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zoom RSS 山崎昭二「秋」と栗原彬「『存在の不思議』とガラス板―『柿の種』を読む―」に触発されて

<<   作成日時 : 2015/02/20 23:18   >>

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 夏にいただいた本が、数日前いただいた別の本と接触して光を放った。これは、「黄色い部屋」でのひそやかな化学反応の記録。


 職場参加ビューロー世一緒(よいしょ)に戻ってきたら、その本が置いてあった。当番の障害者スタッフに聞くと、山崎さんという男の人が来て置いていったという。「黄色い部屋」へ持ち帰って、読む。

 「山崎昭二」という著者の名は記憶になかったが、プロフィールにあった「ひな源」の山崎さんなら知っている。

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 といっても、会ったのはおそらく2回。初めは、わらじの会の重度障害者達が平日に武里団地の公民館に集まり、自立に向ってはばたく家準備会の活動を始めた頃。しらこばと笛という民芸品を作ったのだが、その絵付けを障害者の仕事にしてはどうかと話しに来てくれたのだと思う。残念ながら、手が利く人が少なく見送らせていただいた。
 上の写真は当時の自立に向ってはばたく家準備会の活動風景。恩間新田の障害者宅で借りたリヤカーを、聾唖・弱視・下肢マヒの橋本くんの手動チェーン式車椅子にくくりつけて、武里団地へ向かおうとしているところ。


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 二度目は、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会もブースを出しているこしがや産業フェスタで、伝統工芸のセクションにおられた時にちょっとご挨拶。上の写真は昨年の産業フェスタ。ご本人とはそれだけでしかないが、越谷で第九を歌う会をやっておられるお連れ合いとは、年に一、二回だが顔を合わせおしゃべりする。

 ともあれ、そんな細々としたご縁にもかかわらず、ご本をいただいたのが金曜日の午後。そして今日が雨の日曜なので、いただいた本を読んだ。

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 「秋」という書名 (山崎 昭二著「秋」 株式会社文芸社ビジュアルアート 2009年) 。深まりゆく人生の、そして世界の秋にあって、現在を遠くから展望し、また這いつくばって凝視するといったイメージを感じた。

 著者プロフィールによれば、山崎さんは私と同じ1943年生まれ。私は東京都世田谷区で生まれ育ち、中学で三鷹市へ転居し、現在の埼玉へ来たのが1974年。山崎さんは越谷市大沢で生まれ、2002年に隣駅の近くにビルを建てて転居したが、一貫して越谷で生きてこられた。

越谷タウン情報サイト「越谷っ子」で、山崎さんはインタビューに次のように答えている。

 「私は大沢で生まれ育ったのですが、子供の頃近所にひな人形の手を作っている職人さんがいて、 そこで中学時代アルバイトをしたんだ。昭和30年代は小中学生も働いて小遣い稼ぎをしてたんだよ。 それに今みたいに多くの職業の中から自由に仕事を選べる時代ではなかったからね。とにかく手に職を つけることが大切だった。
人形の手をつくる仕事からはじまり、中学卒業と同時に、夜間高校に通いながら人形の頭を作る職人 (人間国宝のお弟子さん)のもとで修業したんだ。」
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 生まれ育った地に足を置き、15歳で人形職人の徒弟として働き始めながら、山崎さんは上空から地を見渡していた。26歳ごろには人間国宝の人形製作者のお弟子さんに弟子入りしたり、37歳ごろには日本文学学校で学んだりしている。その後、国民文化祭で戯曲を発表したり、政府税調で意見陳述するなど、多彩な分野で活躍されたことを、私は初めて知った。しらこばと笛の話をもってきていただいたのは、山崎さんが埼玉県第1回文化ともしび賞を受賞された翌年だったと知る。上の写真は、「秋」より。

 「秋」は詩とエッセイと彫刻の写真を載せている。発表した作品のごく一部らしい。他も読みたくなった。

 「秋」のあちこちに、かっての越谷とおぼしき描写が埋め込まれている。私がまだ東京にいたころの越谷だ。

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  元荒川の葦原を埋め立てた新開地
  夜々嬌声のとび交う
  パンパン屋の一角
  埼玉県南埼玉郡大沢町一丁目三、八六〇番地
  午後の陽に白く乾いた外流し (望郷)
 上の写真は、それから10数年経った1958年の大沢橋風景(越谷ふるさと散歩(上) 越谷市役所市史へんさん室発行 1989年)。

