山崎さんはいまも越谷に生きる。便利になり、豊かになったが、昔とどっちがいいだろうかと自問自答する。魚を捕ったり、川へ入って泳いだころの越谷はない。田んぼに行ってもカエルの声を聴かない。中学生の頃、田んぼに赤い△b田が立って、入っちゃいけない、川で泳いじゃ行けないと言われ、空から農薬を散布したりした。池の鯉が死んだりした。前に入院した時、同じ病室にいた人が、若いころ農薬を近所の農家で一緒に撒いていて具合が悪くなり入院してしまったという話をしていた。子どもの頃は、大沢にはパン屋が2軒しかなかった。配給の切符がないとコッペパンも買えなかった。戦争になると格差がなくなると、トマ・ピケティという人が書いている。金持ちが自分の国が勝つようにと、どんどん金を出すからだそうだ。モノローグのように終わる。
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 人形のことは、質疑応答に入ってから初めて語られた。江戸時代から継承されてきた越谷の人形が、これもまた歴史の「秋」を迎える中で、山崎さんは生きてきた。


消滅していた「越谷練雛」を復活させたり、新しい越谷土産として天然記念物シラコバトの鳴き声を出せるしらこばと笛を創った。そのしらこばと笛が、障害者たちや関わる者たちとの小さな縁を結んだ。
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 山崎さんと初めて出会ったのは、私たち新住民と農家の奥で生きてきた障害者たちが、共に生きる街を手探りしている頃だった。しらこばと笛を試作したから絵付けをやらないかと声をかけられた。障害者のほとんどが手が利かなかったので、辞退した。30数年前のことだ。
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 山崎さんの子ども時代に重なる文化が、農家の奥の障害者たちのくらしに息づいていた。山崎さんすら食べたことがないシラコバトを、私は食べたことがある。彼女たちが持ってきた弁当のおかずだった。
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農薬と機械、米専業の農業になり、かって縁側で座ったままやっていた綿繰りや豆の殻むき、トマト拭き等の仕事が消え、「ごくつぶし」になった障害者たちは十分な食事も与えられない状況に追い込まれたが、老父がハウスに迷い込んだシラコバトを蛋白源としてくれたのだ。それをおばあちゃんが煮てくれた。ちなみに、上の写真は、ネット上で「maruの写真記」よりコピーさせていただいた。→http://blogs.yahoo.co.jp/ym0546/24621350.html

また、他の農家に嫁に行った姉は、若いころ雑魚を獲る名人で、田んぼに水が入った時久しぶりに雑魚を大量に獲って届けてくれた。その分け前もいただいた。時代から切り捨てられた人々だからこそ、細々とした生活の支えとして受け継いでいた文化だった。
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 そして、山崎さんの話からも、また切り捨てられた障害者達と街で生きることからも、いま社会通念として提示されていることが、いつでもどこでも通用するわけではないことが透けて見えてくる。異なる立場、階層の人々が、ぶつかりあいながら一緒にいることの大切さが示される。下の航空写真は、やはり1956年に米軍が撮った越谷市大沢の街。山崎さんはここで生まれ育った。
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