共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 安房・鋸山に登り、労働と仏教と戦争の跡をめぐり、わらじ初期の軌跡を偲ぶ

<<   作成日時 : 2016/01/02 16:15   >>

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2016年、明けましておめでとうございます。今月末に73歳になりますが、まだしぶとく生きています。ご;迷惑は承知ですが、もう少々おつきあい願います。年頭のブログは、暮れも押し詰まって、南傍証へ行って来た報告を。

大晦日の前日、連れ合いと安房・鋸山へ行ってきた。浜金谷駅からの道の前方に鋸の刃が。
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車力道コースをとる。切り出された240kgもの石材を、2輪の車に載せて、主に女性が人力で運び下ろしたという道。もっと軽い車イス使用者と坂道を降りるしんどさを知る者として興味深い。
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道の端にずっと実っていたフユイチゴの群落。つまんだら甘酸っぱかった。
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ハナミョウガも赤い実をつけて迎えてくれた。

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そして、ヒメモチかなあ。
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ジンチョウゲのような花が咲いている株もあった。冬の低山の彩り。

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車力道に刻まれた「軌道」。
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 やがて石切り場跡。
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後で行った日本寺に戦時中「全山要塞化」されたとあった。1945年4月1日、アメリカ軍上陸を迎え撃つ本土決戦の前線として、東京湾要塞戦闘指令部が館山市に設置され、同時にこの鋸山に大地下要塞を築き最後の抵抗拠点としての戦闘指令部を予定したという。たしかにその要塞の遺構らしきあたりに「ここに立ち止まらないでください」との標識があった。石切り場跡を秘密指揮本部とする計画だったのだろう。
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そこを過ぎてさらに登ると尾根に。陽がまぶしい。
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鋸山山頂は誰もいない。山頂近くの見晴らしのいい場所で、ゆっくり昼を食べコーヒーを淹れる。
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 静かな山旅でいいのだが、ガイドブックにあった「地獄のぞき」や「大仏」などが山頂近くにあるはずなのに不思議だった。山頂から石切り場跡まで戻って、石切り場の下端を回り込み、さらにかなり登った所に料金所があり、そこを入った所が日本寺の完全管理区域で、大人600円、子ども400円を払わないとさまざまな「名所」には行けない仕組みになっている。
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 ここに入ると一挙に人が増える。駐車場がすぐ脇にあり、ここまで車で来れるから。あるいは、ロープウェーでも来られる。そして、ガイドブックで「山頂付近」とか時には「山頂」と書いてあるのは、私たちがさっき登ってきた三角点のことではなく、この管理区域の中の最高地点のことを意味していたことが分かった。観光パンフレットも同様で、鋸山三角点への道は方角だけしか描かれていない。
 ほとんどの人達は、ロープウェイか自家用車でこのエリアに来て、そのまま帰るようだ。それでも山歩きをしたい人たちには、このエリアだけでは物足りないから、ゲートを出て山道に来る人達もいるのだろう。どうりでさっき山道で会った人たちは子ども連れが多かったなあ。自閉症の少年とお父さんらしきペアもいたっけ。

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 びっくりしつつも、中をゆっくり見物した。乾坤山日本寺という寺名の「日本」は明治国家以降の時流にあやかったものかと思ったが、そうではなく古くからの名であることがわかった。由緒書に「(天平時代の)開山当時、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模」とあるのがすべて正しいかどうかはともかく、古い時代から諸国の人々の信仰を集めていたことはたしかのようだ。
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雲が少し増えて来て、その雲間からの光を受けた海面のまだら模様がいい。
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しかし、なんといっても傑作は1500羅漢。上総桜井(木更津)の名工大野甚五郎英令とその門弟27名 が安永8年(1779年)から21年かけて刻んだ石仏群という。
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あれは〇〇さんだ、これは△△さんだよねと、口に出したり、胸につぶやいたりしながら、連れ合いと二人楽しんだ。その中の多くはいまは逝ってしまった重度障害者たち。
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そのつぐみ具合がほどよくて。
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もう咲きそろった水仙の脇を通り抜ける。.
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そして、日本最大といわれる大仏を経て、寺の外へ。
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そこから歩いて保田駅へ。
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 ちょうど列車が出て行ったところだったので、駅近くの蕎麦屋へ。
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そこに貼られていた「漱石そば」の絵は高校生が描いたのだという。「坊ちゃん」が天婦羅そばを4杯食べたことすぐ知れ渡り、翌日生徒たちが囃すという話。漱石は23歳で房総旅行をした折、鋸山に立ち寄り、その時のことをを親友の正岡子規にあてて綴った漢文の「木屑録」と題した旅行記に書いている。
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 私たちはあなご天せいろを食す。
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 保田といえば、1982年のわらじの会夏合宿をここで行った。宿舎は存琳寺で、小林一茶の弟子でこの元名村の名主・岩崎児石がこの寺に葬られている。児石のいるここ元名村に一茶は7回も訪れたという。1982年当時は夏の間民宿になっており、わらじの会はおおぜいだったので、本堂も使って雑魚寝した。
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 その存林寺で合宿をした時のわらじの会は、草創期を支えた若手介助者たちがみな専門学校や大学を卒業して去り、「今回は新坂さんのお母さん達もいて年より、障害者、女、子どもが多かったですね。何かあればまず最初に社会から切り捨てられる側の人間ばかり。」(月刊わらじNO.53 「わらじ夏合宿のことなど」 正木いせ)という状況だった。
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 当時すでに81歳だった新坂与子さんは、この合宿で初めて海を見た。その与子さんは重度障害者3人と支え合いながら農家の奥の部屋で暮していた。小学校時代も幼いきょうだいをおんぶしたまま授業を受けた与子さんだった。「よかったね。波が上がったり、下がったりするのがね。海はテレビで見るだけでね。夜の花火もよござんしたね。寝るふとんが薄いんで、腰や背が痛かったけんどね。」と語っていた。なお、与子さんは96歳で天寿を全うされた。
その月刊わらじ53号に載っていた上の絵は、就学猶予で18歳まで通園施設で過ごし、卒園後しばらくして家にひきこもり気味になった後、わらじの会の店・ぶあくで働いたりしたが、現在はいっそうひきこもっている山本ひとみさんが描いたもの。保田の海に行った興奮が伝わって来る。ちなみに、最近、彼女がとつぜん「生活ホームで暮す!」と宣言をし、ゴミ袋にいろいろ入れて現れ、とうぜん即対応はできない状況の中でまたひきこもってしまうという出来事があった。沈潜の地底深く、マグマは出口を求めている。この絵もそんなことを想起させる。

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 その合宿を思い返しながら、保田駅のホームで列車を待つ。
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