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zoom RSS 秋田の山から埼玉に戻り 戦後社会を考える

<<   作成日時 : 2013/08/15 19:33   >>

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50年余り前、来るはずだった秋田駒ケ岳。この写真は1960年7月。

 1960年といえば、60年安保闘争…。筆者の高校からもおおぜいの生徒や教職員達が国会を取り囲むデモに出かけて行った。だが、筆者は中学3年から高校時代を通じて、人生最大のひきこもりの季節にあり、走ること、登ること、読むことに意識を集中していた。のみならず、社会、政治に関わろうとする生徒たちを、心の奥で見下していたように思う。太宰治を心の支えとして、からだを動かしていた。

 だから、6.19安保自然承認を控えた6.15に全学連が国会構内に突入し、それを排除する機動隊との衝突で樺美智子さんが殺されたニュースにも、まるで心を動かされなかった。社会の大きな動きを心から追い出して、初めての東北の山旅のロマンを求めていた。この安保闘争の敗北の中で同年12月自死することになる岸上大作がこんな歌を詠んでいたことなどはなおさら知る由もなく…

  「美化されて長き喪の列に訣別のうたひとりしてきかねばならぬ」

 下の写真は当時のアルバム。そこにこう書かれている。
 「高校生活最後の夏休みに、僕たちは東北の山旅を計画した。そのために、図鑑を用意し予め調べてもあった。 ’灰色の生活’と言われる受験準備生活に入る前のおそらくこれが最後の山行になるだろう。 『残雪と湿原とお花畑』…僕たちはガイドブックでそんな文字を見ながら、行く前から既に何かロマンチックな気分に浸っていた。」
 この山行の全日程は、7月21日〜25日の4泊5日。うち車中2泊。それだけかっての東北は遠かった。

 出発1週前の7月14日、自民党大会で池田勇人が総裁に決定、その祝賀パーティーで岸首相は右翼に左腿を刺される。翌15日、岸内閣は総辞職する。そして出発2日前の19日、池田内閣が誕生し、新内閣の姿勢として「忍耐と寛容」を強調し、運動は急速に退潮していった。
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 高校3年生の筆者の中では、それらすべてが東北どころか、宇宙のどこかのはるかはるか遠い世界の現象としか映っていなかった。そうすることによって、かろうじてバランスを保っていたともいえる。


 まさか、翌年大学に入ってしばらくして、何もわからぬまま学生自治会の一員として「政暴法阻止全都学生決起集会」に出かけ、たった20人ほどのデモで国会に「突入」し、衛視が門を閉めようとしたのであわてて外に出るといったこっけいな若者たちのひとりに自分がなるなどとは、露ほども思わずに。

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その秋田駒ケ岳にやっと、今年8月。連れ合いとともに(上の写真)。

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そして、駒ケ岳山頂で(上の写真)。
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向こうに見える烏帽子岳。昔むかし、高校3年の夏、友と二人であの山頂に夜登りツエルトをかぶって寝た(下の写真)。車中1泊で田沢湖まで行き、キャンプ場で1泊して歩いて乳頭温泉郷へ行き、そこから登り、頂上に着いたときは真っ暗だったのだ。
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50余年前の烏帽子岳頂上の朝。雄大な岩手山が間近に迫るようだった(下の写真)。
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そして、生まれて初めての雪渓とお花畑に感動(下の写真2枚)。千沼ケ原はまだ発見されてから6年しかたっていなかった。
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そのまま駒ケ岳に向かって縦走したが、無数のブヨの襲撃にあい、退却した思い出がある。おそらく、いまの筆者は当時よりずっとブヨには強くなっていると思うが。
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あれから50年あまり後の今回、やっとリベンジ。気持ちよかったルートは、駒ケ岳主峰・男女岳と阿弥陀池をはさんで対峙する小さな尾根・馬の背(上の写真)。
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今年、登山口の田沢湖(上の写真)。昔よりはるかに観光地化していた。後ろの山は駒ケ岳。
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上の写真が50年余り前の田沢湖。砂浜が白かった。
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そして、上の写真が、50余年前、田沢湖展望台から眺めた駒ケ岳。しばらく経って噴火したので、多少姿が変わているかも。

今回乗った田沢湖遊覧船のガイドでちらっと耳にした毒水の話。帰ってから調べたら、秋田県産業労働部だよりにこうあった。
 「田沢湖のクニマスは戦時下の国策による発電所建設に伴う玉川の強酸性水の導入により絶滅した(と言われているj)こと、発電所工事に関わる導水路等の建設において多数の犠牲があったこと、その中に強制労働に従事していた朝鮮人が含まれていたこと、湖畔の姫観音(1933年建立)のほか、田沢地区の田沢寺(でんたくじ)朝鮮人無縁仏慰霊碑が建立(1990年)されていること等の歴史についても語り継いでいくことが大切だと思います。」

 姫観音および田沢寺朝鮮人無縁仏慰霊碑については、河正男(ハン・ジョンウン>オフィシャルHP「境界を越えてー日韓に虹の橋をかけよう」も参照 →http://www.inori-ha.com/index.htm

