共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す

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<<   作成日時 : 2013/10/24 01:24   >>

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愛執のまちに市が立つのだ わらじ大バザー2013  11・3 北越谷駅西口・さくら広場
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わらじ大バザー2013への物品提供をはじめ、有形無形のご支援ありがとうございます。もうすぐ本番です。(以下も含めて、月刊わらじ号外の文章を元にしているので、今回はデスマス調になる。)
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会場は七年ぶりの、北越谷駅西口駅西口さくら広場です。今年もよろしくお願い申し上げます。
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北越谷の土に還った故野沢代表の秘められた愛執
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 愛執…聞きなれない言葉です。煩悩にさいなまれ、愛にとらわれることを言います。元は仏教用語です。アイシュウと読みます。

 アイシュウといえば、哀愁という言葉のほうがポピュラーです。でも、大槻文彦著「大言海」には、「愛執」はあっても、「哀愁」という言葉は載っていません。たぶん、「哀愁」という言葉は、近代都市社会に労働力としてかりあつめられた人々によって作られたのではないでしょうか。

 それに対して、「大言海」によれば、「愛執」という言葉は、11世紀の濱松中納言物語に用いられているそうです。

 今回のバザーが行われる北越谷、大沢の地は、かって橋ひとつ隔てた越ヶ谷宿が商家の割合が大きかったのに対し、宿場町の要素がより大きく、本陣、脇本陣とさらには商人宿、そしていまでいう風俗営業のような飯盛旅籠もここにありました。(以下「越谷の歴史物語(第1集、第2集):越谷市史編さん室 を参考にしました)
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 文化年間には、22軒に100名以上の飯盛女がいたといいます。飯盛女の多くは、年季奉公や養女という形式をとってはいても、金で買われてきた貧しい家の妻や娘でした。当初は江戸から、後には越後から人買いに連れられてきました。借金のために縛られている女たちは、なじみの客とかけおちすることもしばしばでしたが、心中する者も珍しくありませんでした。
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 天災で不作が続いた安政年間には、大沢の困窮者たちが、浅間神社の小山にたてこもり、地元の富裕な商家や農家に対して、米の安売りと借金を要求し、受け入れられなければ、家を打ちこわしたりする者が出ても責任はもてないと世話人に申し入れ、けっきょく示談になったという記録があります。

 往来する人々と定住する人々が出会い、まじりあい、ぶつかるところに生じるさまざまな情愛。その澱みに浮かんだり沈んだりしながらも、歴史を生き抜いてきた無名の人々。そんな人々が創造した「愛執」のまち。
 
 その系譜は近代社会になっても、大正期に東武劇場という200名収容の劇場ができたり、戦後まで遊廓があったことにつながっているのかもしれません。

 そんな北越谷、大沢とわらじの会の縁をたどると、ここにも「愛執」の根っこを発見します。
 「哀愁の町に霧が降るのだ」ではなく、「愛執のまちに市が立つのだ」というわけです。


 わらじの会がスタートした30年前、北越谷駅によく降りました。会発足以来代表を務めてきた障害者・故野沢啓祐(当時30代半ば)宅の最寄り駅だったからです。野沢は、今年9月23日に逝ったばかり。行年72歳。

 1978年、「障害のある人もない人も共に街に出て生きよう」を合言葉に、月1回、「街に出る会」を始めました。当時、会は事務所もなく、生家の一角で一人暮らししていた野沢宅は、中高生を含む若い人たちのたまり場にもなっていました。この地で生まれ育ってきた野沢代表がぽつりぽつりと雨だれのように語る生活や悩みから、いろんなことを考えるきっかけを与えられました。

