共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 県教育局がねつ造した「障害」概念―その奥に分け隔てられてゆく社会の深まりが

<<   作成日時 : 2014/09/30 20:15   >>

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どの子も地域の公立高校へ埼玉連絡会主催の県教育局交渉。交渉の場でまず山にこもりましょう巡業団による同名の劇の上演。

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わが子が一生重度障害のままとの診断を受けた妻が「山にこもりましょう」と言った時、「俺は嫌だ、冗談じゃない」と夫が拒否し、きょうだいと同じように育てればいいと言ったことから、このタイトル。
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登場人物は親、教員、医師などで、それを演ずる役者がほとんど重度障害者達。

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96才の母が緊急入院し生活が危機に陥ったKさんも俳優として(上の写真左手前)。

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それを教育局と一緒に見ている。いったん分け隔てられるとどこまでも分けられてゆく鏡地獄の幻が浮かび上がる。


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 そして始まった交渉では、教育局が、「(公立高校の入学者選抜で)障害による不利益な取り扱いをすることがないように」ということに関して、なんと?!「『障害』とは身体的な障害だけでなく、精神的な問題で通常の態勢での受検が難しい場合も含むこと」という説明を公の説明会でしていたことがわかった。

あまりのことに、障害者基本法や障害者権利条約に違反しているよと、言ってしまったほどだ。
 ちなみに障害者基本法での障害者の定義は以下。
 「一 障害者 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。

 二 社会的障壁 障害がある者にとつて日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。」

 また、障害者権利条約(外務省訳)では以下。
 「.障害が、発展する概念であり、並びに障害者と障害者に対する態度及び環境による障壁との間の相互作用であって、障害者が他の者と平等に社会に完全かつ効果的に参加することを妨げるものによって生ずること」

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教育局は、「配慮について説明したのであり、障害についてではない」と言い訳する。社会的障壁や継続的に日常生活、社会生活上相当な制限を受けるという状況を、体調不良等と一緒くたにしていることがはっきりした。あまりにもプリミティブなまちがいであり、そのまちがいを詭弁を以て正当化しようとする。あってはならない障害による不利益を、配慮が必要な状態一般に解消することは差別の正当化だ。自らの大学受験の経験を述べて教育局に訴えるYGさん(下の写真)。

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この交渉が四半世紀にわたって重ねられてきた根拠自体、わからなくなっている教育局。けっきょく教育局は、この部分を回答から削除せざるをえなかった。この秋に行われる入試担当者の説明会でどう局が語るか、チェックしなくては。

 とはいえ、ことは文言だけではない。分ける教育に抗し共に学ぶことをめざす生徒たちへの配慮としての「障害による不利益」に対する配慮が、いつのまにか体調不良と同レベルの取り扱いにされていた。

そのことが初めてわかったのが、今年2月3日の交渉での教育局の回答から。2013年春の入試における「学力検査等の際、配慮を要する措置についての願い(措置願)」の提出状況を明らかにするよう求めたことに対する回答だ。

 措置願の総数は109件。そのうち52件が高校長から高校教育指導課との協議の場に上がってきた。びっくりしたのは、そのうち障害が37件、病気が15件という説明。ここで初めて、ああ障害だけでなく病気に対しても「特別な配慮」を行ってるんだとわかった。では、その前の年はどうだったのかと訊いたが、障害に対する配慮が46件という記録があるだけで、病気については記録すら残されていないようだった。

 もうひとつびっくりしたのは、残りの57件の措置願については高校長段階で処理されていて、高校教育指導課との協議の場に上がってきていないこと。だから教育局としては、障害が何件とか病気が何件とかの内訳すら知らないという説明だった。
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 しかし、県の入学者選抜実施要項には、「高校長は、特別な配慮を必要とする場合は、高校教育指導課長と協議の上これを行うことができる。」とある。昔はその通りにすべて県と協議していた。

 ただし、病気や軽い障害や当日体調不良になったなどで保健室での受験をさせることなどは、制度と関係なく高校長の裁量で、昔から当然のこととして行われていた。その当然の配慮が、いつのまにかこの制度のレールの上に乗せられるようになったらしい。だから、局との協議はいらないということになるのだろう。

 いつからそうなってしまったのか?県はわからないと言う。そもそも件数すら記録されてないというのだから。

 だが、おそらく2010年度からの、すべてを点数化する入試制度に変った時からだろう。

 この時に初めて、「障害のある志願者に対する配慮事項及び配慮が必要な場合の手続き」が、入学者選抜実施要項の中に入った。それまでは、毎年通知として出されていたのだ。

 それと併せて、新たに入学者選抜実施要領のほうには、この措置願が志願者から提出された場合は、それを調査書の中の「その他の項目の得点」の項で、総合的な学習の時間の記録とか、ボランティア活動などに加えて「得点を算出する場合に配慮する。」と明記された。

