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zoom RSS 地域と障害―40年近くの歴史が現在を問う 支援のノーマライゼーション 鴻巣講演

<<   作成日時 : 2014/12/07 12:05   >>

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鴻巣市社会福祉協議会・「障がい者週間」記念のつどい実行委員会の主催による平成26年度「障がい者週間」記念のつどいの講演会に招かれ、6人で話をしてきた。

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 同市の「NPO法人あん」の沖田理事長は、70年代後半に鴻巣駅橋上化に対する反対運動に関わり、その経過は埼玉新聞に2年間にわたって掲載され、後日「駅と車イス」(近田洋一著:晩聲社1985)という名著にまとめられた。そのすぐ後からのつきあいであり、彼らが推薦してくれたため招かれた。

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 講演のテーマは、「障害者の地域生活に関わること〜壁が開く時〜 地域での体験から〜」とした。
 
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 章立ては以下。

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・なぜいま30年余り前の話か?
 ゆりかごから墓場までたくさんのサービスができたが、サービスがぶつ切りで、利用者もそこで働く人も分け隔てられている。
 インクルーシブな社会をめざしながら、障害や病気他の問題を抱える人はサービスの専門家でないと関われないという意識が強まっている。
 30年余り前、絶望の底からはいあがろうと、手当たり次第に周りを巻き込んで、結果として地域を変え、暮しを創ってきた事例から学びたい。

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・つぐみ部屋の人々 
 大家族のうち3人が就学免除にされ、その後「みづれえから外に出るな」と言われ、農家の奥の一室で祖母たちと暮していた。
 灰色の巣箱と呼ばれた団地の住民らと、農家の奥でつぐんで生きてきた地元住民との出会い。
 在宅障害者中心の「自立に向ってはばたく家(準)発足(1981年)。活動費稼ぎの露店で重かった口がほころぶ。主婦たちも店じまいを手伝ったり、送ってきてくれたりする。
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 日常活動で畑をやる。マンノウとクワの使い方も知らない介助者たちに農家で生きてきた障害者達が笑い出す。認知症の老母を指導にかり出す。
 重いリヤカーを電動車椅子で楽々と引く。障害者達の沈黙がひらかれる。
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  年中風呂に入れず栄養不足の障害者達の状況はつい最近始まったことを知る。就学免除後も、縁側で豆の殻むき、綿繰り、トマト拭き等常に仕事があった。家族みんなが同じように暮らしていた。機械と化学肥料によるコメ専業農家に変って、若夫婦しか農業ができない。障害者・高齢者はゴクツブシに。家の中の差別が激化。地域の歴史が見えた。
 老いた父が逝く直前、姉妹に分家をさせ、そこに障害者仲間3人を募って共同住居とし、世話人を確保して県の生活ホーム制度を活用した。生活保護制度や全身性障害者介護人派遣事業も活用。生家から100m弱だが兄嫁さんらとの関係も雪解け。

