共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

アクセスカウンタ

zoom RSS 障害者権利条約と「社会」・「世間」・「しがらみ」を考える −第4回にじさんぽセミナーを終えて

<<   作成日時 : 2016/02/07 00:03   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

画像

第4回にじさんぽセミナー報告のつづき。前回の報告には、「障害(しがらみ)の破壊力―ドン・キホーテはいま」とタイトルを付けた。以下参照。
http://yellow-room.at.webry.info/201601/article_11.html

だが、セミナーのほんとうのタイトルは、「僕の生きる道」だ。そして、「僕」とは第2部で講演した障害者・湯浅さんのこと。

 そして、第3部の意見交換に先立って行われた発表のタイトルが「私の生きる道」。この「私」が、シュバルツ 梓さんだ。


 彼女は21歳の夏に京都へ一人旅をした時に、3人のドイツ人の空手家と出会ったことがきっかけで、ドイツの文化やそこに住む人々への関心が強まり、ドイツに初めての海外旅行。帰国後ドイツ語を習い、さらにはドイツに住んで生活してみたいという思いが増して行った。

画像


  5年後、フランクフルトの日本レストランの求人に応募、就職が決定し、27歳の夏からドイツ生活に。そして、28歳の秋、行きつけのカフェ「カンテ」で、現在の夫「ボルちゃん(ヴォルフガングさん)」と出会い、29歳で結婚する。31歳で、日本レストランを辞め、しばらくしてドイツ人おかみの経営するカフェレストランに就職し、いまもそこで働いている。

 33歳の春、娘を出産。現在は子育てに奮闘中で、夫、娘と共に日本に帰ってきている。

 「帰れる場所があることに幸せを感じます」と語る彼女だが……
画像

 日本に帰って来て、ある日、電車の中で緊迫した雰囲気を感じたという。資料集に載っている例によれば、電車で赤ちゃんがわんわん泣いていて、乗客たちは「すごく痛そうな目で」その母子を見ており、母親はひきつっていて、けっきょく途中下車してしまった。また、通勤ラッシュ時の電車に子連れで乗り、シルバーシートの前に立った時、みんな下を向いて眠っていて、誰も席を代ろうとしない。

 あずささんは、「あっ、これが今回のセミナーのテーマであもある『生きづらさ』なんじゃないか」と思ったという。
そして、「この国での生きづらさは、障害者に対してだけでなく、社会が生きづらくなっている」と続ける。

 夫の「ボルちゃん」も、日本の印象として、「人々がものすごいストレスを感じているように見える」という。「フランクフルトの人達もかなりストレスの日常のなかで生活しているが、ちょっと立ち止まり、何か耳を傾けたりするだろう」と。

 ドイツから帰って日本の生きづらさを実感したというあずささんの話は、かって1990年にわらじの会に初代1年間ボランティア(若者が他人の釜の飯を食ってその地域活動に貢献する事業)としてやってきた矢野陽子さんを思い出させる。

画像


 彼女が1年間の活動日誌を編集して出版した「まいにち生活です ―街で生きる障害者と共に―」(はる書房 1991年)の冒頭に、「こんなところに アメリカがあった」という章がある。彼女は、中学校や高校で、クラスの中がグループに分かれ、どこかのグループに服属しないといけない雰囲気になじめず、孤立に追いやられたという。大学に入って縛りがなくなると、アルバイトしてはその金で休みのたびにアメリカに出かけた。アメリカにゆくと身も心もしがらみから解放され、自由で独立した人格になれた。

だから「ここにアメリカが」という言葉は、「私にとってのアメリカが」と言いかえて受け取る必要がある。

 わらじの会の、家の奥から街に出て間もない障害者たちやそこにひきずられながら試行錯誤する人々と出会った時、彼女はアメリカに旅したときと共通する感覚を味わったという。 

 彼女が来た時から9年間にわたり、1年間ボランティアの寄宿先は、聾唖、弱視、下肢マヒの橋本克己さんの家の続きだった。長屋の一角で、水洗便所はなく、風呂も橋本家に借りに行かなくてはならない。そんなプランバシーのない暮らしなのに、なぜ矢野さんは解放感を感じられたのか。