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 ―まだ北越谷や東越谷という地名がつかなかった頃、そこには梅の林や麦畑があった。梅の花を見る風流でなく、ながい冬の鬱屈をはらすため、元荒川に抱かれるこの地域によく遊びに行った。
 砂地でゆるやかな起伏に富んだ土地は、棉、胡麻など農家の日常生活に必要な作物が多くつくられていた。そして、そんな畑の中にかならず兎の足跡を発見することができた。 (兎)
 上の写真は、当時の桃畑の風景(私たちの郷土こしがや(第一集) 越谷市教育委員会社会教育課編集;1981)。

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 大澤橋を渡ると直ぐに露店が並ぶ。賭け将棋、ガラス切り、川魚の生き売り、そんな商いの中に蘇鉄の実を売っている男がいた。小さな子供の枕ほどの柳行李に朱色の美しい実が口きり入っていた。万病に効く薬だという。今日は越ケ谷の二、七の市だ。(大澤橋を渡って)
 上の写真は、当時の六斎市(越谷ふるさと散歩(上) 越谷市役所市史へんさん室発行 1989年)。

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  久伊豆神社の参道のまだ三分の一も行かないところで、もう誘惑に負けて有金全部はたいて、漫画本三冊買ってしまった。まだまだ屋台や出店がはるかかすんで見えないくらいつづいているのである。
 藤棚の近くにくると小さなテントの見世物があった。 (藤まつり)
 上の写真は越ケ谷久伊豆神社祭礼(越谷ふるさと散歩(上) 越谷市役所市史へんさん室発行 1989年)。


 「墳墓群」と題する詩の冒頭は、「母を殺して 木の香の匂う棺におさめた」と書かれている。この「母」は、「まだ北越谷や東越谷という地名がつかなかった頃」の人々の生活世界とも思える。作者は「道で拾った小石で」棺を閉じる。そしていまや「巨大な墳墓群」となったビルの街の夜を、「あの時の小石で コツコツと静かにそっと」叩いて歩く。

 「しばいけんぶつ」と題するエッセイでは、「もう五十年も前」の露店での「サクラ」を使って粗悪品を売りつける光景が描かれる。その後で、作者はこう続けている。

 こんなことが今、日本で毎日のように起っている。りそな銀行の監査、道路公団の財務諸表、日テレの視聴率の操作、日本の基準がゆらぎはじめた。日本人のものを考える物差しがゆがめられている。嘘八百が白昼表通りを歩いている。

ちなみに、これらは2003年の事件。著者プロフィールによると、山崎さんが越谷市教育委員会刊、文化総合誌「川のあるまち」編集長と越谷市ひな人形組合組合長に就任した年だ。
 
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山崎さんの「秋」を読んでいて、昨年の夏に栗原 彬さんからいただいた本のことを思い出した。 岩波文庫編集部編「古典のすすめ 第2集」所収の 栗原彬著「『存在の不思議』とガラス板―『柿の種』を読む―」という短い文章。

 この本に添えられた手紙――
「ごぶさたしております。お元気でお過ごしでしょうか。
 わらじの会の皆さんが、無事に酷暑をのりきられるとよいと願っています。前回のちんどんパレードの出発前に、車椅子の若者同士が、「やあ、生きてる?」「うん、生きてる」と笑顔で交していた会話を忘れることができません。
  
 今年も、ちんどんパレードへのご案内、ありがとうございました。」
 

 下の写真は、昨夏の埼玉障害者市民ネットワーク(野島久美子代表)主催の「地域で共に!ちんどんパレード2014」に参加して挨拶する栗原さん。原発の再稼働の動きや集団的自衛権行使容認の流れに対するこのパレードの位置にふれられていた。


 
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栗原さんとは、2012年の日本ボランティア学会北浦和大会で対談させて頂いた。そのことは、前にこのブログに書いた。

 http://yellow-room.at.webry.info/201206/article_7.html
 http://yellow-room.at.webry.info/201207/article_2.html 
  
 この学会の前に浦和のうなぎ屋さんでごちそうになった時、ちんどんパレードの話になり、お誘いしたのだった。下の写真は、学会の翌月、ちんどんパレードに初めて参加された栗原さん。
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 埼玉障害者市民ネットワークの前代表・八木下浩一氏(前左)と現代表・野島久美子さん(後右)に挟まれて、鳴物を振って行進している。この時は、共同連代表の堀利和さんやワンステップかたつむりの三井さん、ワーカーズコープの飯沼さんら、多彩な顔ぶれで。