・団地の少女
 その少女は絶対的な壁を感じさせた。がそれ以上に他のみんなからはぐれてしまった焦りが大きかった。なりゆきで手を引いて、山中を歩いていた。彼女の「ぽぽ」とか「たとたと」にオウム返ししていた。これは童謡の催促かなと気づき歌ったら喜んだ。あてずっぽで歌ったり勝手に歌ったりしながら歩き、1時間後に合流できた。
  再会した両親が2キロ近く歩いたのは新記録と言った。10歳まで歩けなかった。
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  団地の1階に少女が両親と暮す自宅があった。少女は夕暮れ、学校から戻った子どもたちの遊ぶ姿を窓越しにながめ、はしゃぐ声に怒るように泣く。
 少女は就学猶予にされ通園施設で育った。窓ガラス1枚の薄い壁が、子どもたちの世界を分け隔てている。
 元総合養護学校をつくる会の親子、障害者、教員らで1980年スウェーデンへ。施設の壁が解体され、障害者本人が街で生きていた。
 少女は17歳になっていた。滞在中、夕暮れに泣いたり、子どもの声に不安になることはなかった。
 帰国後両親はある決意をした。増設された養護学校への誘いを断り、18歳での施設退園も断って、街で生きてゆく活動を応援することを市に求めていった。
 「目的もなくうろうろしている」…通園施設が記した観察記録。年長の通所者は皆養護学校へ移り、就学前の幼児のみに。まつわりつく子らにイライラしている彼女の様子を施設はこう受け取った。
 両親は彼女の自立支援を市に求め、介護人が派遣された。だが同時に「永遠の少女」であってほしいとも希った。
 ある日、介護人の目を盗み生まれて初めて一人で街を歩き始めた。改札をすり抜け電車に乗り、会の本部(私宅)の駅で降りた。タクシーに乗ったが通じず、交番へ。
 世話、支援の壁で見えなかった彼女の世界が顔を…。サービスがたくさんできた現在の問題点を、あらためてかえりみるべき。
 彼女の自立支援をめぐる市や団体との関りの末、母親はうつ状態に。そんな頃、初めて使った車イス。手をひいていた時にはなかった通行人とのコミュニケーションが母を街につなぎとめた。
 寡黙な会社員だった父が退職後あちこちへ出かけてゆけたのも、いつでもOKの娘がいたため。
 両親は親亡き後の怖れを掻き消すように「永遠の少女」として育ててきた。しかし、人生の後半では、彼女こそが家族が街の障壁をくぐりぬけるガイドヘルパーだった。
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 「障害のある人もない人も街に出て共に生きよう」と活動するわらじの会発足に参加して31年目。父も逝き、田舎から親戚が集まり一人になった彼女の施設入所が一挙に焦点に。
 すったもんだの末、これまで積み重ねられた関係を引き継ぎ、両親の遺志を踏まえ、もう少しこのまま団地でいろいろな人々の介助を組んで生活を続けてみることになり、従弟が後見人に。
 両親と3人暮らし。母が逝き父との暮し。両親ともめったに他人を入れなかった家に初めて他人が常にいる状況が。
 あれから6年。車の減速すら不安に感じるほど変化が嫌な彼女が、よくこの状況を生きたと思う。
 朝と夕が主婦。日中は活動の場。30年来つきあってきた人達も少なくない。主な送迎はひきこもりのOさん次女。泊り介助は学生、社会勤め人。彼女たちも、わらじの会の合宿やイベントでのつきあいがある。そんな形の4交代制。
 介護事業所でなく、さまざまな形のつきあいをベースに、地域で寄せ集めた人材。だからこそ、こだわりの強い彼女があちこちで折り合うことのできるバランスの取れた毎日になっていると思われる。また、彼女の介助に入ることをとおして、さまざまな人々の暮しが立てられ、各々の暮しがつながる。

・施設入所寸前
 
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 わらじの会が発足し半年たった秋の出会いー就学免除の聾唖・弱視・下肢マヒの19歳。手話も口話も知らなかった。人形のように坐っていた

 
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 就学免除にされ近所の子ども達と遊ぶこともなかった。ちなみに、やや後に肢体不自由養護学校に行った車イスの少年も、近所の子どもとのつきあいがなくなった。家に黙って坐っている孫をうとんじた祖父がタバコの火を掌に。少年が初めて暴力を解き放った日。

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一室にこもって過ごしていた。儀式の通りにゆかないことがあるとパニック。テレビやガラスを割り、母の首を絞めた。
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テレビも窓ガラスも壊して荒れる時、家族は外へ避難した。
そんな時でも会のメンバーが迎えに行き、街を散歩したり、他人の家に泊まったりすると、嘘のように安らいだ。


重心入所決定を辞退した家族。
年が明けて三月に嵐山コロニーの入所決定が届いた(赤と緑の手帳有)が、少しずつ変わってきた本人の様子を見て、もう少し地域でやってみようと泣きながらきめた。

その半年後、家族みんなでわらじの会の夏の交流合宿に参加した。茨城の海辺の旅館で夜討論会が開かれた。そこで父が語った言葉

 「息子は現在20歳になりました。学校は免除でずっと家にいました。大きくなってからどこにも出られず、暴力をふるうようになったので、施設を考えた。嵐山コロニーから入所許可が来たのですけど、わらじの会に行き出してから少し変わってきたので。嵐山コロニーの方も二、三度見学したが、成人の部屋で12〜3人いて、ちょっと雰囲気が悪かったので。」

 合宿には、市の担当ケースワーカーも参加していた。彼が語ったこと。
 「福祉事務所に来る人というのは本人でなく親が来るものですから。親のいない時に本人としゃべってもあまり本人はしゃべりませんけど、ホンネの所ではどんな生活でもいいから親と一緒にいたいということは本人は素朴に言っています。親からひどくやられている人たちもいるわけだけど、そういう子どもたちは施設へ行きたいと言わないけど黙っている状況。ケースワーカー5年目だけど、親の希望で施設へ入れた人も20人ぐらいいるのが現状です。」