 以下は、当時、野沢が電動カナタイプで打ち、「わらじ文集」に載せた文章。

 このほど そうか こしがや かすかべ と あつまて わらじのかい が たんじょう しました  これからは いろいろな ところへ みんなで でかけましょう  さいしょは しょうにんずう ですけど これからは ざいたくほうもんを はじめと して こえをかけあい ながら ひと と ひと の つながりを おおくして どんどん ふやして いき そして まちにでて かいものを したり おはなみ でぱーと はいきんぐ こうえんさんぽ でんしゃや ばすに のって でかける  こうした うごきのなかで かいほう や しんぶん など つくり たまには しんぼくかい などして こうりゅうを ふかめて いきましょう  これからは だれとも おはなし したり きいたりして おともだちになっていき それにもまして よりおおくのなかまの ともだちのことを しっていきたい  それと ともに じぶんの にちじょうせいかつを しって もらいたい という がんぼうも おおきくなってきたのです  …これからも もくてきをもち じぶんとの たたかいですから  …いろいろと みなさんの いけんや かんがえを だしあい ながらいきましょう 
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 その後も、野沢宅では、長年にわたって月1回、「プランづくり会」と称する夜話会が行われていました((下の写真・右端が野沢)。
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 野沢は、小・中とも普通学級で過ごし、たくさんの知り合いが地元にいました。初めてのバザーの時も、北越谷のK時計店やT鉄琴さんから物品のご協力をいただいたものです。しがらみの中で生き抜いてきた野沢は、晴れがましいことが嫌いで、全国・全県の運動の場にも出ず、自宅近くでなければ会の行事にもめったに姿を現しませんでした。
  →当ブログ「カッコ悪さが素晴らしかった わらじの会の祖霊 野沢代表の記憶 T」参照 http://yellow-room.at.webry.info/201310/article_1.html

そんな野沢がまだバリアだらけだった時代に、車いすで駅に行き、電車に一人で乗って、ある人にプロポーズに行ったことがありました。

 それより前、野沢は月刊わらじ12号にこう書いていました。

            すきなひと きらいなひと   のざわけいすけ

 ぼくの おともだちは けんぜんしゃも しょうがいしゃも いろいろな ひとが たくさん おりますが そのなかには すきなひとも きらいなひとも いるけど だけど いくら あこがれても ひとそれぞれ このみが あるから ね  なかには とっても いいひとも いるから じんせいが たのしいです  でも ぼくは うらわに いらしゃる あのひとに あこがれています  昭和51年10月すえ おともだちが ぼくに しょうかいを してくれた  そして よく ざいたくほうんもんなどを して くれました  こうして さいきんは あって おはなしを しているときが いきがいを かんじています  そして あえば たまには ぐちを こぼしていると きらわれたり おこられたり して すごして います のよ  このごろは こないから ぼくは たくしーに のって あそびに いきますと わらじのかい の みなさんから りょうきんが たいへんだから でんしゃで いけと いつも ゆわれてたり きらわれたり おこられたり ぼくは ばか だから しょうがないのです  ぼくの きらいなひとは けんぜんしゃのひとが しょうがいしゃのひとを なんだ かんだといて けちを つけて いじめるひと  ひとに もんく ばかりつけて わるぐちを しゃべているひと  こうゆうひとは ぼくたち しょうがいしゃの かたがたに ために なると おもて いて くださってるから うれしくなり だけど これからは きびしく なるから がんばろうと おもいます  ぼくは いつも みなさんから もうすこし しゃべらないと だめだよ と ゆわれてます  これからは きをつけて しゃべる ように します
 


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 いまの人たちは「電車に乗るくらいかんたんなのに」と思われるでしょう。しかし、当時、車いすで電車に乗ることは、原則禁じられており、改札口も車いすが通る幅はなかったし、もちろんホームに行くには乗客のの手を借りて階段の上がり下がりをしなくてはならず、ホームと電車の段差も甚だしかったのです。野沢はいつもボランティアと一緒に、そして基本的にはボランティアに乗客へ声をかけてもらって、電車を利用していたのでした。
 
 数年後、自立に向かってはばたく家準備会ができたとき、その活動の一つに、電車一人乗りが組み込まれました。駅員の制止や詰問、時には市役所や警察や家族への一方的な連絡などに遭い、怒ったり泣いたりしながら、だんだんに電車を利用し始めていったのでした。

