共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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zoom RSS 「まずそこにいなくちゃいけない」を貫いて逝った吉田昌弘

<<   作成日時 : 2014/02/09 23:22   >>

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わらじの会で20数年、常に鉄砲玉のように私も含めた健常者社会に異議申し立てして来た吉田昌弘くん、そして常にずっこけてニヤッとはにかむマサヒロ、このごろでは自治体とのつなぎ役も担っていた彼のお葬式。
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生保を受給していた関係から当日の式の予告が二転三転したにもかかわらず、仙台、静岡、長野、そして県内各地からたくさんの方々が参列。十数年ぶりに出会う人同士も少なからずいて、まさに歴史をふりかえる場に。(
上の写真は、学校教育法施行令改正に抗議する「ぼくたち違法人?」行動で文科省へ)

 彼は倒れる30分前まで職場参加ビューロー世一緒での会議に参加していた。7時ごろ世一緒に到着したとき、彼は手にすり傷を負っていたのだが、どこで転んだかは語らなかった。ところが、今日「私が越谷駅で昌弘さんが転んだのを助け起こしたんです。」という人がいた。県立大卒業生で、越谷市内の保育園で働いているNさん。仕事帰りに偶然転倒する現場を見て手を貸したという。「昌弘さんは私のことわからなかったと思いますけど」。学生時代、活動に参加して顔見知りだった。
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 救急車を呼んでくれた自宅最寄りの顔見知りの一ノ割駅員だけでなく、Nさんの関りもあったのだ。ほんとはさらに多くの人々の中で生きていたのだろうと推測される昌弘君の生。
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 昌弘さんとバザーの街宣に出かけ、チェアキャブの屋根をガードで擦ってしまい、二人で土下座しましたと語る国立リハセンのNTくん。二人で多摩障害者スポーツセンターまで行って口論になり、帰りは勝手に、と一人で帰って来てしまいましたという元一年間ボランティアの施設職員。あれこれのトラブルをまきおこしながら、トラブルを通して生きざまを地域に刻みつけた。トラブルは人間と社会を照らし出す。

 以上はfacebookにアップした速報。
 
 このブログでは、吉田昌弘の人となりを理解する一助として、2003年10月31日に開催された、第26回総合リハビリテーション研究大会〜重度・重複障害をもつ人々のリハビリテーション〜において、彼が語った記録を紹介する。
 この年の総合リハビリテーション研究大会は、所沢の国リハで行われた。故・丸山一郎さんの紹介で、埼玉の障害者運動を代表して、吉田昌弘がシンポジストとなった。

 概要は以下の通り。彼以外は専門家ばかりだ。

シンポジウム  「埼玉県におけるリハビリテーションサービス ・・・重度障害をもつ人の地域支援の取り組み」

  コーディネータ 佐藤 進(埼玉県立大学社会福祉学科)

  (1)リハビリテーションセンターの新たな取り組み
     上小鶴 正弘(埼玉県総合リハビリテーションセンター)
  (2)東松山市の生活支援サービス
     西田 紫郎(東松山市福祉課)
  (3)精神障害者支援ネットワーク
     菊池 薫(埼玉県精神科病院協会 作業療法士部会/東松山病院) 
  (4)新しい雇用就労ネットワークの進展
     岡濱 君枝((株)障害者支援センター)
  (5)重度障害者の地域生活の現状と課題
     吉田 昌弘(埼玉障害者自立生活協会)

 
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 シンポジウムでの彼の発言だけを再録しておく。

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みなさん、こんにちは。吉田昌弘といいます。まず、埼玉障害者自立生活協会の活動の話に入る前に自己紹介をしたいと思います。私は、春日部市に妻と子どもが3人いる、5人家族です。いちばん上の子が3年生、2番目が来年小学校に入る子どもがいます。
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 2番目の子どもが「今年就学児健診を受けてくれ」と保育園から言われました。上の子のときもそうでしたが、私の考えでは就学児健診をあまり受けたくない、という気持ちがあったので受けませんでした。

 なぜかと言うと、そこで健常者と障害者の区別っていうか、分かれ道のひとつなんですね。だから、そこに就学児健診を受けるということは、うちの子どもを健康で不安もないんだけど、けっきょく健常者のほうに行っちゃう、って言うか、そういう分かれ道に立たせたくないんで、受けません。
 妻が「なんでうちの子、受けないか」って保育園に聞かれたら、「風邪で休んだ」とかごまかしてるみたいで、私は「ごまかす必要ない」って言ってるんだけど、いまの段階ではごまかさないといけないのかな、って思っています。

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 なんでこの話をしたかって言うと、私たちがやっている埼玉障害者自立生活協会ができる以前に、3つの流れがありました。

 ひとつは「青い芝系」と呼ばれる、障害者自身が生きざまをさらしながら健全者の社会・文化を告発してゆこうという運動、もう一つは、養護学校や家にこれ以上閉じ込められて暮らしたくない、また障害者と健常者が一緒に街に出ていく中で街のありかたを問い直してゆこう、っていう運動、もうひとつは、障害があってもなくても、養護学校とか、家から遠く離れている学校ではなくって、同じ小学校に通うことで一緒の暮らしを共有しあおう、という動きの3つがあって、3つがもとになってネットワークができてる。

