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zoom RSS 報告:「養護学校はあかんねん」上映会+八木下浩一トーク が問いかけたものは

<<   作成日時 : 2015/02/04 00:33   >>

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〈「養護学校はあかんねん!」上映会&29歳で小学校に通った八木下浩一・一問一答〉

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 蕨駅東口を降り会場へ向かうとすぐに案内隊。

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そこからほど近いかっての八木下ビルを写真に。

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そして、八木下父が逝った後、母と二人で暮した家の跡の空き地前を過ぎる。さらに歩いて左折して行ったところに、現在暮している有料老人ホームがある。

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今日は施設長らも参加すると聞く。ホームの先の交差点脇が本日の会場だが、なんと元自立生活協会事務局長の小田原くんが結婚前まで家族と暮していた公団アパートの一階ではないか。このアパートなら前にも来たことあるのに。
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そして向かいには、八木下氏と小田原くんが学んだ市立芝小学校が。

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 小田原くんの司会で始まる。自立生活協会坂本理事長の挨拶の後、理事の瀬井さんから趣旨説明。

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現在の活動を映像化して残そうという試みとセットの上映会なのだと。

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そして、本番の一問一答。訊くのは、元川口養護学校教員で、八木下氏や小田原くんと共に公共施設内の店づくりで市と交渉した経験もある半田さん。

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 周辺にいるみんなが異口同音に言うのは、このイベントの準備過程で、八木下氏の発語がどんどんはっきりし、声が大きくなってきたこと。そして、人間関係の記憶がよみがえり、あの人も呼べ、声をかけに行こうなど、アクティブになってきたこと。今日の入場者は120人に達したが、その一端には八木下氏の働きかけも。
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 なんとか歩けるようになった八木下氏を、今は亡き母とくさんが芝小学校での就学時健診に連れて行ったのは12歳と16歳の時、いずれも、まだ早いと言われて帰った。そのとくさんは2階のベランダに八木下氏をくくりつけて立たせて子どもたちの遊ぶのを見せ、近所の店のおじさんたちは歩行器で転びながら歩いている八木下氏を「浩ちゃん朝野球行くよ」と遊びに来てくれた。
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後に教育委員会は、熊谷養護学校の寄宿舎に入らないかと言ってきたが、拒否した。20歳の頃には、八木下氏は子ども達を集めて野球のコーチや監督をやり、八木下家には子どもや親がたくさん出入りしていた。今日の一問一答では、ベランダのエピソードにふれていた。

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 八木下氏の一問一答の後、「養護学校はあかんねん」を上映。

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そこで障害者たちが口々に語ったのは、普通学級や地域のつきあいには、いじめや排除もあるが折り合いや工夫もある、それらをひっくるめて一緒に生きたいということ。その中の一人、当時23歳の須田雅之さんの発言…

 「俺自身、今までの12年間のさ、学校教育の中でさ、障害者だけの場で育ったわけよ。12年間という長い時間をさ。障害者だけ。で、障害者ばっかりは俺はイヤだと。どうせ生きるんなら健全者の人たちと喧嘩しながらな。負けるのが分かっていても喧嘩しながら生きていきたい、と。それで卒業と同時に就職も貫徹したしさ。
 そんななかで、やっぱ楽しいしさ。あちこち行くのが。仕事させてくれって、断られてもさ、それはそれでいいんじゃないか――。どっちにしても俺があと20年、30年生きるにしてもさ、それもすべて喧嘩で終るだろうしさ

 確かに、そういう周りの人たちのことをさ、頭をペコペコしなけりゃ、今の、障害者はさ、生きていけないしさ、健全者の言うことを聞かなければ生きていけない。健全者の言うことを聞かなければ、メシも食えない。オシッコもウンチもできない。いうようなことから、義務化を強制的にむこうはやると、いうことだと俺は思うわけ」。(「別世界的空間から同世界的現実へ… 須田雅之著作集」 発行NPO法人自立生活センターK2;2003・5 所収)