 しかし、このときの野沢は、誰にも相談できない、プロポーズという目的を遂げるために、一世一代の勇気を振り絞り、あえてタクシーを使わず、電車に乗ったのでした。野沢にとって、このときの電車は、決して安上がりだからではありません。行く手を阻む壁として、そこに電車が存在したから、挑む対象として、そこにあったのです。

 その結果は…?月刊わらじ16号に野沢は書きました。

          おれの さいきんのできごと
                                             (のざわ  けいすけ)

 このおれは すこしまえに わらじの かいほうに すきなひと きらいなひと の だいで かきました  うらわにいる あのひとに あこがれて いきがいを かんじて たのしく して いたのです けれど そして まだ に さん ねんは けっこんは しないと いった ので よろこんで いたら つい さいきん あったら もう そろそろ らいねんじゅうに けっこんを するのだから あきらめて くれるように いった  うそだと おもい まして かくにんを するため うらわにいって また きいたら やっぱり ほんとだったので このおれは しょくーを うけて もう これで たのしみも いきがいも なにもかも おわりかなと おもい そして そのばで おれは ばかだから いろいろと もんくをいったら おこってしまい それいらい たまには でんわを かけても まだ おこっているので あんまり はなして くれない  そして すぐに きられてしまう  こうしてよく かんがえて みると おれも わるい ところが あります  このような ことが あって いらい いつも なやんでる    


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 深夜になってとつぜんアパートを訪問して求愛した野沢に対し、「あのひと」はもう結婚が決まっている相手がいることを説明したのですが、納得しない野沢に、堂々巡りのやりとりになり、語気荒くなってゆきます。もう終電もとうに過ぎたころ、野沢は「死んでやる!」と叫んで飛び出していったというのです。これは、野沢の文章にはありませんが、筆者のところに未明、その相手の女性から緊急電話が入ったのでした。

 その後、野沢は朝霞の知人宅で長いこと傷心の日々を過ごた後、自宅へ戻ってきました。生涯ただ一度の荒野へのひとり旅でした。

 愛執のエネルギーを解放させて、駅員と闘い、街に生きざまをさらした野沢。その愛執の根っこは、地域で生きてきたこと、そのものの中にありました。失恋8ヶ月後、月刊わらじ24号に、野沢はこう書いています。

         おれは しせつには はいらない
                                        (のざわ けいすけ)

 おれのいえは きょたくかいぜんが おわり それで おふろは たいまーを まわして せっとをして おけば ひとりで きえるから らくで かんたんです  こうして このほど いえに ふくしじむしょから かていほうしいんのひとが いっしゅうかんに いかいきて せんたくや そうじ などをして それと かいものを して しょくじの したく などをしてくれる  そして ちかいうちに いっしゅうかんに にかいになる  それから かすかべ市にすむ にじゅうなんさいになる ざいたくしょうがいしゃの じょせいが このおれに ひとりで さびしそうな せいかつを しているなら しせつに いったほうが いいじゃないかと いったことが とっても くやしいのです  そして このひとは に さん かい つきあいして あるひ けんぜんしゃのひとに いろんなことを いわれたので もう つきあいを やめるから いえに こないようにと いったそうです  それで よく かんがえてみると ずいぶんと よわむしだ  このようなひとの きもちは おれには ぜんぜん わかりません  そして このひとは しょうらい しせつに はいるそうですけど おれは しせつの かんきょが よくても すすめられても ぜったいに はいらないと おもう 


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 「あのひと」と生きる夢を打ち砕かれた後も、野沢は会の活動に忙しく、夏合宿では茨城の青い芝その他の人々からはっぱをかけられ、冬合宿では介護体制を一人で組んで、風呂の介護体制が抜け落ちるミスをしたり、すったもんだしてきました。
 しかし、当時のわらじの会は平日の活動はなかったから、ふだんは相変わらずひとりぼっちの生活で、そこへたまにふらりと誰かが立ち寄ったり、夜に会議をそこでやるといったようすでした。