 この「その他の項目の得点」は、入試の全得点の中でどのくらいの比重を占めるのか?たとえば、県立上尾高校の全日制普通科を例にとれば、学力検査が500点満点、調査書が320点満点でうち「その他の項目の得点」が20点満点だ。
 ここで20点満点がついたとしても、全体の41分の1でしかないが、ある程度点数がとれる生徒にとっては合否を分ける要素になるかもしれない。

 このような背景が、先に述べた措置願をめぐる不透明な状況をもたらしていると推察してよいだろう。
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 私達は病気や軽い障害や当日体調不良になった生徒たちが、必要な配慮を受けて地域の公立高校へ受け止められることはいいことだと考える。しかし、同様に、義務教育段階で手がかかる、できない、しゃべれない、動けない等とみなされ、折にふれ「別の学校に行ったほうが」と対応されてきた生徒たちも、希望があれば率先して受けとめてほしい。公立高校が、さまざまな生徒共に学ばせ、共に社会に送り出してゆく場になってこそ、共に生きる地域社会がリアルになる。そう考えて、「どの子も地域の公立高校へ!」と訴えてきた。

 現実には

 この入試制度がスタートする3年前の2007年 、私達は当時局側を代表する高校教育指導課主席として交渉に出席していた現教育長・関根氏に、「「まだ明らかにできる段階ではないが」という限定付きで、「今までは受験上の配慮だけだったが、他県の例を参考に、選抜についても制度を変えたいと考えている」と述べていた。関根主席は、私達の求める選抜上の不利益への配慮に関して一定の理解を示しながらも、「文科省の担当者は『適格者主義は生きている』と明確に言っているし、大きな変更なので正直難しい所がある」と率直に付け加えていた。

 
 手がかかる、できない、しゃべれない、動けない等とみなされ、義務教育段階でも折にふれ「別の学校に行ったほうが」と対応されてきた生徒に対し、いまの入試の中で実施可能な範囲での受験上の配慮をしただけではとうてい不利益は解消されないと私達は訴えてきた。コミュニケーションが成り立たない生徒がいるのではなく、その生徒とのコミュニケーションを成り立たせるすべを知らず、知るための環境をつくろうとしてこなかった高校教員たちがいるのだ。

 結果として障害のある生徒たちがみな特別支援学校に流れてゆくことで、高校教員たちの適格者主義は増幅されて行く。だから、まずはさまざまな障害のある生徒たちを受け止めて、付き合ってみる中でしか通じ合えない。そのためには、受験上の配慮だけでなく、選抜上の配慮が必要なのだと。

 年度ごとに交代する主席たちは、当初は入試の根幹に関わるとして拒絶するのが常だが、出会いを重ねるうちにしだいに理解を示し、入試に際してなんとかしたいと動く。その中で、県民の税金で運営されている県立高校での定員内不合格はあってはならないということを確認し、定員割れの場合は点数が〇であっても受け止めさせるべく、高校現場に働きかける主席も出てきた。しかし、高校統廃合によって、これまで障害のある生徒や問題児とされた生徒を受け止めてきた高校が廃止されていった。

 このような状況下で、当時の関根主席の熱意に期待をかけたのだが、ふたを開けてみたら、「その他の項目の得点」に措置願が入っても、点数の取れない障害のある生徒にとっては意味がなかった。 むしろ点数万能の入試選抜制度の下で、できない生徒が切り捨てられるのはとうぜんという風潮がますます濃くなっていった。
 
 にもかかわらず、入学者選抜実施要項では、「障害のある生徒の入学者選抜における学力検査及び選抜に当たっては、障害のあることにより、不利益な取り扱いをすることがないよう十分に留意する。」と明示されている。
しかし、現在の高校教育指導課は、それがどのような経緯をたどってきたか、よくわからなくなっている。

 その結果、公平性、公正性を口にしながら、記録もなく、説明もつかない制度運用になってしまっている。 なぜこうなってしまったのか?

