共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 「農と食 若者 障害者の社会的事業所」を創るセミナー に行ってきました

<<   作成日時 : 2015/02/25 00:54   >>

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共同連主催・東京ワーカーズ・コレクティブ協同組合/法政大学エッグドームカフェ運営協議会後援 第2回「農と食 若者 障がい者の社会的事業所」を創るセミナー に行ってきた。NPO法人障害者の職場参加をすすめる会として、10名のデイツアー。他に見沼田んぼ福祉農園推進協議会の猪瀬代表やあぐりのメンバー他、さらに10名ほど埼玉から参加した。

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 すすめる会では、会場となった「やまぼうしスローワールドカフェ」を見て食事することが第一の目的で、第二がセミナー。
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NPO法人やまぼうしへのデイツアーは、これで三回目になる。前回は廃校になった小学校につくったカフェ等を訪ねた。

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 やまぼうしの職場を会場にしたセミナー。とてもおしゃれに感じた。

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 NPO法人やまぼうしの伊藤勲理事長。2009年3月、初めてNPO法人やまぼうしへのデイツアーを行った時、当時伊藤氏がやはり理事長を務めていた社会福祉法人由木かたくりの会へも案内して頂いたことを思い出す。その「かたくりの会」の名で、2006年にまとめた「八王子市・市街化調整区域(東部・堀の内地域)でのアグリビジネスを軸とする『障害者雇用創出特区』提案書(案)」について、今日、伊藤氏が語った。

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 2009年にかたくりの会を訪問した時、近くで後継者がいない牧場があり、そこの牛糞を集めに行って、それをたい肥化しているという話をたしか聞いた。
 今日いただいた冊子「ユギ村物語」によれば、堀之内寺沢集落という地域で、1950年代から60年代前半にかけて、他の近隣市町村では宅地化が進んだが、寺沢では若手農家たちを中心に、酪農を含む農業改革が熱く取り組まれた。彼らは1965年に都市計画決定された多摩ニュータウン建設計画に対して強く反対し、市民団体等とも連携して、一部ではあるが自分たちの農地・宅地をニュータウンから除外させることに成功した。

 その中から「ユギ・ファーマーズ・クラブ」という、都市と農業の共存をめざす活動が生まれ、10年位前まで続いていたという。その構成員であった「牧場のおっさん・鈴木亨氏」の証言についても、伊藤氏が語った。土地を全面買収するニュータウンには反対だが、開発をすべて反対するわけではなく、農ある街づくりをやってゆければいい。氏の「八王子市市街化調整区域基本方針(素案)に対する意見」では、調整区域の土地を体験農園や緑豊かな福祉施設の創設に活用可能にすべきと提案している。

 
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  「ユギムラ物語」の中に、「都市にこそ、農業が必要だ」と題する鈴木亨氏の語りがあり、肩書が「NPO YUGI 代表理事」となっている。添えられた写真は若者たちによる稲刈りの情景。ページをめくると、「NPO YUGIの役割」と題する文章があり、執筆が前回さいたま市で開催したこの農福連携セミナーで出会った若者・舩木氏(株式会社フィオ代表取締役)。彼がNPO YUGIの副代表理事を務めていると知った。ちなみに、FIOのホームページは →http://fio8.com/
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 多摩・八王子地域における「農ある街づくり」の歴史を今日あらためて知った。伊藤理事長は、舛添知事が、「都市農業特区」を提案していることにも注目していた。
 
 なお、「共生の農業をめざす見沼農園の課題」を報告した見沼田んぼ福祉農園協議会・猪瀬浩平事務局長は、見沼田んぼが川口や東京を洪水から守るための遊水機能をもつため、開発→保全→保全活用という経過と運動により農園が出来た歴史を述べた。
 両地域の歴史のつき合わせについて、さらに考えてゆきたいと思った。

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 その多摩地域における農業参入の構想について、生活クラブ生協・東京 専務理事の村上彰一氏が、今日報告していた。多摩地域の農業振興地域は耕作放棄地が多い。そこで農業生産法人を立ち上げ、若者、障害者、組員の参加で作る社会的事業所をめざしたいと。