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彼らの多くは養護学校卒業生だが、義務化以前の養護学校は数も少なく借家とお手伝いさん付きで通う生徒もいるほど経済的余裕のある家庭の子も多く、普通学級へ移ったり卒業後大学進学するなど、養護学校という存在を外と内からみつめることもできた。 だからこそ、映画の中で彼らが描き出す養護学校義務化後の社会像は、鋭く私達の現在を言い当てている。
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 映画の終りの方に、若き八木下氏が演壇から文部省との闘争を呼びかけたり、デモの先頭を歩く姿があった。

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 映画の後の交流会では参加者からの一言。北村小夜さんはかって自宅へ来た八木下氏が近所の高校のテニスコートの女の子たちに見入って動こうとしなかったエピソードを語る。八木下氏が障害者差別を意識したきっかけは、女性にもてなかったことと言ったことに対応。また、「養護学校はあかんねん」だけでなく「普通学校もあかんねん」だねとも。

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 ユニバーサルデザインや福祉のまちづくりを大学で教えてきた高橋儀平さんは、この道に入ったのは八木下氏の出会いからと述べる。

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 小学校で登校拒否になった八木下氏が家庭教師に頼んでいた4人の女性たちの一人だった高橋典代さんは、当時はお小遣いをくれるおじさんとしか思ってなかったし、恐かったとしたら自分以外の3人のことでしょうと笑う。

 その他、大学で障害者と教育をテーマとして研究している東京の人々からの自己紹介も。八木下氏に来てほしいとのオファーもあったもよう。
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名古屋から来た元かっぽ専従の増田洋介くんも、そうした研究者の一人。

 八木下氏が両親と暮していた当時に介助に入った民間事業所のヘルパーさんやその仲間たちも。
 もちろん、埼玉各地の障害者や関係者もいっぱい。とうぜん時間がなくなり、県外からの来場者にしぼる。
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 志子田悦郎さんは、この「養護学校はあかんねん」は自らが事務局を務める障害児を普通学校へ全国連絡会として普及を進めているので、ぜひDVDの購入をとアピール。
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 三井俊明さんは、この映画の文部省闘争の時はお連れ合いである重度障害の絹子さんのお産にあたり、その時生まれた娘が34歳になり子どもを生み、孫が出来たと言う。

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 79年の義務化以後の養護学校、とりわけ知的障害養護学校は、増設を重ねたにもかかわらず、15〜6年間生徒数が減り続け、小1ゼロの学校もあり高等部だけが増えてゆくという典型的な逆ピラミッド型だった。

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  また、この期間、特殊学級在籍者も減り続けた。就学指導委員会が多くの市町村に設置され、ふりわけが強化されたにもかかわらず、分けられることに抵抗する親子が逆に増えたのだった。

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しかし、95年頃から養護学校在籍者、そして特殊学級在籍者も徐々に増加に転じ、少子化で地域の学校は閉鎖されるところも出る中、知的障害児とされた子供たちの特別な教育の場だけが膨れ上がり、教室が不足するという事態を生じている。(上記の3つのグラフは、「知的障害のある子どもの指導の工夫および教育環境の整備
−就労を通した社会への積極的な参加をめざして−」 小塩允護 (国立特殊教育総合研究所教育支援研究部総合研究官);2005 より転載)
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その背景には大人社会でのリストラの嵐と非正規労働の増加の下で、将来の労働力たる子どもたちが幼児期から選別され、きめ細かく分け隔てられた支援が準備されて行く大きな流れがある。


 また、障害者雇用や福祉サービスの拡充も、特別支援学級や特別支援学校に行った方が卒業後の社会参加を確実にするかの幻想を支えている。
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 実際には、特別な場を卒業後、就職してゆく者は大幅に減った。

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 そして、福祉の場に組み込まれて行く者が増えてゆくいっぽうなのだが。