 おそらく、成人前まで家の奥にこもって暮していた克己さんが街へ出始めたことにより、毎日のように街での事件が起こり、家族みんなが振り回されながら、一緒に生きていた、筆者の言う「しがらみが編み直される」プロセスに引きずり込まれたからではないか。

 さらに、彼女も含めて、1年間ボランティアの多くは、それぞれにどう生きていいか迷い、切羽詰まっていた。だから、就職や進級・進学をやめて、わざわざ見知らぬ土地の「しがらみ」にまきこまれるために来ている。しかも、1年間だけしか生活保障はない。あの湯浅さんが、埼玉に向って新幹線に乗り込んだのと同様の、帰る所も不明な旅なのだ。しかし、だからこそ、全ての風景がこれまでとは違って見えるということがある。

画像

 当時の克己さんのパワーは、この第4回にじさんぽセミナーの報告者・湯浅さんのように新潟から東京に出て来て野宿するといったスケールの大きさはなかったにせよ、今日も明日も明後日も、終りのない出撃を社会に向って続けていたのだった。

 ところで、生きづらさをはらむ日本に帰国して、あずささんは「毎日、母ちゃんの料理を食べれること、そして何よりも、帰れる場所があることに幸せを感じます。」と書いている。そして、続ける…「いつか、日本の田舎で夫と誰もが集い、笑い、楽しめるカフェのような店をやることが夢」と。

あずささんがイメージしているのは「カンテ」。その「カンテ」は、先代が引退するときに、そのやりかたを引き継いで店をやってゆきたいという若い人たち3人が名乗りを上げ、以後20年間にわたって、かっての雰囲気を守り続けているという。店はそう広くなく、相席になることが多い。あずささんはそこで日本にいる誰かに手紙を書いていたら、「それは何語ですか」と話しかけてきたのが「ボルちゃん」だったという。
 顔見知りばかりがたむろしてよそ者が立ち入れない場ではなく、逆に誰もがプライバシーを守って互いに干渉しない場でもなく、異なる者同士が出会うことで相手を知り自分を再発見するような、ひらかれた近しさをあずささんは求めているのだろう。

画像

 この思いは、かって1980年にスウェーデンで出会った障害者・丸山武時さんに通ずるのではないかと感じた。上の写真の左が丸山さん。右はわが連れ合い。時速15キロの戸外用電動車椅子を見せてもらっているところ。

 このスウェーデンでの見聞を私たちは「ハンディキャップ・レポート −親と子のスウェーデン福祉体験記」(埼玉社会福祉研究会編 現代書館 1981)にまとめた。
 重度重複の障害をもち通常学級に学んでいた白子健次くんとともにこのたびに参加した母・白子富士子さんが、この本の中で丸山さんについて書いている。

 寮に住んでいるただ一人の日本人、丸山さん(31歳)のバスルームを見せてもらいました。 彼は日本を23歳の時に出てきたそうです。そして、各国をてんてんとして、スウェーデンに来たそうです。冬の雪の降る日に自転車に乗っていて、谷底へ落ちて首の骨を折り、全身まひしてしまい障害者になったのです。そのころは、フィンランド女性とその子どもと3人で暮していたそうです。今は、事故が原因で別れたそうです。丸山さんはモグリで働いていたため「病気手当」が出なかったそうです。でも、病院にいる時のお金は、スウェーデンに8ヶ月いたので、医療費は出たそうです。そして病院を出てから、医者の特別の計らいで、ボルモーラの学生になって、学生寮に入れたそうです。はじめは、部屋代や生活費は日本から仕送りをしてもらっていたそうです。でも、今年から「病気手当」がもらえるようになって、仕送りをしてもらわなくてもよくなったそうです。タクシーで月一回レストランに食事に行けるぐらいの金額だそうです。

 丸山さんはとてもしっかりした人で、スウェーデンで大学の教師になることを目指して、スウェーデン語の勉強をここでしています。学校が終ると、時間を決めて自分で一生懸命に歩く訓練をしていました。丸山さんは、「日本へ帰りたい。でも、親はもういないし、兄さんだけだ。日本に帰っても生きていけない。やはり、スウェーデンでなければ生きてはいけない」と話していました。