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 指摘に対し、教育局(高校教育指導課)は、「分けろということですか」などと訊いてきた。障害のある生徒の既得権防衛といったエゴイズムと錯覚したのか?そうではない。この制度による受験上の配慮を必要とする生徒が相当数いることがはっきりしているのだから、どうぞ有効に活用してください。しかし、そもそも障害による不利益とは、義務教育が障害のある子を分けてきたことによる不利益だ。
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 分ける教育に対して共に学び共に育ちたいと抵抗してきても、設備や授業のやりかた、付添の強制などによって、別の場に行かざるを得なくしてきた。中学卒業までには、ほとんどの障害のある子どもたちが特別支援学校へ追いやられて行く。だから高校の教員たちは、障害のあるさまざまな子ども達と出会う機会がない。いやおうなしに出会わざるを得ない小学校低学年の教員たちとちがって。そういう高校教員たちが考える「その学校の教育を受けるに足る能力・適性」の評価のいびつさが、入学選抜制度をゆがめているのだという基本的なことを、あらためて教育局に考えてもらわなくては。教育局の口癖の「公平・公正」とは何か?

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 なぜ四半世紀にわたって、この教育局交渉が続けられてきたのか?なぜ、毎年毎年、局の中でこの交渉の担当が決り、年間を通して私達と顔つき合わせてきたのか。その前に、なぜ知事応接室に3泊4日、教育局廊下に1ヶ月、障害者、家族、教員、その他の市民が泊まり込まざるを得なかったか?成り立ちに遡って考えてもらおう。
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 ところで、県高校教育指導課がこのようなあやまちを犯し、そのことの重要性にまだ気が付いていないことは、単なる偶然ではないだろう。分ける教育自体が、水膨れしている。このごろ特別支援学校の教員たちからよく聞くのが、「あの子がどこに障害があるのか、なぜ入ってきたのか、よくわからない」という言葉。
 これにはさすがに、分ける教育を推進してきた側の人々からも、次のように語られる。
 「なぜ高校が時代錯誤的なエリート教育を掲げているのだろうか。そのことがまさに高校の中途退学者、不登校が減少しない理由なのではないだろうか。
 …行き場を失った生徒たちはやむなく特別支援学校へ押しかける。特別支援学校を居場所と感じられる生徒はまだよいが、場違いなところに来たと感じている生徒の中には、問題行動を起こす子どもも少なくない。」(鈴木文治著「排除する学校」)

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 こうした排除の深まりを示す現象を、「特別な教育的支援という枠組みを、これまでの障害の範疇には入らない生徒にも必要に応じ利用可能にして行く」という風に表面的にとらえたとすれば、障害のある生徒に対する受験上の配慮の枠組みも同様に考えられることになるだろう。

 障害者権利条約が批准され、差別解消法ができ、不当な差別の禁止や合理的配慮義務が定められた。このことを前向きに受け止めてゆこうと思う。だが、それは、社会の中で人と人がよりいっそうきめ細かく分け隔てられてきたからだ。
 各々が小部屋で仕切られて生きているため、周りが見えない。狭い世界で生きている中で、社会の流れも把握しにくい。共通の言葉が失われる。世代から世代への伝承が難しくなる。その結果、これまでの社会の中であってはならないとされた差別への感性が崩れて来る。差別をなくすための当面の措置も、その意味を知る人がいなくなる。
 そんな時代にいるんだということを、あらためて確認する。
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 だからこそ、幼い頃から共に遊び、ケンカし、一緒に育つことの大切さを実感する。共に学び、共に働き、共に暮らすことなしには、周りが見えず、自分も見えない。それは差別から自由になることではない。曖昧化されていた差別が具体的になり、からだで感じられるということ。何が不当な差別なのか。当面はせめぎあいながら関係を変えて行くべきこととは。いま取り組みうる環境調整とは。

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 県福祉のまちづくり推進協議会で、障害者用駐車場に内部障害の人が車を停めようとすると、見た目でわからないためトラブルになるということで、県福祉政策課が障害者であることを示すプレートを発行しようという案を示した。委員の中からは、それなら妊婦もその中に入れてほしいとか、リウマチで歩行困難や杖使用者もなどの意見が出た。
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 それに対して、会長を務める高橋儀平委員から、3m50pの幅というのは車イス使用者がドアを開閉するために必要なスペースであり、そこに車イス以外の人が駐車するとそこでしか乗降できない人に利用を不可能にしてしまう、歩行困難者等が距離を短くしたいとの希望は十分理解できるが別の解決方法もありうるので、異なる立場相互で十分協議して、その経緯をちゃんと説明できないと拙速になってしまうという意見が出され、了承された。
 筆者は、この高橋会長の考えを支持する。昔からある障害者用駐車場の車イスマークも、その成り立ちがわからなくなっている。社会が分け隔てられ、それぞれに不利益を負う人々が増えてゆく中で、問われていることは何か?みんな苦労してる、譲り合うべきという全体主義の発想が徐々に強まっている感じがする。いま大事なことは、互いの境界をこえ、状況をつき合わせてゆくことだ。それをつきつめれば、身近な地域で共に学び、共に働き、共に暮らす関係につながるのだが。

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