 「養護学校はあかんねん」の時代には、養護学校だろうが、普通校だろうが、卒業後は地域の職場でもまれるか、山奥の施設か、家の奥しかなかった。だからこそ、開き直って、地域でけんかしながら一緒に生きようという障害者たちがいた。

 養護学校義務化は、ゆりかごから墓場まで、地域の中で人々をきめ細かく分け隔ててゆく流れの入口だったといえる。人と人がけんかしたり、悩んだり、関わり合ったりする時間を節約するために、専門家に委ねたり、別の空間に分けたりする。

まさしくモモの時間泥棒の世界だが、その後の障害者運動においても、自立生活や共に働く拠点づくりを支えるためにこうした特別な制度の活用を限定的にせよ行ってきた。制度の活用の奥にある課題は、障害者問題であるだけでなく、介助者や共に働く関係者がいかに生きるかでもあり、両者がせめぎあう関係を周りの社会の人々とどう共有してゆけるかだ。
この文部省闘争の翌年の1980年、八木下氏は二度目のスウェーデン訪問(下の写真。若き日の筆者もいる。)から帰って、次のように書いた。
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 「日本の障害児教育は、結論から言うと残念ながら急速には変わりません。なぜ変らないかというと障害児の親にも問題があるわけです。養護学校へ行けばいい教育が受けられて、普通の子どもに近づくんだ、近づくことはいいことなのだという幻想を持っているからです。それは簡単に言えば、普通の子どもは良くて、障害児は悪いという社会的な差別意識の裏がえしのあらわれだと思います。別に障害者は健常者に近づくことはないのです。それぞれ生きていけば良いのだと思います。
 二つめには普通児の親にも問題があります。大部分の親は、うちの子どもは東大へ東大へという幻想を持っています。東大に行かなくちゃダメだということで教育をみているわけです。エリートの子を育てることがいまの普通児の親の夢です。夢をどこかで変えなかったなら、もっともっと子どもは凶悪化し、非行がひどくなるんじゃないかと思います。
 三つめは先生方に特に言いたい。子ども達を決して月給の道具に使ってはいけないと思います。工場で機械を作るみたいに先生は子どもを扱っていては、真の教育はできません。金井庫治君の問題はまさにそのよい例です。じゃまっけだから康治君を普通学校にひきとらないわけです。じゃまっけだというのは、手間をかけたくないということです。いまの学校の先生は、そういう意味でサラリーマン化しています。PTAのお母さん達におべっかを使い、全然子供たちが何を考えているのか、何をやっているのかということがわかっていません。」(「親と子のスウェーデン福祉体験記 ハンディキャップ・レポート」 埼玉社会福祉研究会編 現代書館発行:1981)


 八木下氏が5年生の時の担任は、休み時間でも書き取りをやらせて外へ出さず、どうやったら早く書けるようになるか考えろと言う。追い込まれた八木下氏は登校拒否になり、前記高橋雅代さんらに家庭教師をしてもらう。「川口に『障害者』の生きる場を作る会」を結成した頃と重なる。それは1974年のことだが、闘う障害者が小学校で担任に追い込まれる。それが面白いし、怖くもある。そういう経過を踏まえて、八木下氏の上の文章を読もう。ちなみに、下の写真は1981年、埼玉社会福祉研究会主催「スウェーデンの障害者と語り合うつどい」で挨拶する八木下氏。

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教員、専門家、親たちで「全面発達保障」のための養護学校づくりで「完全就学」をめざす全障研に対し、義務化阻止をめざす八木下氏や青い芝ら障害者と共に闘う関係者らによる全障連が結成されるのは、登校拒否の翌々年(1976年)。

 その全障連結成3年後の闘いに文部省がピケを張り、トイレを使わせないから尿瓶で用を足し、それを投げた。それが爆弾以上のインパクトを社会に及ぼした。何気ない日常の営みが、健常者幻想の社会を撃つ。怒りながら笑い合うことの重み。

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