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 さて、やまぼうしの前史である府中療育センター闘争から引き継がれた「施設から地域へ」の具体化として「おちかわ屋」が街に出来たのが1985年。わらじの会が障害者雇用事業所「トムテ」を開店したのが1987年。既に名古屋や滋賀、大阪、熊本などで先行していた共に働く事業所の運動が全国的に連携し、差別と闘う共同体連合(共同連の前身)が1984年に結成され、活発に動き始めていた。

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 自立に向ってはばたく家準備会が1983年にパタパタという店を谷中耳鼻科の前に開店して間もなく、「そよ風のように街に出よう」を創刊した大阪・りぼん社の三矢さんとたぶん八幡さんがリュックサックに本をつめてやってきた.。上の画像は、後に「そよ風」29号に載った橋本画伯のインタビュー。

それをを皮切りに、大阪から次々といろんな人がわらじの会に来た。そして、1985年、大阪で開く全障連大会では、初めて「生きる場・作業所分科会」を設けるからぜひ参加してくれと、大阪の中部解放センターやら東京の故・村田実さんやらが来てくれて、全国的な動きに関わってゆくきっかけとなった。自分たちにとっては、介助や労働が等価値であり、障害者自立をすすめる介介助者の制度をどう保障させるかということも、金をどうもうけるかということも、いまひとつピンと来ないままあちこちの会と熱く交流したことを思い出す。

 全障連はそれまでの専門家・親主導の運動に対し、障害者本人とその支援者による全国の活動をつなげることが目的であり、とりわけ八木下浩一が実践した「共に学ぶ」の実践をベースに、青い芝と故楠さんらの関西障害者解放研究会、それに八木下浩一が組んで1976年に立ち上げた。1985年の大阪大会はまさにその運動の転換期であり、共に生きる健全者とどのような関係を結ぶのかがテーマとなった記念すべき年だった。

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上の画像は月刊わらじ1985年10月号から。恩間新田の農家の奥から街へ出た障害者たちは、谷中耳鼻科の駐車場に建てたプレハブの前を畑にしろと、筆者ら介助者に要求し、隣家の子どもまで動員して、農業指導を行なった。先に述べた「介助や労働が等価値」とは、たとえば以下のような状況である。

 「ぷれはぶのまえに, はたけができました, わたくしたちが, まんのうを もっていって, やましたさんに, いんぴでほってもらって, あんこちゃんに, まんのうでうなってもらって, やまなかさんに, じゃりをひろってもらいました ひらのさんのうちでくわをかりてきて, ひらのさんちのゆうこちゃんに, くわで さくってうねをつくってもらいました, そのはたけに, えんげんと, きゅうりと, はなと, ひらのさんちのはたけから, ひらのさんに, さつまなえをもらって, はばたくいえの, はたけに, ひらのさんに, さつまなえをういてもらいました。わたくしたちが, こやしをかってもっていって, そのこやしを, かいごうしゃに, くれてもらいました, かいごうしゃに, はたけのくさとりをやってもらいました, くさとったはたけを, やまなかさんにまんのうでうなってもらって, ひらのさんのうちから, くわをかりてきて, やまなかさんに, はたけをくわでさくってもらってうねをつくってもらって, やまなかさんに, だいこんのたねをまえてもらいました。 ……農業の専門用語がいっぱい。実演と共に、語学の勉強をおそわったよ(あんこ)」
 
 
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 介助者仲間である「あんこ」がコメントしているように、「まんのう」、「くわ」、「いんぴ」のちがいと、その機能としての「うなう」、「さくる」、「ほる」のちがいがまったくわからない筆者ら。世の中のことなんでも知っていると思ってたけど、こんな子どもでも知ってるようなことさえ知らないんだなと、あきれられたにちがいない。自分たちは車イスから降りられないので、代りに90度腰が曲がったばあちゃんやら、認知症が進んだかあちゃんや、統合失調症の分家の嫁さんなどを連れて来て、われわれを技術指導した(上の写真)。