 
 
画像

 その丸山さんが、なんと、1989年、日本に帰って来た。故郷の京都・山科に住み、英語塾で生計を立てた。そして、1997年、「スウェーデンでのハンディーキャップ生活 12年間」という小説風の著書を自費出版した。

 私たちが丸山さんと出会ったのは、RBUという障害者団体が建てた職業訓練校の学生寮。そこに泊めてもらって、毎晩、障害学生たちとおしゃべりした。この本では、丸山さんが障害者になってから学生寮に来るまでが前半で、その後寮からアパート生活になり働いたり、運転免許を取って車を買ったりした後、帰国するまでが後半部。

 この本のまん中へんに、私たち埼玉のメンバー(母親、連れ合い、教員)とのやりとりが出て来る。便宜上、丸山さんを「丸」、こちらを「親」としておく。

 親「きょう行った会社ね。あれじゃあ、まったく経営が成り立たないと思うわ。」
 丸「どういう会社だったんですか」
 親「ほとんどパッケージ専門を扱ってる会社で、電動車椅子に乗ってる子がほとんどなの。世話をするひともいるし、セクションリーダーがほとんど面倒見てるの。清潔だし、仕事のノルマもなく、のんびりと仕事してるの。あんなのは会社じゃなく、ひまつぶしの施設よ。だのに、給料は人並みにもらってるんだって。まったくわからないわ。」
 丸「この国のハンディーキャップに対する職業の考えは、利益とか経営を考える前に、どのように社会に参加するかを考えるんですよ。」
 親「そんなことをしていたら、損失ばかり出して、すぐにつぶれるから、日本ではとっても考えられないわ。」
 丸「そうでしょうね。日本では、これからどんな社会福祉が好ましいか、試作中でしょう。それにくらべ、スウェーデンでは、福祉というものが理解されていて、それをどれだけ有効に使い、人間生活を普通のようにしてゆけるかということですよ。たとえば、足の悪い人には、車イスやペエモービル、義足、手の悪い人には義手や特殊な鋏、スプーン、ナイフといった、ありとあらゆる補助器具は無料で受けられるんですよ。それが少しでも普通の人間に近づける最善の方法なんですよ。それに、ハンディーキャップの人たちの給料だって、出来高払いじゃなく能力払いなんですよ。」
 親「能力払いならば、ハンディーを負った人は損ね。」
 丸「それはちがいますよ。能力払いというのは、そのハンディーキャップの人が、自分の能力に応じて出来る限り仕事するということですよ。そうすれば、彼らも普通の人と同じ給料を受けられることですよ。」

 
画像

 このように理解しながらも、あるいは理解しているからこそというべきか、彼は私たち埼玉のメンバーが泊めてもらったお礼に学生寮で開いた交流パーティーに、過大ともいえる感激を覚え、次のように書いている。

 トキはこの時、日本人たちの心遣いと親切さに、いたく感激を覚えた。これがスウェーデンの福祉にはないことだと感じた。いま、この国は、福祉を金で片付けようと、思えてならないのである。このような思い出を残し、わらじの会は去って行った。

 それから間もなく、別れた女性と息子がフィンランドの親元近くに移住するというので、丸山さんはアパートに残してきた荷物を取りに行く。
 
 福祉が整いすぎているため、トキは別れさせられたとも言えるのである。それには、ラレの心の隅には、トキが一人で生きて行けるところがあることを知っていたからである。もしも、別れて行く所がないと知っていれば、別れるわけにはゆかなかったであろう。

 いま別れれば永遠の別れで、トキの微かな希望もこの瞬間で消え去る思いであった。ストックホルムにラレたちがいれば、何とか頑張り元気になれば、また一緒に暮せるかもと、願っていたのだった。