 
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 そして、下の写真は2013年8月のちんどんパレード。 「大学の先生だ」と知った世一緒の障害者スタッフが、あれこれぶしつけなインタビューをしていたっけ。
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 そんなご縁の栗原さんが書かれた前記の一文は、寺田寅彦の随筆集「柿の種」と夏目漱石の随筆集「硝子戸の中」を論じている。

 寅彦の場合は、のっけからの『存在の現れ』が、詩歌の世界と日常生活の世界、いのちの世界と生計の世界を隔てかつつなげるガラス板そのものなのだ。ガラス板は世俗にまみれて曇っていて向こう側が見えない。二つの世界の交通はガラス板にあいた小さい穴一つによる。あまりに忙しい人は穴に気づかず、穴を見つけても肥り過ぎの人は通れない。病気や貧乏で痛みを知る人は通り抜けられる。『ガラス板(の穴)』を出入しながら、そこで出会ったできごと、寅彦が日常のなかで出会った『存在の不思議』を書きとめること、すなわち『ガラス板(の穴)』は、諸々の存在を身振りとして存立させるメタ身振りとして、このテキストの基底的な枠組を提示していると言える。

  存在のざわめきの底に潜む沈黙の層の中で、言わば死の欲動と生の欲動がせめぎ合っている。いのちを奪うものといのちを育むものとのせめぎ合いは、小さい私の世界と大きい世界の双方に亘って並行して『継続中』(漱石のことば)である。漱石の身体の病気との闘いが『継続中』なら、欧州という身体も戦争を『継続中』である。病床にあってガラス戸越しに、とんぼの群のような連合艦隊の飛行機のページェントを暗い気持で見る寅彦にとっても、死に至る病と『非常時日本』の戦争という病苦とは、並行して『継続中』と言える。
 戦争、社会閉塞、貧困、孤絶の無間地獄。しかもなお、絶望の底から反転して繰り返し立ち上がる生の力。その往き来を映す漱石の『硝子戸』、そして寅彦の『ガラス板』はどうなったか。


そんな文章を読みながら、これは山崎昭二さんの「秋」につながってゆくなと感じる。

 寅彦のガラス板、漱石の硝子戸のように「詩歌の世界と日常生活の世界、いのちの世界と生計の世界を隔てかつつなげる」のは、山崎さんの「秋」の場合、越谷という街にほかならない。

 「秋」に収められている作品は、おそらく1970年代半ばから2003年ごろまでのものと推察する。川のある宿場町と農村だった越谷が、首都圏のベッドタウンとなって膨張し、その後のバブル崩壊を通し解体再編されてゆく30数年間の越谷。そこに足を置いて書いている。と思う間もなく、風に吹かれて宙に浮く。空から見下ろす街角に買物帰りの女の背に背負われた赤んぼうの自分がいる。
 

 うしろ向きの女と赤んぼうは
  六十年の間、一度もふり向いたことがない
  それはこの世での記憶のはじまり  (望郷) 

 山崎さんは、伝統工芸の職人さんであり、生まれ育った土地で暮しつづけている人だが、古き良き昔を口にはしない。

前出の「大澤橋を渡って」では、「蘇鉄の実一個食べると牛でも死んでしまうほどの猛毒がある」と知っている奄美大島出身の屈強の男が、「俺が言ってやる」と怒って「顔色の悪い痩せた男に一言二言声をかけ」るが、「殺すぞ」と言われて去る。
 
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 この越ケ谷二、七の市が大沢橋を通る日光旧街道で開かれていたのは、北越谷駅に県下初の地下鉄乗り入れが行われ、北越谷地区で初の土地区画整理事業が着手された1962年までで、それ以降は交通量の増大から、駅前の横道に移され、次第に衰退したという。山崎さんが日本文学学校で文学を学び始めたのは1969年というから、この作品は回想を元に書かれたのかと思う。

 生きるために毒も売り、人を殺しても生き抜こうとする人、サクラを使ってまがい物を売りつける露天商、「お代はいらない」と聞こえた呼び込みにつられて見世物小屋に入り、まだ読んでいない本を料金の代わりに取られた幼い頃の作者自身…(「藤まつり」)。

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 さらには元荒川に抱かれた畑の草叢から跳躍を見せ、追いかける子ども達に嘆息をつかせ、かつまた他の動物を襲うこともないひ弱な生き物である兎を、針金の輪ひとつであっさりと狩る居酒屋の親爺(「兎」)。
 
 「安心・安全」とか「持続可能な社会」というこの頃のうたい文句とは程遠い、不安と危険に満ちた、刹那的であってもふてぶてしく生き抜こうとする社会の断面がかってそこにあった。無論、これらは非日常としての二、七の市など風景としてではあったが、その非日常によって日常が支えられていたともいえよう。