 3つの動きって必ずしも一致はしないんですが、基本的には地域の中で障害がある人もない人も一緒の場で暮らしていくにはどうしていくか、そのために福祉とか、福祉に限らない分野、学校とか、働く場とか、街の中をどうやって作っていくか、っていうのを、意見をぶつけ合いながら、それを県や市に伝えていく、っていう意味で、ネットワークが機能しています。


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 もういっこ、私の話をすると、いちばん上の子が小学校に入るとき、学校そのものが階段ばかりで、私が学校に行くのが不可能でした。だから、入る3ヵ月前ぐらいから、学校と、保護者会とか、運動会とか、学校行事とか参加するとき、私はどうするのか、って何回か交渉して、簡易スロープをつけてもらった、っていう経過があります。なぜこういうことを言うかというと、もし私が普通学校に上がる、それが望ましいのかもしれませんが、上がれるんだったら学校側も反論とか、「養護学校に行けばいいのではないか」と言うかもしれませんが、自分の子どもが学校へ行くっていうことで、けっきょく私も学校に行かざるをえない、という状況が生まれたので、初めて私が学校に受け入れてくれる、という状況になってきたんだ、と思います。

 けっきょく学校に行かざるをえないとか、どうしてもその中にいるから、仕方なく学校の構造とか仕組みなんかを変えていかないといけないな、っていう思いが、先生方からも、私のほうにも生まれたんだ、と思います。
 私も普通学校に行くとは思ってなかったように、学校側も、障害のある親が来るとは思わなかっただろうし、だけど来ちゃうからなんとかしなくちゃいけない、せっぱつまった思いっていうか、どうしようもない思いが、結果としてはバリアフリーになったり、障害者も行けるとか、参加できる環境になってくるんです。

 そのためには、私、養護学校に学んできたんだけれども、同じ学校に行かざるをえない環境とか、そこにいなくちゃいけない、ということから、いろんな支援のしかたとか、「これをやったらもっとうまくいくんじゃないか」っていうことが、初めて生まれてくるんじゃないか、と思います。

 今の障害者運動の多くの動きは、障害者個人に介護者とかつけて、初めて健常者と同じレベルに立てる、という考えが主流で、自立生活センターを事業所としてそこで障害者が働くという方向に偏ってきたと思うんです。

 ですが、それ以上に大事なことは、学校とか職場とか、街の中に飛び込んでみて、それでみんな、たとえば、職場だったら、「障害がある人がきたおかげで仕事のスピードが遅れて困る」とか、「どうやって付き合ったらわかんない」とか、いろいろぎくしゃくしながら、それでもなんとかそこに障害者がいるから付き合わなくちゃなんない、っていう関係がだんだんと生まれてくるんだと思います。
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 今回のテーマである「重度障害者の地域生活支援とは」なんですが、私は究極的には、地域支援は先回りすべきではなく後からついていくべきもの、と思います。

 特別な何かがなくっちゃ、職場とか学校に入れないんじゃなくて、まずそこに入って同じ空気を共有しながら、そのうえで足りない支援があれば、それを障害者だけじゃなくて、同じ働く仲間である健常者にも、どんな支援があったほうがいいのか、っていうのが具体的に分かってくるように思うんで、何よりもまず、入りこむとか、学校とか職場がどう私たちを受け入れる覚悟があるのか、ないのか、受け入れるためにどういうのがあればいいのか、っていうことを一緒に考えていく時期に来てるんだと思います。

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(コーディネーター : 「自立生活センターを事業所とする方向に偏ってきた」とあるが、これが肯定的なのか、あるいは否定的なのか、ということについて、説明をいただきたい。)

 まず言っておきたいのは、「肯定的でも否定的でもない」、ということなんですよね。
 障害者運動っていうのは昔からありましたが、90年代にJILがやった、障害者が主体となって自分たち自身が必要とするサービスを自ら提供してゆくという活動は大きな意味がありました。その頃は、行政サービスにおいても、民間サービスにおいても、障害者の介助とか働く場っていうのは、あんまりありませんでした。ですから、「何もなかったからどうしよう」、っていうことで、まず、私たちが「こういうサービスがあったほうがいい」とか、「こんな働き方があるんじゃないか」っていう問題提起を含めて、自分たちが自ら介助サービスとか、障害者のお店、リサイクルショップとか、働いて具体的に動いてきた、っていう経過があります。
 その意味では、それがあったから、今ここまで福祉とか、地域の人から障害者が街の中にいることについては、一定の理解を示してきたんじゃないかな、と私は思います。
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 それを踏まえて、一般の職場、あるいは学校に一緒に学ぶとか、一緒に働くことを通しながら、一緒にいることの意味なり、そのうえでのどういったサポートが必要なのか、そのサポートをずっとしていかないといけないのか、やってるうちにだんだんと友達なり、仕事仲間の関係ができたら、「介助」って言ってることが本当に必要なのかどうなのか、っていうのも考えていかないといけない、と思うのです。

(コーディネーター: ありがとうございました。)

 

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