 春日部に住む女性障害者はインテリで、前からボランティア団体とのつきあいもあり、都内から転居してきて家族と住んでいるが、よくイベントなどに出かけ、文章も書く人でした。彼女は、わらじの会に関心をもち連絡してきたのですが、地域で共に生きるためには、障害者自身が自分の生活やペースを確立したうえで、健全者の手を借りるべきという信念がありました。彼女が野沢宅を訪ねた時、前触れもなくどやどやと学生や会社員が入ってきたことにショックを受けました。と同時に、誰も来ない時の、がらんとしたさびしい生活にも。

 「このようなひとの きもちは おれには ぜんぜん わかりません」という野沢にとって、ここは生まれてからずっと暮らしてきた土地であり、同じ敷地内の家族以外にも、小・中学校時代の同級生や先輩・後輩が周りに住む濃密な関係の場でした。だから、一人で暮らす家が持てたとき、野沢はそのしがらみを編みなおす拠点ができたと、喜んだのです。「さびしそう」というのは、あくまでも根っこが切れている都市住民の目線でした。

 また、「よく かんがえてみると ずいぶんと よわむしだ」と言い切る野沢は、突然やって来たり、あれこれと勝手なことを言ったりする健全者がいることが、野沢の家を拠点としてしがらみとせめぎあうための大事な条件なのだと考えているのです。

 前掲の「すきなひと きらいなひと」で、すでにそのことに野沢はふれています。

 「ぼくの きらいなひとは けんぜんしゃのひとが しょうがいしゃのひとを なんだ かんだといて けちを つけて いじめるひと  ひとに もんく ばかりつけて わるぐちを しゃべているひと  こうゆうひとは ぼくたち しょうがいしゃの かたがたに ために なると おもて いて くださってるから うれしくなり だけど これからは きびしく なるから がんばろうと おもいます  ぼくは いつも みなさんから もうすこし しゃべらないと だめだよ と ゆわれてます  これからは きをつけて しゃべる ように します」

 「いじめるひと」、「もんくばかりつけてわるぐちをしゃべっているひと」…きらいな人なのだが、うれしくもなり、その意味で「これからはきびしくなるから」「がんばろうとおもいます」と、葛藤する現在を述べています。

 八木下浩一は、よく筆者に、健全者と闘うためには一緒にやらなければならないと語り、青い芝のような障害者だけの組織を基盤とした運動スタイルには常に批判的でした。だから、かって埼玉社会福祉研究会、埼玉障害者市民ネットワーク、社団法人埼玉障害者自立生活協会の代表になり、筆者が事務局長を務めるといった関係も成り立ったのです。

 それに対して、野沢啓祐は、闘いがどうのこうのとは言わず、障害者をいじめる健全者はきらいだがうれしくもあるとして、アンビバレンツな関係の下でせめぎあいます。

 野沢のこうした生きざまは、やがて1981年に、恩間新田の新坂光子・幸子姉妹をはじめとする、長年にわたり家の奥で過ごし、わらじの会の活動で外に出始めた人々が、平日の活動として「自立に向かってはばたく家準備会」を結成するや、彼、彼女らの生きざまとして受け継がれてゆくのです。→
http://yellow-room.at.webry.info/201204/article_3.html
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 同時に、電動かなタイプによる素朴で率直な文章スタイルも、さまざまな新人障害者たちに共有され、地域に向けて発信されてゆきました。

 まさに「愛執」の二文字に凝縮された、決死の電車一人乗車によるプロポーズ大作戦、その敗北を胸に抱きながら、草創期のわらじの会に、「しがらみを編みなおす」こと(→http://yellow-room.at.webry.info/201207/article_5.html
http://yellow-room.at.webry.info/201207/article_2.html)の重要性を刻み付けた、故野沢代表。彼が開墾してくれた土地の豊饒さを、あらためていま感じています。
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→ http://yellow-room.at.webry.info/201207/article_3.html

→ http://yellow-room.at.webry.info/201004/article_5.html

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