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 1981年から「自立に向ってはばたく家(準)」に参加し、手動チェーン式車椅子を使って街を自力移動し始めた。街で出会う事件等を他者に伝えるため絵を描くようになった。
 パニックは続いたが、迎えが来なくとも街のあちこちに自分で「訴え」る。
 その顛末を描いた作品を待つ読者を得て、毎月の会報執筆が楽しみに。
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 かって家の奥に一人でいた時、外は自分を拒絶する疎遠な世界だった。
  外へ出て行ってわかったのは、たしかに自分とは独立した他者たちの社会があること。だが他者との関係はさまざまであり、自分が出てゆくことで関係が変化すること。
 いつのまにか、敗北や拒絶ですら他者と共有する価値があると感じていた。

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 家庭を開き地域への窓を開けた橋本家の人々。
 施設入所を止めた後、毎金曜夜の自宅での手話会。わらじ大バザーへの地域ぐるみの参加。1年間ボランティアの寄宿先。他たくさんの関り。妹の悩み、不安、父の失業、転職、病気、母の娘時代の織子奉公や長屋の隣人達の暮しなどが折にふれ伝えられる。障害者への関りをきっかけに出会った人々は、地域生活のさまざまな課題を垣間見、時にまきこまれた。そうやって耕された関係の中に画伯の冒険があった。
 
・本人と家族がひらかれてゆく経過
 
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・わらじ関連独立生活マップ
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・障害者の生活の推移から見える社会

・新坂姉妹:農業が近代化、機械化されてゆく中で、三ちゃん農業と言われた兼業農家も続けられなくなった、新坂家はその田圃を借りたり、請け負ったりしてコメ専業農家となっていった。そこから姉妹も暮しを奪われて行った。
・田口:父は下町のガラス問屋の営業で北海道を担当していた。行商的にデパートや町々の商店をセールスした。東京一極集中が進む中、店がつぶれ地方デパートも衰退する中、仕事がなくなっていった。
・橋本:父は工業高校を出て町工場で働いてきた。越谷の長屋に引っ越したのち、高度成長期には内職加工の作業場を自宅でやり、両親、近所の主婦とともに克己もボール盤を使ってみたりした。モノ作りが低賃金のアジアへ移されて行く中、仕事がなくなった。だが花々を育てる趣味はさらに深まり、昼休みに水をやりに帰れる近くで工場の片付けの職をみつけ、低賃金だがなんとか暮し、その花を障害者たちの露店に出してくれた。
・現在の障害者たち:近年、わらじの会の生活ホームや日中活動の場を利用する人々は、かっての新坂姉妹のような、しがらみにがんじがらめになって子殺し寸前というより、家族も含めあらゆる縁が切れ始めている場合が多い。非正規労働が4割を超す、正規労働者は週60時間働くことを強いられるといった社会が、障害者の生活に刻まれている。

・あらためて いま問われていること
  支援のノーマライゼーション…現在進行形のインクルージョン
・30年余り前、絶望の底からはいあがろうと、手当たり次第に周りを巻き込んで、結果として地域を変え、暮しを創ってきた事例を紹介した。
・いま地域のサービスを増やすことで、結果として入所や入院を減らしてゆき、その積み重ねによってインクルーシブな社会をめざすと国は言う。
・だが初めに見たように、サービスを増やし、きめ細かくすることで、利用者も支援者もぶつ切りにされ、社会の他の人々はつきあい方を忘れてゆく。
・サービスの専門家ではない、ふつうの会社員や主婦、近所の子どもや年寄りが、職場でつきあったり、手を貸したり、遊んだりけんかしたり、一緒にひなたぼっこする関係は、本人がいなければ生まれない(本人が社会資源)。
・本人が(家族と共に)地域の他の人々によく知られた存在になるためにサービスを生かす仕組み(支援のノーマライゼーション)が問われる。
・さまざまな人々がいることで、障害の重い軽いに関わらず地域で生きられる。
・通所、入所、医療の利用者も含めて、地域の学校・高校や職場にさまざまな形で参加してゆこう(現在進行形のインクルージョン)。
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 「団地の少女」、「施設入所寸前」については、それぞれ主人公である田口さん、橋本画伯が登場。

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 田口さんは自分が主役の一人になっているため、大声をあげることなく前にしっかり堂々と坐っていた。画伯は19歳の時小学校に体験入学した時の出会いを昨日の出来事のように楽しそうに語る。
 ほかの3人も、それぞれ自分が担った重要な役割を語った。


 よく晴れて、鴻巣からは赤城山が雄大な裾野を広げているのが見えた。質疑応答や終了後声をかけてくる人たちも少なからず、刺激的な出会いがあった。

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