 街へ出始めた頃は、方言でしか語れない自分たち、長年家の奥にいて大きく変わってゆく時代から捨てられた自分たちを恥じて、ひたすら黙っていた彼女たち。しかし、一緒に街に出て、手探りで動く中で、暮しの文化の担い手として、黙っていられないと行動し出す。何も知らない筆者らのしぐさやことばに吹き出しながら。なんといっぱい笑われたことだろう。そんな風にして、一方向に偏っていた関係が、双方向的な、せめぎ合う関係に変ってゆく。

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 ところで、今日のセミナーでは、いろいろな収穫があったが、あらためて共に生きる健全者が重要な課題として浮上したように思う。

 八ヶ岳名水会(上の写真)からは、「職員の意識改革」として課題が提起された。見沼田んぼ福祉農園の猪瀬事務局長からは、「ぼくがいちばん若いほうでは」という言葉としてふれられた。会場からは、若い職員をどう確保するかといった意味合いの問いが出されたように思う。


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 こうした課題について、私が思うのは、東京都多摩市の「たこの木クラブ」発行の「たこの木通信」2月号の「自立生活支援を考える会報告」で三井さよさんが書いている「『がっつり系で働ける人たちをモデルにするのではなくて、もっとダメな人がいっぱいいられる像を描けないだろうか』という話をしました。そしてそういうことを考えることは、当事者のことを考えることともつながっているのだろうということと。」という思いとつながっているなということ。

 八ヶ岳名水会の話では、「豆腐をもっと出せないのか」というスーパーなどからの要求があった時に、障害者本人と一緒に説明に行くという。そこで初めて「ああそうなんだね」と理解を売るという。そういうことって、よくある。

 私たちが請け負っている県立公園の花壇整備作業では、さまざまな施設から障害者3人と職員等1人とのユニットを組んで出て来る。その中には、仕事がつかめず立ち歩いている人もいる。しかし、そういう人がいることで、放っておくと人の1.5倍も働いて疲れ追い込まれてしまううつ病の人がリラックスする。調子が悪い人が、我慢せずトイレに行き、働き続けられる。県立公園の管理を請け負っている公益財団法人の担当職員は折にふれ作業現場に立ち会っているので、そうした関係の大事さをわかっている。障害者がいると職場が癒されるといったワンパターンの論理ではなく、なんだかんだごちゃごちゃとあって、その結果として仕事が遂行されるんだよね、予定調和じゃなくて、みんながぶつかりあって、その結果仕事が遂行される過程が大事なんだよねという、ハラハラ ドキドキしたであろう外部の発注者等の反応こそ大きな意味を持つ。

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  JA共済総合研究所の濱田主任研究員は、「地域の為に社会資本としての役割を果たすこと」、「農福連携だけでなく農福商工連携を」と語っていた。
 八ヶ岳名水会の報告では、地元の養鶏業やトマト農家に3人のユニットで施設外就労に行ったり、地域の農家と連携して仕事をもらってくるTSUENOWAとの協同により、大葉の袋詰め、草取り、にんにくをばらす作業、ジャガイモの植え付け、マルチから伸びた芽を出す作業、種取り、マルチのはがし、大豆の選別といった仕事に出てゆく。あるいは、自前の大豆だけでは年間を通しての豆腐づくりができないから、地域の農家の産物を利用する。組織が連携するというだけではなく、地域のあちこちに障害者たちと職員が働きに出かけてゆくことを通して、さまざまな外部の人々の反応を通して、ここに一緒にいる自分たちの存在を日々実感させられているのではないか。

 筆者の経験では、入所施設の利用者が職場体験した時、支援者に職場の主任の名を教えられ、始めと終わりに挨拶するよう教えられた。その時初めて「人には名前があるんだ」と知ったらしい。施設へ帰ってから、職員らの名をつぎつぎと呼ぶようになったので、職員としては喜ばしい反面たいへんでもあるというケースがある。他者の関りの中で人は変わってゆく。 

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 福祉制度が乏しい生活困窮者等の「働く」とどうつながるかといった質問もあった。そのことも、上記とつながるのではないか。「がっつり系」の支援者、共働者、職員を期待する、そうした発想自体問い直してゆくことが必要と思う。「青い鳥」を求める発想からあらためて仕切り直すときではないか。
 

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