 そして、学生寮に入る時の状況をこう書いている。

トキは、もし日本だったら、このように一緒に住んでいた者がハンディーキャップになり、自分の好きな道を行くため別れることが出来るのか、疑問に思った。これは、先進を行く社会福祉が」、このようなモラルを人々の心に住み着いたのであろう。スウェーデンは昔、寒くて貧しい国であったため、いち早く社会福祉に目覚め、発達してきた。今では人の心から昔の道徳が失われて行った。身体障害者や老人は、施設で生活することが幸せというモラルである。それに十分な社会福祉が受けられるため、施設に送っても良心に痛みを感じないようである。そうして、人々の心から温かく包む何かが失われて行った。

 ラレもその一人である。日本人のトキにはどうしても理解できずにいた。日本でこのように利己主義的なことをすれば、一生何かを背負って生きなければならないであろう。またスウェーデンには、このようなことをしても、ごく一般的であるだけのモラルができあがっているのである。これは、なんといっても、完璧なほどの社会福祉がなせるわざである。

画像

 個の自立を支えることと、関係を生き合うことはイコールではないどころか、まったく次元が異なることを、私たちはその翌年に実感する。1981年、国際障害者年にRBUを日本に招いた。私たち埼玉社会福祉研究会と小山内美智子さんが代表を務める札幌いちご会、そして東京では一番ケ瀬康子さんが急遽「東京社会福祉研究会」という組織を作って、三団体で招待した。なかでも言い出しっぺの埼玉は、差別隔離を含めて共に生きる現状をスウェーデンの友人たちにぶつけたいと考えて1週間の企画を練った。
 
 上の写真は、現在埼玉県定期刊行物協会をとりしきっているベテラン障害者・仲沢睦美さんが若き日、寝たきりのお母さんを介助しながら、離れで暮しているところに、RBUの最も活動的なクラースを招いて交流した様子。クラースは、わが家のバスルームくらいのスペースに二人が生活していたのに、素朴にびっくりしていた。
画像

 実はクラースは、ここに来る途中で駅の階段を担がれて怖さでひきつっていた。スウェーデンでは障害者達はバリアがないニュータウンで主に暮しているため、階段をかつぐという発想がない。当時の日本ではごくあたりまえの日常であり、ことに埼玉ではかついでもらうことを通して、新たなつきあいをひろげてゆく契機としていたセンスと大きく食い違う。

なお、スウェーデンRBUを招いての交流に関しては、このブログの以下のページも参照を。

http://yellow-room.at.webry.info/201206/article_4.html

画像

 国際障害者年の1981年は、大きな転換期だった。RBUは、その前年にわたしたちがスウェーデンで学んだ[
社会的不利益」という概念は、いまや見直さなくてはいけないと語った。できる・できないというモノサシも含めて、障害とは社会的産物・社会的障壁なのだと。そして、この年、RBUを含む世界の障害者達はさまざまなちがいをひきずりつつ、一つのインターナショナル・DPIを発足させる。それが、障害者権利条約にいたる出発点となる。

 
画像

 1993年に見えたUCLLAの障害学生担当のスーザン・オハラさんは、駅などで他人の手を借りる時、人間の尊厳を傷つけられたと感じると述べた。アメリカでもどこでも、初めの一歩はからだを張って、周りの人々の手を借りて行われたが、環境整備が進んでくると、他の人々との関係が見えにくくなってゆく。日本の現状でも、バリアフリーに慣れた人々は、バリアがいっぱいで他者の手が不可欠な状況には、大きな抵抗感を抱く時代になっている。それは災害時の見えない壁にもなってゆく。

 1981年、「われら自身の声」を柱とするDPIが結成され、それを拠点に、国連・障害者権利条約が制定され、全世界に大きなインパクトを与えた。
 とはいえ、差別と包摂(共生)をめぐる関係は、それぞれの社会の成り立ちにより、さまざまなかたちをとる。
 さまざまに異なる経験がぶつかりあって、国連の障害者権利条約が成り立っていることを、忘れてはならない。
 
 特に、日本において差別と共生を考える時、「社会」ではなく「世間」とのからみあいを抜きに考えられない。この「世間」は、筆者の言葉では「しがらみ」となる。

 わらじの会の歴史の中での「世間」≒「しがらみ」については、このブログの下記のページを参照のこと。
http://yellow-room.at.webry.info/201402/article_5.html