 昭和30年では15歳以上の就業者は2万人程度で、このうち市内就業者がほとんどであった。職業別にみても半分以上が農業従事者であって、農業地域的色彩が人口の上にも現われていた。農業以外の就業者では、その半分が生産・運輸関係就業者であった。これは、当時越谷市には地場産業としての工業が存在していたため、そこで就業するものが多かったものと考えられる。また、少数ながら下町への通勤者もみられた。 (「越谷市史二」 越谷市役所 1997年)
 ちなみに「地場産業としての工業」とは、桐箱を中心とする木材製品工業、ひな人形を含むその他工業、家具工業などをさす。

 高度成長期の直前まで、越谷など県東部地域の人々は、江戸時代から受け継いできた生活様式を保ってきた。殖産興業・富国強兵の明治を経て、戦争と革命の20世紀を半ば以上過ぎても、「小さい私の世界と大きい世界のせめぎあい」は、 瞬間の閃光として出現し、また闇に消えた。

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1960年代半ばから70年代初頭にかけて、状況が一変する。この期間、越谷市の人口増加率は年間10%代に及んでいた(上図)。

 1990年の国勢調査によると越谷市の人口は285,259人であり、1958年に市制が施行された当時の人口は約4.8万人であったから、30年あまりの間に約6倍になったことになる。 (川口太郎1997 b. 「移動経歴から見た郊外住民の多様性-埼玉県越谷市における高齢者を事例として」.駿台史学 100: 173-210)

 そして,市内常住者の就業・通学先を見ると、市内での就業・通学者の割合は1960年の74.7%から90年には40.0%に大幅に減少し、これに対して埼玉県内での就業・通学者は5.6%から18.0%に、東京都内での就業・通学者は19.3%から38.2%にそれぞれ増加している。こうしたデータから、越谷市の人口増加が東京のベッドタウン化によってもたらされたものであることが確認される。 (同上)
 

 大きな世界史の激動の中にあってもなお一見変わらず営まれづけているかのような日常、まさにその日常の微かな変化が積み重ねられ、それらが1960年代半ばから70年代初頭、一挙に日常を非日常化する。故郷喪失者たちの大群が越谷に移住する。市内で働いたり学ぶ者は少数派となり、地域に根ざした生活文化は解体される。非日常が日常化する。

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ちなみに著者が、60年代後半〜70年安保の闘争後の「滅びの夢」をひきずりながら、その夢の果てで埼玉にたどり着き、越谷市と接するマンモス団地で障害児の親子と出会い、その団地に隣接する越谷でも最も都市化が遅れた農村の家の奥の重度障害者達と出会ったのが、70年代半ばであった。


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そして、山崎さんが自作のしらこばと笛を持って、発足間もないわらじの会・自立に向ってはばたく家準備会に声をかけてくれたのは、その重度障害者達が街で生きる道を探るため、団地をベースに日常活動を始めた80年代初初めのことだった。

 著者ら移住者だけでなく、農家の奥の障害者たち、そしてたぶん山崎さんも、故郷喪失者になっていた。

 先に引いた山崎さんの「望郷」という詩では、「ススキの穂先から、つぎつぎと飛び立つ蜘蛛」が、やがて自分の想念となって、街の空から街角を見下ろしている。

 満開の金木犀を赤んぼうを背負ってみている女
 背負われているのはたしかに私だが
 背負っているのは母なのだろうか……
 うしろ向きの女と赤んぼうは
 六十年の間、一度もふり向いたことがない
 それはこの世での記憶のはじまり


 見ているのは自分なのだが、実は自分でないほかの誰かなのかもしれない。見ているつもりが、ただひたすら見られているのかもしれない。母と自分は、中空から何かにみつめられて生きてきたのかもしれない。その何かをまた自分が見ている。

 「六十年」とあるから、2003年に書かれたのだろうか。この年、日本政府はイラク戦争で、ついに自衛隊の海外派遣を行った。

 
 街角で、買物帰りの女たちが立ち話をしている
  それは戦争へのあい間  (望郷)



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 障害の有無にかかわらず、地域で生きるとは、非日常化された日常のさまざまなカケラを拾い集めながら、幾百幾千の蜘蛛となって飛び立つことなのかもしれない。

  ――どこまで行くのだろうか
  かすかに赤く青く光る蜘蛛の彩糸は
  暗いほどの碧空に墜ちていく
  ああ、着くところへの望郷  (望郷)
  
 


 

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