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往復に利用した秋田新幹線の田沢湖線は土石流により運休していたのを、突貫工事で修復し、出発前日に動いた。徐行区間で外を見ると、線路の盛り土補強箇所がなまなましい(上の写真)。鉄道、工事関係者のみなさんに感謝するとともに、こうした工事でも下請、孫請けの建設会社で働く人々にとりわけ矛盾が集中したのではないかと思いをめぐらす。

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ちなみに、50年余り前は、今回土石流にやられた区間は線路がなかった。大曲から生保内(おぼない)駅(現在の田沢湖駅)だけだった。上の写真は50余年前の生保内駅で。

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上は、1960年7月の時刻表。高校3年生の筆者らが乗った列車は、上野発21:04の奥羽本線 青森行き(ピンクの部分)。福島県から山形県に入るころ目が覚めると、列車内の会話がまったく意味不明で、外国に来たような錯覚に陥ったことを、いまでも懐かしく思い出す。まだまだ、ヴァナキュラーな生活・文化が、それぞれの地域にしっかと根をおろしていた時代。

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当時集団就職列車で東京方面に出てきた人々と、1970年後半に埼玉で親しくつきあい始めることになるのだが…。当時の筆者は知る由もなく…。

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帰って来てから東北、秋田のことを調べていて、むのたけじさんの講演をネットで拝聴。
 実は埼玉新聞サポーターズクラブから、8月3日にむのさんの講演会の案内が来ていた。「希望は絶望のど真ん中に あくなき世界平和を望み、98歳のジャーナリスト・むのたけじが、真のジャーナリズムとは、今問う。メディアのあり方、そして人間解放を「地方・人」から考える…。ぜひ、ご参加ください」と書かれていた。
「希望は絶望のど真ん中に」は岩波新書の著書のタイトル。
行きたかったが、共同連マラソントークとかちあったので断念した。動画で初めてむのさんの語りに出会う。秋田弁がまじる。
http://www.ustream.tv/channel/%E3%82%80%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%98%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A

 むのさんは、昨日まで軍部の言いなりの新聞をつくり、今日はアメリカの言いなりの新聞をつくるという姿勢はもういやだと朝日新聞社をやめた。初めて知ったが、戦争中、薄っぺらになった新聞では読者の投書を数通しか紙面に載せなかったのに、毎日2000通以上の投書が届いていたという。載らないのはわかっていても、それぞれの厳しい現実を伝えたいという読者の思いがあった、しかし新聞はそれに応えなかったとむのさんは語る。

そして、秋田県横手に戻り、週刊新聞「たいまつ」を発行する。同紙はけっきょく30年間発行された。以下むのさんの話。

 その時に、かって中学時代に国語を指導してくれた先生である石坂洋次郎さんのところに報告に行った。すると「やめろ、やめろ、やめろ、半年でつぶれる。あんな秋田みたいな文化の不毛な土地で」と言われた。「でもやめろと言ってもやめないだろうから、創刊号にエッセイを書いてやる。」と。
 始めてみるとやはり文化の不毛なところだった。銀行からの借金でやりくりしていたのに、続いているから、町の有力者の一人は「あいつは毛沢東から金をもらってるんだ」と言いふらす。10日くらい旅行に行ってくると、「毛沢東に会ってきたのか」と話しかけてくる。
 それでもなんとか出し続けて、16年目に「たいまつ16年」という本を出した。後にびっくりするほど売れたが、数ヶ月はまったく売れなかった。その時に、この保守派の有力者たちが「本を出したお祝いをしてやる」と言ってきた。宴会に行って、なんでお祝いしてくれるんだと訊いた。そしたら「たいまつはおれたちの敵だから、つぶすわけにいかねえ」と。「敵だからつぶすわけにいかねえ」 ほんとにそうだと思った。そういえばこれまでも広告でもずいぶん助けてもらったなあと。

 むのさんの有力者との出会いは、筆者自身いくどとなく繰り返してきた体験を想い起させる。

 その秋田弁は恩間新田弁と重なって、単なる意味を伝える記号ではなく、人々の暮らしの歴史の語り。

 暮らしが他者と出会い、せめぎあう中で、互いのことばと動きが光を放ち出す。

 そんな風にして、筆者も幾度となく生きなおすことができた。

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 半世紀前登るはずだった秋田の山にやっと登り、埼玉に帰って、戦後社会を 1960年の自分を考える。

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 筆者のブログは長すぎるというのが定評だ。長すぎついでに、むのたけじ著「たいまつ十六年」(1963年発行)から、1960年を概観した部分を抜粋しておこう。

 「社会は人間の集まりだが、その社会が人間の手綱を離れて人間の願望や予想におかまいなく、まるで彼自身の既定コースを走り続けたような、そんな風に見えた1年であった。」

 「現代史をゆすぶっている、ある一つのことに気づかないわけにはいかない。腐った古いものは急速に朽ち果て、めばえる新しいものは急速に成長し、この力を誰も何物も結局は制止できないことである。」

 「故意か無知ゆえか、このことに目をふさいで『十年後にサイフを二倍にふくらます』 『いや二倍はムリだ』などの論戦に血みちをあげている某国の姿は、まさしくまぼろしを追うものというべきだろう。現在をそまつにするものは、未来に対して不忠誠である。」

 まさに現在にまで刺し貫かれる長い針のようなことばではないか。

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