画像


 ドイツをはじめとする西欧中世史の研究者・阿部謹也さんが定義する「世間」という概念は、「社会とは異なり、その人が関わっている人間関係の環」ということであり、学校(クラス)、職場、家庭、ご近所といった関係を示す。そこに生きる個々人は、「個人同士がつきあう時でも周囲を気にし、闊達とは言えない雰囲気を持っていることになってしまう。そのことは外国人から見るとよくわかるらしい。」(阿部謹也 「『世間』とは何か」 講談社現代新書 1995)

 「西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって、個人の意思に基づいてその社会のありかたも決まる」(阿部謹也 前掲書)

 この「社会」や「個人」は、全世界で通用するように思いかねないが、そうではない。欧米社会の、それも限られた階層、状況においてのみ成り立つことなのだ。先に述べたスウェーデンでの丸山さんの経験を思い出してほしい。

画像


 私たちは、1981年にスウェーデンRBUを日本に迎え、埼玉県内の大規模入所施設や在宅障害者の生活を見てもらいながら、意見交換し、両国政府への共同声明を発した。特にこの共同声明は、スウェーデンの人びとからの提案であり、私たちは「共生社会をつくってゆくこと」と「地域で共に生きること」のベクトルのちがいを感じさせられたことだった。いまふりかえってみて、これらはどちらも欠かせないことだと感じる。
画像

 阿部さんによれば、12世紀までの西欧にも「世間」と同じような関係が存在した。その深部から、「自立した個人」とその個人が集まって構成する「社会」というシステムが18世紀にかけて作られて行った。その歴史的蓄積の上に立って、現在がある。

 とはいえ、「自立した個人」による社会を守るために、1950年代までの欧米は障害者を隔離・抹殺してきた。その反省の上に進められたノーマライゼーションは、これまで互いの存在を知らなかった人びとが出会う以上、どこまで行っても対象者とサービス提供者という、保護と管理の関係を脱することが難しかった。
 丸山さんと私たちがスウェーデンで出会ったのは、まさにこのノーマライゼーションが未曽有の規模で大胆に進められていた、社会の大改造の時期だったことを念頭に置くべきである。

 正直なところ、丸山さんが日本に帰って来てから数年後、自著の草稿を送ってもらった時、あまりにも日本の人間関係を美化し、スウェーデンの歴史的な取り組みを否定している印象を受け、共感できなかったことを覚えている。当時の日本は、さまざまな障害のある人々と関係者が、全国各地でその地域に根差した暮らしや仕事のスタイルを自治体に施策化させている状況であり、国レベルでの動きはずっと遅れていた。だから、丸山さんの悩みはぜいたくに響いてしまったのだ。しかし、いま振り返って考えれば、そこに本質的な問いかけが潜んでいたのだ。


画像

 「結婚によってはじめて管理から解放されたと感じた」とは、2005年に来日して、生活ホームオエヴィスやべしみでも交流したオランダのピープルファーストのメンバーの言葉だった(上の写真)。彼は、それまでに施設からグループホームへ、そしてアパート生活へと地域移行して行ったのだが、どこまで行っても専門家に管理されている感覚をぬぐえなかったという。

 今回のブログでは、第4回にじさんぽセミナーの報告というより、その後帰ってから考えたことが多くなった。

 これまでの考察は、障害者権利条約に貫かれている「障害の社会モデル」を、金科玉条に唱えるだけでなく、それぞれが生きている場で咀嚼するというひとつの例を提示したと考えてよい。そして私たちが生きる生活の場としての地域をについて考えてきた。

 丸山さんのさびしさと、湯浅さんの爆裂パワーは根っこが同じだろう。そして、あずささんの感じた日本の生きづらさとそれでもKanteのようなオールドスタイルのカフェを日本の田舎でやりたいという思いも、その根っこにつながっているのではないか。、

 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
障害者権利条約と「社会」・「世間」・「しがらみ」を考える −第4回にじさんぽセミナーを終えて 共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる